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「……あの、氷室さん?」
 電話の向こうの相手は、少しだけ怯えているようだった。
「はい」
 携帯電話を持ち直すと、氷室は、ごく自然に受け答えた。
「……ごめんなさい。いきなり電話して……怒りません? 携帯の番号、教えてもらってもいないのに」
 先夜、クラブで隣に座った女だと、氷室はすぐに気がついていた。
 月華。本名はまだ聞いていない。
「いいえ、別に」
 淡々とした口調で、氷室は答えた。
「役所で、携帯の番号はそれなりに出回っていますからね。誰からかかってきても、驚きはしませんよ」
「今、いいですか」
 少し、女の口調が明るくなった。
「お店が今、終わったんです。……あの、ご迷惑でなければ、少し氷室さんにご相談したいことがあって」
「僕に、相談」氷室は無感動に繰り返した。「構いませんが、断ってみないとなんとも言えないな」
「今、誰か、おられるんですか」
「ええ」
 一瞬、電話の向こうから沈黙が返ってきた。
「……それで、ひどく答えが素っ気ないんですね。ごめんなさい。ご迷惑をかけて。またの機会にします」
 答える前に、電話は向こうから切れた。
 氷室は嘆息して携帯をソファに投げると、腕枕をして仰向けになった。
 ――まったく……。
 古い手にもほどがある。店に行った時から勘付いてはいたが、俺がそこまで間抜けだと、本気で信じているのか。あの馬鹿局長は。
 しかし、官能をくすぐる声ではあった。どこかで耳にした声のような気もするが……、それもかなり、遠い昔に。
 考えるのをやめて、氷室は薄く目を閉じた。
 一度、温もりと明るさを知った部屋は、もう氷室が1人きりだった頃とは、何かが違ってしまっている。
(氷室さん。お休みの日くらい窓を開けておきましょうよ。ほら、お日様があんなに明るく出ていますよ!)
「…………」
 氷室は半身を起こし、何かの感情を振り切るように髪に指を差し入れた。
 この馬鹿げた騒ぎが収まるまで、あの子と会わない方がいいことは判っている。
 が、あえて連絡を断っている本当の理由は、多分、そんなことではない。
 相変わらず、電話の一本もかけてこない。
 相変わらず、俺の、一方通行の関係か。
 こんな関係は、――そう、俺にはあまり、相応しくない。
 
 
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「あー、まいった。まいった。まいった」
 血相を変えた宮田が、行政管理課に飛び込んできたのは、その翌週――火曜日のことだった。
 一体どれだけ飲んでしまったのか、成美はまだ、金曜の飲みの余韻を、少しばかり引きずっていた。だるい……ともすれば、ぼーっとして眠くなる。
 結局、店で寝込んでしまった成美は、閉店間際に綾森に起こされ、タクシーで自宅まで送ってもらったのだ。
 本当に綾森課長には、とんでもない迷惑をかけてしまった。今でもまだ信じられない。よりにもよって女性職員の希望の星、綾森課長相手に――。
 禁酒!
 それが、当面の成美の誓いである。
「どうしたんですか」
 成美が応対に立つと、宮田は硬い表情のまま、「……すみません」と一言言った。
「ほんと、マジで大変なことに……。よかったら、柏原補佐にもまじってもらってもいいですか」
「協議、ですか」
 上席の柏原をちらっと見て、成美は訊いた。
 幸い、午前はスケジュールが空いているようだが、忙しい補佐をわずらわせるのは気がひける。
「協議というか、ご報告というか、謝罪というか、お願いというか」
「……はぁ」
「これ、どうなるんですかね。始末書ものでしょうか。一体どうすりゃいいのかな」
 だから、なんだというのだろう。
 成美は眉を寄せて、宮田が喋るのを待つしかない。
 視線を泳がせたり、ぶつぶつ独り言を言っていた宮田は、やがて意を決したように顔をあげた。
「盗難、っていうのかな」
「はい?」
「決裁箱の中がごっそり……。盗難か紛失か微妙ですけど、その中に、先日の和解訴訟の示談書があったんです」
 意味を解した成美は、自分の顔から血の気が引いて行くのを覚えていた。
「まさか、和解調書がなくなったんですか!」
「しっ、まだ、他課にはもれてない話ですから」
「…………」
 数年以上かけて、ようやく得た相手との示談書。
 難しい相手だけに、判を貰う日どりにさえ宮田は気をつかっていた。それを――紛失した。
「……どうなるんですかね」
「どうって」
 前例など、あるはずがない。
 これが民間なら、なくしたで済むかもしれないが――市が、これから公金で和解金を支払うとなると――必ず出納機関で、和解文書を確認してから、ということになるはずだ。
「なくした、じゃ済まないですよ」
「……ですよね」
「探してみてください。決裁なんて、おいそれとなくなるものじゃいないでしょう」
 宮田の顔色は、青ざめたままだった。
「それが、ごそっとなくなったんです」
「どういうことですか」
「課長席の決裁箱から……訴訟関係のが一番痛いですけど、業者の申請書や請求書、取り寄せた見積もりなんかも、何もかも。他課からの事前協議文書もあったりして――今、うちの課、ちょっとしたパニック状態ですよ」
「…………」
 課長席から。
 ――まさか……。
「氷室課長の、席からですか」
「……課長、気の毒に、収入役に呼びだされて……散々ですよ。あの人普段から腰低いけど、それでも国の人なのに……」
 宮田の口調に、悔しさが滲みだす。それは、もっと屈辱的な形で、氷室が謝罪を強いられたということだろう。
 成美は、手足が固く強張るのを感じた。
「氷室さんが、自分のミスで紛失されたということになるんですか」
「そういうことで始末をつけるんじゃないですか。役所内で盗難なんて、ありえないし……警察沙汰にしたくないでしょ。誰だって」
 宮田は言いにくそうに声をひそめた。
「実際、鍵かけてなかったみたいですから、決裁箱」
「…………」
 わざわざ決裁箱に鍵をかけて帰る役付きなど、いたらお目にかかりたいくらいだ。よほどのマル秘文書なら金庫にでもしまうだろうが、決裁箱まで――。
 が、なくなってしまえば、確かに言い訳できないのも現状だった。氷室の管理不行き届き、そう評する以外に、後始末の方法はない。
「なんとか、してみますから、私」
 成美は動揺しながら、言っていた。
「和解調書の代わりになる何かがもらえるかどうか、裁判所に聞いてみます。当面の問題は、和解金の支払いのことだけでしょうから、その期日に遅れないようにしないと」
「その通りです。すみませんっ、日高さん!」
 宮田は、ぴんと背筋を伸ばし、それから深々と頭を下げた。
 
 
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「……宮田さんは?」
 午後五時少し前。
 急いで管理課に向かった成美は、がらんとした執務室に戸惑いながら、手前に座る男に声をかけた。
 声をかけられた男は弾かれたように立ち上がり、妙に人懐っこい目で成美の傍に駆け寄ってくる。
「あっ、日高さん? 僕、日高さんの同期の三ツ浦です。今までずっと気づかれていないようでしたけど、これを機会に覚えていただければ幸いですっ」
 それはお互い様のような気がしたが、「同期でも、研修の班が別れるとなかなか覚えられないですよね」と成美は無難な挨拶をした。
 ひょろっと背が高く、眼と眉が黒々として頬が赤い。いかにも新人まるだしの初々しい表情をしている。言い方は悪いが、年より随分子供っぽい青年だ。
「宮田さんなら、課長と一緒に他課で協議中なんです。ほら、例の盗難騒ぎの関係で」
 その三ツ浦が、声をひそめて、そう答えてくれた。
「そうなんですか……」
 直接渡したかったが、仕方がない。
 成美は、裁判所から取り寄せた和解調書の謄本を取りだした。
「ひとまずこれで、支払いを済ませてくださいと――宮田さんにお伝え願いますか。正本に準じた効力があるそうです。会計室に事前協議する必要があれば、私も出向きますので」
「ありがとうございますっ」
 三ツ浦は封筒を受け取ると、不意につぶらな瞳をうるっと潤ませた。
「本当に今回は、……色んなセクションにご迷惑をおかけしてしまって」
「いえ、いいんです。私の方が、こういうことには慣れていますから」
 本来なら、裁判所への謄本申請は主管課である道路管理課の仕事だが、宮田はそれどころではないようだった。失った資料の再発行願いや謝罪――今日一日、そんなものに、明けくれていたのだろう。
「日高さん」
 立ち去ろうとした成美は、背後から三ツ浦に呼びとめられて足をとめた。
「同期だから、ぶっちゃけトークしても、いいですか」
「?……え」
「ほ、本音でお話しても、いいですか!」
 その、妙な迫力に気圧されたように、成美はぎこちなく頷いた。
 な、なんだろう。よく判らないけど、面白い人だな。三ツ浦さんって。
 カウンター越しに、三ツ浦は、成美の手を握らんばかりの勢いで、続けた。
「氷室課長が決裁文書を紛失させたなんて、ありえません。そんなこと、灰谷市が破たんしてもあり得ない。陰謀なんです。嫌がらせなんです。そうとしか考えられない!」
「私だって、信じてはいないですけど」
 というか、声が大きすぎるんじゃ……。さすがに内容が内容だけに、成美は周囲を見回している。
 視線を下げた三ツ浦は、悔しさを噛みしめるような声で、言った。
「こんな時期だから……言いたくないけど、僕は、水と森の連中の仕業だと思っています」
 水と森の博覧会準備室。
 それは、成美もいったんは想像して、すぐに打ち消した疑念だった。
 いくらなんでも、その程度で決裁文書を盗み出すなんて――あまりにも馬鹿馬鹿しすぎるからだ。
 が、三ツ浦は激しくかぶりを振って、ぐいっと折り曲げた指を、成美の方に突きだした。
「証拠があるんです。か、課長は、偶然だろうって笑っていましたけど!」
 突きだされた手――三ツ浦がその指の間に握り締めていたのは、小さなピンバッジだった。
 しずくちゃんともりぞう君。
 水と森の博覧会のバッジである。
「僕、朝は朝一番に来て、ま、まず課長の机を拭くんです。あっ、誤解しないでください。僕は新人で、それが僕の日課ですからっ」
「――はぁ」
 一体何を誤解すればいいのか、まずそこが判らない成美である。
 何故か頬を赤くそめて、三ツ浦は続けた。
「今朝、見た時、決裁箱はきちんと閉じてありました。でも、なんだか全体的に課長席が雑然としているような気がして――氷室さんは几帳面な人だから、卓上物全ての置き位置が、ほぼ一ミリの狂いもないんです。僕も、その位置をずらさないよう、毎日心をこめて念入りに――って、何を言わせるんですかっ」
 いや、何も……。
 とにかく早く、本題に移行してほしい成美である。
「とにかく、今朝は、何かがずれていたんです。全体的に、おかしいなって思って、それで僕、決裁箱を元位置に戻そうとして――ひどく軽いことに気づきました。で、持ち上げようとしたはずみに、足元にころんって」
「……そのバッジが?」
 こっくりと、三ツ浦は頷いた。
 成美は首をかしげたい気分だったが、それでも、もしその話が本当なら、由々しき事態には違いない。
 つまりそれは、――それを盗難とすればだが、犯行現場に、犯人が落とした証拠物が残されていたということになる。
「それ、……バッチが落ちていたこと、氷室課長に話されたんですか」
「もちろん話しました。でも、一蹴されたんです。かえってわざとらしいから、君1人の胸に留めておきなさいって。でも――でも、本当なんです。本当にこのバッジが、決裁箱の傍から落ちてきたんです!」
「…………」
 まるで一昔前の新興宗教団体が犯した事件のような――。
 確かに、あざといし、わざとらしいし、馬鹿馬鹿しすぎる。
 が、もし本当だったら?
 偶然落とした――とは少しばかり考えにくい。判りやすい推理ドラマじゃあるまいし、犯人が、あまりにもアホすぎる。
 でも、故意に置いておいたのだとしたら?
 仮に、氷室が騒ぎ立てるとする。おそらく十人中十人が、今の成美と同じ感想を持つのではないか。
 わざとらしい――ありえない。
 そうして行きつく先は、氷室が自分のミスを、水と森の博覧会に被せようとしている――そんな結末ではないだろうか。
 ひどい……。
「三ツ浦さん、よく判らないけど、氷室課長の仰るとおりだと思います」
 成美は、煮えたぎるような自分の感情を殺しながら、言った。
 もう間違いない。決裁文書は故意に盗まれたか、隠されたのだ。このバッチを残した誰かの手によって。
 氷室はすぐにそれと気づき、自身の立場の危うさにも気がついた。だから三ツ浦に口止めをしたのだろう。
「もう、いっこあるんです。この事件の犯人が、あいつらだっていう証拠が」
 歯軋りでもするような口調で、三ツ浦が続けた。
「今、課長と宮田さん……水森博準備室に行ってるんです」
「なんで?」
「なくなった決裁の中に、向こうから出てきた屋外広告物の申請書があって……」
「…………」
「審議会の議案の原書とか、……重要なものが沢山混じってたんだそうです。氷室さん、森田課長に呼ばれて、今、謝罪に行ってるんですよ」
 
 
 
 
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。