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 ――氷室さん……。
 噂は千里を走るというけれど、道路管理課と『水と森の博覧会準備室』との戦いの顛末は、その日の午後には庁内中の噂になっていた。
 
「……結局、最後までノーだって」
「業者発注直前だったらしいけど、全部白紙。大変だよな、水森博も」
「森田課長、相当悔しかっただろうけど、なにしろ国の人が相手だから……」
「立場弱いよな、市って」
 
 結局、判を押さなかった。
 それが氷室さんの出した結論なんだろうけど……、こんなに内部を敵に回して、本当に大丈夫なんだろうか。
 少なくとも成美の周辺では、悪者は氷室で、被害者は森田だ。
 それはそのまま、国と市という立場にも置き換えられる。
 30代で課長職についている氷室が、国の要望もあって市に送り込まれたことは誰しも承知していることである。
 当然、同年代の男性職員や氷室より遥か年上の課長らからは、特別視される存在である。いい意味でも、悪い意味でも。
 今回はその悪い面だけが――過剰にクローズアップされてしまったような気がしてならない。
 ――今夜……電話してみようかな。
 どうしよう。忙しいから、不機嫌な対応をされるかもしれない。だいたい向こうから電話がないということは、まだ会えるような状態じゃないということだろうし――。
 ためすすがめつ、彼からの着信がない携帯を見つめながら、成美はふと虚しくなった。
 いつまでたっても待つだけの関係――私と氷室さん。……間違いなく格差カップル。
 こんなので、本当にいいのだろうか。
「日高、電話」
「あっ、はい」
 雪村主査のぶっきらぼうな声で、成美は慌てて顔をあげた。
 定時まであと少し。この時間からの相談電話は、正直勘弁してほしいところである。
「はい、換わりました。日高です」
 が、そんな感情はおくびにも出さず、成美は愛想よく電話に出た。
「日高さん?」
 柔らかな女性の声。
「……はい」
 聞き覚えのない声に、成美は少しばかり緊張して受話器を耳に当て直す。初めての電話の相手なのに、相手の口調には馴れ馴れしさがある。それが少しばかり不気味だったからだ。
「私、覚えてないかな。一度14階の会議室でお会いした……観光企画の綾森です」
「…………っ」
 綾森課長!
 一時ではあるが、氷室との仲を少しばかり邪推した――観光企画課の女性課長である。
 にわかに掌が汗ばんで、心臓がどきどきいいはじめた。
 あれから色々あったから、その存在をすっかり忘れきっていた。
 まさか――まさか、まさかの宣戦布告では?
「……ごめんね。いきなり。少しだけ、話ができないかな」
 が、綾森課長の口調は、あくまで優しく、そして申し訳なさそうだった。
「私と、ですか」
「役所内では少し話しにくくてね。……まぁ、察しがつくと思うけど、噂の的の課長のことで」
 それは――やっぱり。
 成美は、血の気が引くような思いで、強張りながら頷いた。
「どこへ、行ったらいいですか」
 もしこれで、浮気の証拠をつきつけられたらどうしよう。もし、氷室さんと綾森課長の間に関係があったら――。
 その時私は、冷静に、彼を許すことができるだろうか?
 
 
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「ごめんね。急に呼びだして」
 もうお酒なんて一生飲みたくないのに、またお酒。
 成美は冷や汗をかきながら、注がれたビールグラスを持ち上げた。
「い、いただきます」
 断ることなどできやしない。
 なにしろ相手は綾森美和。役職は年齢に妥当な課長級だが、そのバックには、偉大な大物がついているのだ。前市長はもとより、現局長クラスの大半のお気に入りだし、政治家、経済界にも顔がきいていると言う。
 仕事面での実力は知りようがないが、今の年齢で課長職についているとなると、将来――次長級までは上がる可能性はある。
 少なくとも女性職員の中では、トップリーダー的な存在なのだ。
 市内有数の繁華街の小料理屋。
 昨日、沢村に連れて行ってもらった店が男性向けなら、ここは明らかに女性客及びカップル客向けだった。
 密談向け――といってもいいかもしれない。
 小さな小部屋で向かい合って座っている成美と綾森は、今、2人きりだ。
「お、いい飲みっぷり」
 酒豪で知られる綾森は、すかさず空になった成美のグラスにビールを注ぐ。
 見かけはエレガントだが、性格はさっぱりした姐御肌――それも耳にしたことのある噂だが、どうやら本当にそんな人らしい。
「遠慮せずに、飲んで、食べて。あまりいい話じゃないから、そのお詫びよ」
 ざっくばらん――頷いた成美は、あらためて綾森課長の人気の秘密を知ったような気がしていた。
 絶対いい話じゃないと判っているのに、こうも愛想よく振舞われたら、警戒心が薄れてしまう。
「……まぁ、話っていうのは、……その前に聞くけど」
 ひとしきり食べたり飲んだりした後、綾森は、いきなり切りこんできた。
「日高さん、氷室君とつきあってるんでしょう? 道路管理課の」
 来た――。
「はい?」
 この瞬間を覚悟していた成美は、頭の中でさんざんシュミレーションした表情を演じてみせた。さも意外そうに、口をぽかんと開けて瞬きをする。
「私が、ですか」
「そ、あなたが」
 綾森は、成美の演技を見抜いたように苦笑した。
 化粧映えする華やかな顔は、笑うとますます優しくなって、成美はなんだか、いたたまれないような、申し訳ないような気持ちになる。
「誤魔化したい気持ちは判るけど、悪いけど見ちゃったの。先日……14階で」
 やっぱり――。
 動揺を懸命に堪えて、成美はポーカーフェイスで女を見上げた。
「私、書類を届けに行っただけですけど」
「だめね。役所の中であんな真似をしては」
 限界だった。成美は真っ赤になっている。見られていたのだ――扉はきちんと閉じたつもりだったけど。
「課長は、少しふざけていただけだと思います」
 それでも、成美は懸命に言っていた。
「ああ見えて、ちょっとセクハラっぽいことをするところがあって……。あの日は、お互いふざけていて、絡まれただけというか」
 自分のためではなく、何故だか氷室のために、2人の仲は秘密にしておいた方がいいような気がした。これでますます氷室の評判が悪くなれば、彼にとっては踏んだり蹴ったりだ。
「つきあっているとか、そういう関係じゃ、絶対にないです。……私の、一方的な片思いみたいなものですから」
「まぁ……」
 眉を曇らせた綾森は、少し成美に同情したようだった。「まぁ、飲みなさい」
「すみません」
「あなたも馬鹿ねぇ。氷室君みたいな厄介な人に関わるなんて……同じ女として、同情するわ」
「厄介、ですか」
 どういう意味で?
 おそるおそる成美が訊くと、綾森は眉をあげて肩をすくめた。
「とんでもなく女性にもてそうだもの。あんな人を好きになったら、心臓がいくつあっても足りないわ。きっと」
 う、こんないい人を疑ったり、騙したりしてる……私って。
 綾森への申し訳なさから、成美は一気にグラスをあおった。
 明日は金曜。まぁ、いいか。少々酔っ払っちゃっても。
「それが誤解なら、気の毒としか言いようがないけど……。実は、知ってると思うけど、今氷室君、色んなところから恨みを買っちゃってるでしょ」
「……はい」
 水と森の博覧会――。
 そういえば、綾森課長も、水森博と局を同じくする観光局所属だ。
「準備室の森田さんだけじゃなくて、周辺課からも大ブーイング。観光協会や協賛企業からもね。だって企画広告、あとは道路管理課の許可を待つばかりで、まさかノーがつきつけられるとは思ってもみなかったんだもの」
「…………」
 成美は、自分の表情が曇るのを感じた。
「まさか、もう業者に発注していらしたんですか」
「表向きは、まだ。でも見積もりはとってたから、業者サイドにしてみれば走り出していたも同然。なのに道路上の幟や吊るし広告が全面禁止ってことになると……、広告企画は潰れたも同然でしょ」
 ――それは、そうだ。確かに灰谷市の広告条例は、道路上の幟や道路にはみ出る形での吊るし広告を全面禁止としている。街の美観と安全を守るため――そういう理由だ。
「……言いにくいけど、色んな利権が絡んでいる側面もあるから……、氷室課長の意地が、……意地なのかしらね、正義感ともいうのかしら」
 綾森は言いにくそうに言葉を濁した。
 成美には何も言えない。あれほど深い部分で繋がっても、氷室のことが――成美にはまるで判らない。
「いずれにしても、全部潰しちゃったわけ。副市長まで巻き込んで説得したけど、……まぁ、国の人だからね、彼は」
 綾森は軽く嘆息した。
「これが生え抜きの市職員なら、首を飛ばして別の課長に判を押させてたでしょうね。無理矢理休みをとらせて代決という手もあったのかもしれない。代決の線では、墨田道路局長も難色を示したと言うし、結局どうにもならなかったみたいよ」
「そう……なんですか」
「結局は、氷室君の勝ち。広告の件では、プランの練り直しになったけど、……ごめんね。ここからが少し辛い話になると思うけど」
「……はい」
 成美は、ごくりと唾を飲んでいる。
「上の一部の連中が、氷室君の弱みを掴もうとやっきになってる。これは、完全にオフレコだと思って聞いて」
 ――え……。
 顔に出さず、成美は血の気が引いて行くのを感じた。
「そのひとつが、女関係――。ものすごく怖い話だけど、昔の幹部連中が、本省から視察にきたおえらいさんを抱き込む時によく使う策略、……つまり、女を抱かせるって戦法」
「……女、ですか」
「そ。息のかかった店の女をあてがって、骨向きにしちゃうってわけ。氷室君の場合、独身だからそこまでの弱みにはならないと思うけど、ただ、惚れこんで、めろめろになっちゃえばこっちのもんでしょ」
「…………」
 昨日――観光局のおえらいさんと飲みに行ったという氷室。
 成美は嫌な気持ちになって黙り込んだ。まさか、そんなの――氷室さんに限って――でも……。
「で、日高さん」
 綾森は運ばれてきた冷酒を、成美の前に勧めた。
「あなたも、一応マークされてること、教えておいてあげようと思って。役所には色んな目があり、口があるから。……いくら、秘密にしてても、ね」
「…………」
 成美は黙り込み、2度と飲むまいと誓った日本の酒を流しこんだ。
 まさかと思うけど、あの恐ろしい森田課長に――私も、目をつけられているということだろうか。
「ありがとうございます。……気をつけます。でも、基本的に無関係ですから。私と氷室課長は」
「だったら、余計な心配だったわね。さ、飲んで」
「いただきます」
 1時間後、成美はすっかり砕けて綾森課長と向き合っていた。
 話せば話すほど、綾森課長の好感度は上がるばかりで、この小一時間で、成美はすっかり課長のファンになっている。
「でも、素敵よねぇ。氷室君って。日高さんが好きになる気持ちも判るわ、うん」
「素敵すぎるのも問題ですよ。だって、永遠に片思いな気がしますから。綾森課長は、ご主人とは?」
「うちのダンナね、税務署なの。今は単身赴任中――昔は、氷室君よりイケメンだったわ」
「わー、そんな人をゲットできるなんて、綾森課長ってすごーい」
 そんな会話を交わした記憶がある。
「すみません。ちょっと……眠くて、そろそろお暇させてもらっても」
「あら、いいじゃない」
 前のめりになりそうな身体を、そっと課長に抱き支えられる。
 甘い匂い。綺麗な爪。こんなおしゃれなアラファイブに、私も年をとったらなれるかしら。
 そうだ。あれから可南子に教えてもらったんだっけ。正確には、アラファイブじゃなくて、アラファー……じゃなくて、アラフィフ……。
「もう少しこうしていましょうよ。あら、近くでみると本当に綺麗な肌……。ふふ……若いっていいわねぇ」
「わっ、触らないでください。くすぐったい」
 綾森の形のいい胸が目の前にある。左胸の上に、ピンバッチ。しずくちゃんともりぞうくん……。そうか、課長は観光局の人だった。なのに、氷室さんの味方をして、本当にいいの?
「日高さん……? もう寝ちゃった?」
 おかしいな。
 こんなにお酒に弱かったっけ。
「眠っていいのよ。……目が覚めたら、私が家まで送ってあげるから」
 優しく、髪を撫でられる。
 いえ、そこまでお世話になっては……。
 なのにもう、それは言葉として出て来ない。
 判らない。どうしてたかだかお酒に酔ったくらいで、こんなに眠くなるんだろう……。




 
 
 
 
 
 

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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。