13
 
  
「この度は僕の不始末で――大変、ご迷惑をおかけしました」
 宮田主税は、深々と頭をさげる上司の背をただ見ていた。
「宮田君」
 隣の阿古屋課長補佐に注意され、慌てて、氷室に次いで頭を下げる。
「た、大変申し訳ございませんでした」
 そうしながらも、宮田の頭は氷室のことで一杯だった。
 ――氷室さんが……。
 いつも貴公子のように取り澄ましていて、市役所の人とは明らかに背負っているオーラが違って、――人に頭を下げられても、下げることのなかった氷室さんが。
「まぁ……謝られてもねぇ」
 椅子にふんぞりかえったままの森田課長は、鼻のあたりを手でいじりながら、どこか尊大な目で氷室をねめつけた。
 五時すぎだというのに、観光局内にある準備室には、ほぼ全員が揃っていた。
 それどころか、観光局各課の連中が、カウンターやキャビネット越しに、興味津々――いや、それみたことか、と言わんばかりの皮肉な視線を投げかけている。
「しかし、とんでもないことをしてくれたねぇ、氷室君。決裁文書をなくすなんて……一体どういうミスなのか、正直、理解に苦しむよ」
「申し訳ありませんでした」
 氷室は再度頭を下げた。
「申し訳ないねぇ……それで済むと思ってるのか!」
 いきなりの怒声。壊し屋、ブルドッグと呼ばれる男の突然の豹変に、宮田はびくっと肩を震わせ、全身からどっと冷たいものが吹き出すのを感じていた。
「あんたがなくした文書はな。沢山の審議会の先生に、苦労して判を押してもらったもんなんだよ。何度も何度も直参して、この頭をさげ、額をすりつけ、土下座してもらった判だ。あんたが、それでも押さないと言い張ったハンコだよ!」
 氷室は無言で頭を下げている。
「ま、あんたに言っても無駄か。霞ヶ関のお客さんには、判ひとつ押してもらうことの重みも、俺たちがそれにどれだけ苦労しているのかも―― 一切通じないみたいだしな」
 森田が鼻で笑ったのを皮切りに、周辺の職員たちが、失笑を洩らした。
 氷室は無言で、頭を下げている。
 宮田は、不意に熱い塊が胸にこみあげたようになって、慌てて瞬きを繰り返した。
 氷室さん、なんで言いかえさないんだ。
 50前の森田からすれば、いくら本省の人とはいえ、32歳の氷室は小僧も同然なのかもしれない。でも――それでも。
 あんたは特別な人なんだ、氷室さん。
 あんたは――あんたは、たかだか市職員相手に、頭を下げちゃいけない人なんだ。
 氷室よりさらに深く頭を下げながら、宮田は悔しさを抑えきれなかった。
 普通に考えたら、決裁箱の中身が自然になくなることなど、あり得ない。それを氷室課長のミスだと思う方がどうかしている。
 騒ぎを穏便に押さえるため、課長は自ら悪役を引き受けたのだ。
 課長ほど立場のある人なら、その罪を隣立つ阿古屋補佐や、部下に押し付けることも、十分可能だったのに。
 それは、誰だって判っていることだろうに――。
「まぁ、いい。少しばかり俺も言いすぎた。許してくれるよな、氷室さん」
 とつぜん、森田の口調が和らいだ。
 壊し屋森田――。
 宮田は、脇の下に、冷たい汗が伝うのを感じた。
 その悪名が、噂でも誇張でもなんでもないことは判っている。宮田の同期がまさに、森田の被害にあっているからだ。
 気に入らない――何が基準か判らないが、森田にそう判断されたら最後、その職員は病休になるまで追い詰められる。
 気に入らない相手の決裁に判を押さない、というのは、実は森田の常とう手段でもあるのだ。それを知っていた宮田は、いっそ氷室の決断に、拍手を送りたいたほどだった。
 決裁に判を押さない。重要な会議からことごとく外す。伝達事項を、その本人にだけ伝えない。人前で叱る。怒鳴る。上司にミスを過剰報告する――。当の森田が、上役のお気に入りだけに、目をつけられた職員には、逃げ場がない。
 頭のいい輩なら、早々に診断書をとって休みに入るが――宮田の同期は、いまだ鬱病から立ち直っていない。
 将来を嘱望されたエリート職員だったが、今は、地下の文書庫で、書類整理をしながらリハビリをしているのだ。
(森田さんが怖いのは、一回怒鳴りつけた後なんだ。その後、猫みたいに優しい声で、とんでもない無理難題を押し付けてくる。……正直、死にたいと思ったよ。あの頃は)
「氷室さん、……実はあんたに、頼みがあるんだよ」
 実際、猫みたいな嫌らしい声で、立ちあがった森田は続けた。
「僕に、できることでしたら」
 氷室が、安堵したように顔をあげる。
 その態度にも、普段の氷室らしからぬ卑屈さがあるようで、宮田は唇を噛みしめていた。
「実はね。今度商工会や実行委員の先生がたの前で、説明しなきゃならんのだよ。ほら、あんたのせいで水に流れた――くだんの、広告の一件だ」
「なるほど」
 宮田は嫌な予感がしたが、氷室は助け舟でも出されたかのように、無邪気に素直な相槌を打った。
「正直ねぇ、俺らも悔しくてならんのだ。皆が知恵を出し合った企画を、いわば、あんたに潰されたようなものだからな。むろん、先生がたもご立腹だよ。何しろ金も知恵も出してもらった。その挙句がこれじゃあ……俺らが土下座して謝っても追いつかない」
「…………」
 氷室は黙って聞いている。宮田にも判るくらいだから、もうその先の展開は読めているのだろう。
「で、あんたにも、その場に同席してもらいたい」
 決めつけるように、森田は言った。
 氷室はただ黙っている。
「なぁ、おえらいさん。あんたは現場を知らなすぎるんだ。現場の連中がどれだけ熱く、どれだけ怒り狂っているか、あんた、想像したこともないんだろう? 無理もない、たかだか30代で……今までずっと、お役所の最上階でふんぞりかえっていた」
「…………」
「ある意味、気の毒な人だよ、あんたは。若いのに苦労を経験できない憐れな人だ。あんたには、ある種の社会勉強が必要だ。一度は現場の痛みを知っておく必要がある。そうは思わないか」
「――氷室さん」
 宮田はたまらず声をあげていた。絶対に行くべきではないし、行く必要もない。
 自分のカテゴリーに敵をひきこむのは、森田のよく使う策略だ。
 すでに現場にはそういう空気ができあがっていて、行けば、氷室が徹底的に吊るしあげを喰らうだけなのだ。
「わかりました」
 が、宮田を制するように、氷室はあっさりと頷いた。
「なんなりと説明しますよ。確かに、説明責任は僕にあると思いますから」
「はっはっはっ、さすがは霞ヶ関のおえらいさんだ。潔い返事じゃないか!」
 ――氷室さん……。
 宮田は両拳を握りしめ、こみあげた悔しさをやりすごす。それはおそらく、隣の阿古屋補佐も同感だと思われた。
 宮田と違い、阿古屋は氷室の結論に異を唱えていた立場ではあるが、直属の上司が――いわば、自分たちの所属する管理課の顔が、こうも公衆の前で貶められたのだ。腹が立たないはずがない。
「まぁ……あれだよ、氷室さん」
 氷室の傍らにのしのしと歩みよった森田は、その肩を抱くようにして耳に唇を寄せた。
「その場で撤回ってのも、ありだと思うぜ」
 撤回――。
 つまり、屋外広告物の特例許可を認めろ、ということだ。
 動かない氷室の背からは、なんの感情も読みとれない。
 森田は、凝視する宮田を威嚇的に一瞥してから、続けた。
「もう意地を張りなさんなや。あんたは色んなセクションから、無駄に恨みを買いすぎた。また似たようなことが起きないとは、誰も保証できねぇ。違うかい?」
「ご忠告、ありがとうございます」
 氷室はやんわりと言い、森田のハムみたいな腕をゆっくりと振りほどいた。
「考えてみますよ。……今度のことでは、そちらにも多大なご迷惑をおかけしましたからね」
 氷室が再び一礼したので、宮田も阿古屋も頭を下げ、準備室に背を向けた。
 背後で喝さいと拍手が聞こえた。
「痛快」
「あの氷室課長が、うちの課長に押されっぱなしだなんてな」
「いつも気どってるけど、こうしてみるとまだまだ幼い課長だよな」
 ――くそ。
 エレベーターホールに向かいながら、宮田は何度も拳を握り締める。 
 くそ。くそ、くそ。
「まぁ、まぁ、君がそんなに熱くならない」
 振り返った氷室が、とりなすようにそう言った時だった。
「――氷室課長」
 非常階段の扉の影から、2人の人影が飛び出してくる。
 氷室が驚いたように眉をあげた。
 宮田も、少しばかりその剣幕には驚いていた。
 飛び出してきたのは、行政管理課法規担当の日高成美――と、管理課の新人、三ツ浦だった。
 
 
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 ――氷室さん……。
 扉の影から、成美は全てを聞いていた。
 ただ、平身低頭して謝罪を繰り返す氷室。それを見守る準備室の連中のしたり顔。
 まるでやくざみたいに、その氷室を恫喝し、無理難題を押し付けてきた森田課長――。
 ひどい。
 絶対にひどすぎる。
 決裁は故意に隠匿された。氷室だってそれは、承知しているはずなのに。
「どうしました」
 が、出てきた氷室の表情は、拍子抜けするほど普段どおりだった。
「す、すみません。あの……和解調書のことで、そちらにお届けにあがったら」
 成美もまた、すぐに我を取り戻していた。
 多分、悔しさで目元も潤んでいたが、それも慌てて、さりげなく瞬きをしてやりすごす。
「宮田さんがこちらだと聞いたものですから。……直接渡して、帰りたかったので」
 自分ながら上手い言い訳だったし、間違いなく訝しい顔をしていた宮田も、それで納得したようだった。
「すみません。日高さん」
 宮田は、駆け寄ってきて、成美の手を握らんばかりの勢いで頭を下げた。
「確かに今は、大切な文書の保管には気を使わなきゃいけない時期ですから。お気づかい、感謝します!」
「……いえ、大変ですね」
 成美にはそれしか言えなかった。自分の立場では――あくまで傍観者としてふるまうしかない。
 が、それでも成美は、横目で氷室を見上げていた。
 氷室さん――。
 平然として見えるが、その実、悔しくないはずはない。彼の立場で――あんな侮辱的な言われようを、沢山の人の前でされたのだ。
「三ツ浦君。他課の方に、余計なお喋りは厳禁ですよ」
 その氷室が、わずかに嘆息して、三ツ浦の背を軽く叩いた。
「日高さんに余計な心配をかけてしまった。ただでさえ、和解調書の件ではご迷惑をおかけしたのに」
「……すっ、すみませんっ、だって僕……」
「帰りましょう。仕事を片付けてしまわなければ」
 そこで、甘えたように氷室を見上げる三ツ浦に、成美は初めて不思議な嫉妬を覚えていた。
 私も、氷室さんの部下だったら――。
 少しは彼の苦労や悔しさを、わけてもらうことができるのだろうか。
 帰りましょう、と優しく背を叩いてもらえるのだろうか。
「日高さん。ありがとうございました」
 氷室は、極めて他人行儀に、儀礼的な微笑を浮かべて言った。
「宮田は今日一日、何もできない状況でしたからね。僕のミスで、今回は本当にご迷惑をおかけしました」
「い、いえ……」
 課長のミスじゃない。
 それは、絶対に違うのに。
 氷室が成美を見てくれたのはそれだけで、管理課の一行が歩き出したので、成美も仕方なく後について歩いた。
 ここは3階で、道路管理課と行政管理課は8階にある。
「氷室課長。本気で会合に……その、出るつもりなのですか」
 エレベーターの中で、気まずげに切り出したのは、管理課課長補佐の阿古屋だった。
 55歳。氷室よりはもちろん、森田課長よりも年上である。区役所管理課補佐を何年も務めた叩きあげだ。
「ええ。そのつもりですよ」
「やめた方がいい」
 氷室を遮るように、阿古屋は言った。
「我々に出る義務もなければ、権限もないんです。そこで何がおきたとしても、氷室課長が勝手にしたことで、済まされてしまう。下手をすれば……」
 そこで阿古屋は、白髪頭をわずかに下げて、迷うような素振りをみせた。
「言質をとられてしまう、かもしれんです」
「広告物、許可のですか」
 氷室はさも意外そうに言っていたが、成美はその態度に、多少のわざとらしさを感じていた。おそらく阿古屋が言った程度のことは、氷室も承知していたのだろう。
「そうです。そのつもりで、森田さんは課長を呼んだとしか思えんのです。私の、穿ちすぎかもしれないですが」
「……まぁ、そうだとしても、出ますよ。僕は」
 氷室は、さほど深刻ではないように髪のほつれに手をあてた。
「しかし」
「いいじゃないですか。どうせ僕は、早ければ来年には国に帰る人間で、ここでどういうレッテルが張られようと、その実痛くもかゆくもない」
 阿古屋が、その刹那、はっと顔を赤くしたのが、成美には判った。
 それだけで管理課内での阿古屋の立ち位置が、窺い知れるようだった。年下の上司に内心抱いていた痛い感情を突かれた――そんな気分だったのだろう。
 その阿古屋を見下ろし、氷室は――実に優しい、女性なら、まず心を掴まれるしかない笑顔になった。
「と、皆さん、そう思われているのではないですか。ある意味、あたりですよ。僕は案外、面の皮の厚い人間なんです。ただし国に戻る云々以前の話として、性格的にですけどね」
 冗談でも言うような軽い口調に、阿古屋が安堵したように相好を崩す。
「だから、誰に何を言われようが、僕なら本当に大丈夫なんです。――それでもご心配、ありがとうございました。ついてきてくださって、心強かったです」
「い、いえ」
「氷室さん……」
「課長……」
 違った。
 わしづかみにされるのは、女だけとは限らなかった。
 成美は、感動の外の部分で、多少唖然としたものを感じつつ、うっとりと氷室を見上げる男三人をそれぞれ見た。
 宮田。三ツ浦。阿古屋補佐。
 今、全員の心が氷室に奪われた瞬間だった。
 人が恋に落ちる瞬間を初めてみた――で始まる漫画みたいな、一種、ファンタジーチックなシチュエーション。なんだか幻想みたいに桜吹雪が舞っているような……。
「さぁ、頑張るぞ!」
「課長、今日から決裁箱は、金庫にきちっと収めましょう!」
「任せてください。僕が、寝ずに泊りこみますから!」
 俄然、もりあがる管理課男性陣――まぁ、いいんだけど、それはどうでも。
 成美の気かがりは他にあった。
(あんたは色んなセクションから、無駄に恨みを買いすぎた。また似たようなことが起きないとは、誰も保証できねぇ。違うかい?)
 決裁文書を盗み出す――。
 一見単純で馬鹿馬鹿しい手口ではあるが、役所人にとっては、その実クレジットカードを奪われるに等しい惨事である。
 もし、森田が今回の成功に気をよくして、同じ行為を繰り返したら?
 確かに今の氷室には、敵が多い。確証がない限り、犯人を特定するのは不可能だろう。
 そして役所内には――いくら氷室らが気を配ろうと、なくしたら致命的な文書がいくらでも流通しているのだ。
 もし悪意をもって、文書を盗み出そうとする輩がいるとすれば、正直、完全に防ぐのは難しいと言わざるを得ない……。
 
 

 「氷室さん」
 エレベーターを降りた成美は、前方から聞こえてきた声に足をとめた。
 ファイルを手にした柏原明凛――成美の、直属の上司である。
 成美は、少しばかり驚いていた。
 氷室さん。
 おそらく咄嗟に出たのだろうが、補佐が氷室のことを、課長ではなく名前だけで呼ぶのを初めて耳にしたからだ。
「柏原さん」
 氷室もまた、少しばかり意外に思ったようだった。
 どちらともなく歩み寄り、2人は肩を並べて歩き出した。
「聞きました。随分脇が甘かったようですね」
「はは……手厳しいな。仰るとおりです」
 気をきかせたように(成美にはそう見えた)管理課男連中がさっさと執務室に戻ってしまったので、その場には成美と氷室、そして柏原補佐だけになる。
「柏原さんは、大丈夫ですか」
「決裁箱のことを言われているなら、私は着任の初めから、鍵をかけるようにしています」
「なるほど」
 傍らで聞いていた成美は、思わず柏原の横顔を見上げていた。
 そうだったんだ――
 確かに柏原補佐の机上は、帰宅時に何ひとつ残っていない。引き出しには全て鍵がかかり、キャビネットにも施錠されている。
「市役所は長閑な場所ですが、以前での習慣ですね。女性同士の足のひっぱりあいは、時にとんでもないところまでエスカレートしますから」
「じゃあ、今回も女性の仕業かな」
「さぁ」
「いずれにしても、僕の脇が甘かった」
「それが判っておられるなら、私に何も言うことはありません」
 氷室は笑い、柏原補佐の人形みたいな横顔も――わずかに笑んでいるように、見えた。
「では、私はこれで」
 軽く一礼して、柏原は氷室に背を向ける。多分、成美に気をつかっている。
 成美も慌てて、「じゃあ、私も」と、補佐の後を追った。
 氷室と2人で残った所で、彼は何も話しはしないだろうし、成美が話せることも、何もない。
 ――補佐は……。
 成美は、無言で前を行く美貌の上司の背を見つめた。
 間違いない。氷室に忠告するためだけに、彼女は足をとめ、わざわざ氷室に声をかけたのだ。
 氷室も、それを求めていたのか。自ら「柏原さんは、大丈夫ですか」と話題を振った。
 2人は、対等なんだ……。
 私とは違う。柏原補佐は、ある意味氷室に頼られ、そして信頼されている。
 補佐は……今回の件では、むしろ森田課長側だったのに。
 少しだけ恨めしい気持ちもしたが、それで補佐を責めるほど、今の成美は馬鹿ではない。仕事の立場と、個人的な感情は別だし――実際柏原は、成美が心の底から憧憬している優れた女性で、正直言えば、自分より何倍も氷室に相応しい女なのだ。
 ――私……。
 かかってこない電話、かけられない電話。
 静まり返った携帯電話を自席で見ながら、成美はそっと息をついた。
 いつになったら、彼の役に立つ女になれるんだろう。
 彼が辛い時、傍で慰めてあげられるような――そんな存在になれるんだろうか。
 自席の電話が鳴ったのはその時だった。
 
 
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「会議室ですか?」
 成美は瞬きをして、綾森美和に向き直った。
 2階にある講堂前の空きスペース。時間外の今、そこは人気もなく静まり返っている。
 電話で綾森課長に呼び出された成美は、今、2人きりでその綾森と向き合っていた。
「そこに、なくなった管理課の決裁文書があるかもしれないんですね」
 念を押すように、成美は訊いた。
「そう。……もし、水と森の博覧会の森田さんが、文書を盗み出した犯人だったらね」
 難しい目で頷きながら、綾森はそう答えた。
「なくなったのは、水森博にとっても大切な文書だったんでしょう? 仮に盗んだとしても、破棄することなんてできないと思う。ほとぼりが冷めるまで、どこかに隠しておくはずよ」
 成美は、胸がドキドキし始めるのを感じた。
 もし――もし、その文書が見つかったら。探し出すことができたなら。
 腕組みをした綾森は、考え込むような目で続けた。
「最近の森田さん、ずっと14階の会議室で仕事をしてたのよね。――隠すとすれば、間違いなくそこだと思う。残業で遅くなった日は、会議室で寝泊まりしてるみたいだし」
 そこでふうっと重苦しい息を吐き、綾森は苛ついたように、自身の髪を指で梳いた。
「あれじゃ氷室君があまりにも可哀想だわ。常識で考えて、決裁がなくなるなんて、あり得ないもの。これで得したのは、言っちゃ悪いけど、水と緑の博覧会の連中だけよ」
 はい、と、思わず成美は力一杯頷いている。
 市の上層部に顔がきく綾森課長が氷室を信じてくれている。今の成美にとって、これほど心強いものはない。
「私がなんとかしてあげたいけど、会議室の鍵は、水と緑の博覧会が終わるまで、ずっと森田さんが預かってるみたいなの。スペアでもないことには、……どうにもね」
 ――鍵……。
「まぁ、私も、隙があったら、会議室に入り込んで探してみるから。日高さんも――心配でしょうけど、これで少しは安心できるかしら」
 肩を叩かれた成美は、唇を引き結んで、頷いた。
「ありがとうございます。……その言葉だけで、本当に十分です」
「ごめんね。鍵があれば、今夜にでも忍び込んでみるんだけど。森田さん、今日は早々に帰っちゃったし。絶好のチャンスではあるんだけど」
 ――鍵……。
 そして、今夜が絶好のチャンス。
 口にするつもりはなかったが、会議室の鍵は、総務局総務課庁舎管理係が管理している。そこには、成美の同期の長瀬可南子がいる。夜間にこっそりマスターキーを借りることなど、可南子を頼れば、なんでもなくできるのだ。
「あの……今の話は、ここだけの話です、よね」
「もちろんよ」
 綾森は、同情たっぷりの眼になって頷いた。
「私も見てたわ。昼間の騒ぎ……。氷室君、大人ね。でも見ていて胸が痛かった。仮にも本省の人が、あんな風に大勢の前で頭をさげるはめになるなんて」
「…………」
「今度の会合、行かない方が賢明だと思うわ。森田さんは仕事はできるけど、とにかく馬力がありすぎて……。目的達成のためなら、手段なんて選ばない人だから、実際、何が起きるか判らないもの」
「そうですね」
 成美は、そっと唇を噛んでいた。
 氷室を、その会合に出させてはならない。
 私には何もしてあげることはできないけど、もし――もし、なくなった決裁が出てきたら、彼は、今の窮地を脱することができるのではないだろうか。
 逆を言えば、私にできることは……それくらいしか、ない。
「ありがとうございます。今の話、私はこの場で忘れます。綾森課長も、忘れてください」
 それだけで、綾森には通じたはずだと成美は思った。
 成美は深々と頭を下げ、綾森課長に背を向けた。
 
 
 
 
 
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。