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「広告のことだよ」
 成美の疑問に、沢村烈士は、あっさりと答えてくれた。
 午後6時――8階のエレベーターホール。
 帰り際、たまたま見つけた道路管理課の職員が沢村だった。苦手な男だが仕方ない。成美は、何気なく沢村を捕まえ、話のついでのように氷室の話を切り出した。最近氷室課長が水森博準備室と揉めてるって聞きましたけど、――何があったんですか。
「広告、ですか?」
 広告……?
 意外さに打たれて成美は訊いた。エレベーターが一階に着いて、2人はホールに吐き出される。
 沢村は腕時計をちらっと見ると、野性的な目に笑いを滲ませて成美を見下ろした。
「聞いてないの? 氷室サンから」
「……別に、個人的に話すような仲でもないですし」
 おそらく沢村には、氷室との関係がバレている――が、表向き認めるわけにもいかず、成美は歯切れ悪く視線を逸らした。
「今日はえらく、帰りが早いんだね。夜ごと、課長とランデブーでもしてるのかと思ってたけど、氷室サンと喧嘩でもした?」
「……別に、喧嘩するような仲でもないですし」
 もじもじと成美が答えると、いきなり沢村は声を立てて笑いだした。
「あははっ、ま、いいけどね。俺にはどーでも」
 沢村烈士――。
 およそ市職員には似つかわしくない、苦み走ったブラック系のイケメンである。
 年齢はせいぜい20代半ばだろうが、雰囲気はもっと上に見える。何しろ態度も目つきも不遜な男だ。以前――成美の上司、柏原補佐について、とんでもない発言をしたことがあるから、成美はかなり警戒している。
 この身の程知らずの男は、間違いなく柏原補佐が好きなのだ。
 しかも、純粋に好きというより、どこか荒んだ――暗い劣情を抱いているような気がしてならない。
「どうでもいいなら、はぐらかさないでください。広告のことで、一体氷室課長が、何を揉めてらっしゃるんですか」
「うーん。教えてあげてもいいけどさ」
 沢村は再度腕時計に視線を落とした。「あんたにしとくか」
「はい?」
「つきあって。別の子と約束してたけど、なんだか日高さんと飲みたくなった」
「ちょ、いやです。絶対パスです!」
 ぎょっとした成美は全身で拒否を示した。
 沢村みたいな危険な男と――冗談じゃない。ただでさえ、嫉妬深い氷室のせいで、先月は散々な目にあったのだ。
 沢村が苦手以前の問題として、今は氷室に、わずかの隙も見せたくない成美である。
 その成美のパニックぶりを見越したように、くくっとくぐもった声で沢村は笑った。
「大丈夫だよ。課長なら今夜は別の飲みが入ってるから。心配しなくても五時半早々に役所を出てったよ」
「…………」
 そうなんだ。
 別の意味で、成美は自身の顔が曇るのを感じた。
 仕事で忙しいはずの人が――飲み?
「俺だって、踏んだらドカンの地雷原に入るのは御免だからね。課長には絶対に秘密にしといてやるよ。……どう?」
 どうって、……そんな怖い目で睨むように誘われても。
 2人は一階のエレベーターホールで脚を止め、見つめ――もとい、睨みあっている。
 沢村は単に目付が鋭いだけだが、成美は真剣に睨んでいる。どうすべきか。この危険な男の誘いに、のるか、そるか。
 その2人の傍らを、すっと通り過ぎた影がある。
 成美がそれと気づいた時には、もうその後ろ姿はエントランスの雑踏の中に紛れていた。
 ――柏原補佐……。
 成美の所属する行政管理課法務係、課長補佐兼係長の柏原明凛である。
「早いね。最近」
 その背が消えた方を見ながら、沢村が暗い横顔で呟いた。
「なんでだと思う? 実家に妹夫婦が帰ってきてるんだ。そのせいだろうね」
「はぁ……」
 そんなこと聞いてないというか、寡黙な柏原補佐の私生活なんて、その片鱗さえ成美には窺い知れない。
 以前も思った。いったいどうしてこの男は、柏原補佐の私生活に詳しいんだろう。補佐には双子の妹がいて、その夫が自衛隊勤務で……。
 もしかしなくてもその夫とは、補佐が霞ヶ関を追い出されるきっかけになった人で。
 だとしたら、補佐は、双子の妹の旦那さんが好きだということ……?
「つきあえよ」
「えっ」
 沢村の口調が荒くなり、成美は腕を掴まれていた。
「ちょっ、離してください。おかしな噂がたったらどうしてくれるんですか」
「いいじゃん。あんたと課長、どうせ秘密の仲なんでしょ。俺、カムフラージュに使いなよ」
「結構です。そんな厄介なカムフラージュいりません」
 成美の腕を掴んだまま、沢村は国道沿いに出ると、タクシーを呼びとめた。退庁したばかりの職員が、そんな2人をじろじろ見ている。成美は、抵抗するのをやめた。騒げば騒ぐほど、余計な注目を集めると判ったからだ。
「……タクシー降りたら、帰りますから」
 後部シートで、沢村から極端に離れて座りながら、成美はバックを抱きしめた。
「そんなに、子供みたいに畏れなくても」
 沢村はやや呆れ顔だが、成美が本気で畏れているのは、実のところ沢村ではない。この事態を知った後の――氷室の反応なのである。もちろん、そんなことは沢村相手に言えやしないが。
「……あんた、氷室さんに何か言った?」
 ふとその沢村が、窓の外を見ながら呟いた。「柏原さんのことだけど」
「え、は、な、なんの話ですか?」
 成美はみっともないほど無様に動揺し、視線を泳がせていた。
 そうだ。沢村は先月から訴訟担当を外されている。氷室は一言も言わないが、成美の讒言が功を為したに違いない。
 この得体のしれない男が、大好きな柏原補佐に何かするかもしれない――成美はそう思い、だから氷室に進言した。その時は取り合ってもらえないようだったが、結局沢村は、法務絡みの案件から外されたのだ。
「……ま、いっけどね。俺もどっかでほっとしてるし」
「…………」
 どういう、意味?
 訝しむ成美を見下ろして、沢村は野性的な目をすがめて微かに笑った。
「いずれにしても、あんた、人の恋路を邪魔したんだよな」
「…………」
「氷室さんとグルになって。汚ねぇな。それって、ヤな女の典型だろ。言いなりになった氷室さんも氷室さんだけど」
 そんなつもりは――ただ、私は、補佐を護りたかっただけで。
 それに、氷室さんは私の言いなりになるような、そんな甘い人じゃない。
「……課長も課長なりに、考えがあってのことだと思いますけど」
 途端に、沢村の横顔が笑み崩れた。成美は吃驚して息を飲んでいる。
「はっ。馬鹿みたいに簡単だな」
「え……」
「やっぱりあんたが氷室さんに言ったんだ。今、自分で白状したじゃん」
 うっ、と詰まる成美に、沢村はすかさず距離を詰めてきた。
 もう、蛇に睨まれた蛙状態で、成美はただドアに背を寄せて身を縮ませる。
 窓に手を当て、沢村は成美を片腕で囲うようにした。
「……なにもベッドまでつきあえとは言わないからさ。今夜は俺とつきあえよ。そうだな。俺の気が収まるまで、な」
 
 
 
「広告っていったら、屋外広告物だろ。あんた、法規担当のくせに、うちの仕事理解してないの?」
 沢村がようやく口を開いてくれたのは、彼自身の酔いが――成美が見ていて、はらはらするほど進んでからだった。
 連れて行かれたのは雑居ピルの三階にある洒落た和風居酒屋だった。カップル客、というよりは同僚連れや、年配の客筋の方が多いようだ。
 料理は海の幸が売りのようで、刺身も揚げ物も驚くほど美味しい。値段も――そこそこするようだ。沢村の奢りと信じて、成美はひたすら食べ続け、沢村は1人で日本酒を飲んでいた。
「……屋外、広告物ですか?」
 意味が判らず、箸を置いた成美は聞き返していた。
 水と森の博覧会と氷室との繋がり――その、答えがそれだった。
 沢村は新しいグラスをあおり、すかさずカウンター越しの板前に声をかけた。
「同じやつ」
 そして頬杖をついて、どこかぼんやりとした目で続けた。
「そ、屋外広告物。屋外に掲示される広告には、市が定めた基準が適用されるだろ。高さが何メートル以下でないといけない。道路にはみ出す幅は何センチ以下でなければならない。道路上ののぼり広告は基本的に禁止。そういうの、一応うちの課が所管してんだよ」
 その通りだった。法規担当というより、好きな人の仕事の内容を理解していなかった自分が恥かしくなり、成美は視線を下げている。
「水と森の博覧会の宣伝活動がさ、昨日くらいからやたら活発になったじゃん。200日前だとかで」
 運ばれてきた新しい冷酒を、沢村は水でも飲むかのように唇につけた。
「市役所の正面玄関に巨大人形飾ってみたり、役所のあちこちにポスターや紙人形……うざいっつーくらい出してきてるだろ」
「……そうですね。確かに」
 しずくちゃんと、もりぞうくん。
 市役所正門にオブジェが飾られたのも、確か昨日からだ。
「4年も前からの企画なのに、市民の間でこれっぽっちも盛り上がらないから、準備室の連中もやっきになってんだろうね。宣伝の一環として、街中にのぼりだの、吊るし広告だのを出そうって案が出てるわけ。それが皮肉なことに、ことごとく市の基準違反なんだよ」
 ――ああ……。
 なるほど。それでようやく繋がった。
「それを特例で認めろって、準備室の森田課長がガンガンいってくるわけさ。なのに氷室サンがむべもなく却下。そっからだよ、面倒なことになったのは」
「でも、基準違反なら、課長の判断は当たり前なんじゃないですか」
 氷室を庇いたい成美は、咄嗟に思ったことを言っている。
「どんな法律にだって、抜け道ってもんがあるでしょ」
 何言ってんの? と言わんばかりの口調で、沢村は成美を見下ろした。
「その他市長が認める特別な事情、で、局長まで決裁とればいいだけの話なんだよ。そもそも公共目的の看板なんだ。それくらいしたって何の問題にもならないし、誰も困ったりしない」
 まぁ……そうかもしれないけど。
 法規担当としては、なんと言っていいか判らず、成美は曖昧に相槌を打っている。
「だいたい、たかだか屋外広告物だろ? 人の生き死にや生活がかかってるわけじゃない。許可申請に判さえ押せば万事うまくいくのに、何故だかうちの課長1人が、杓子定規に出来ないって言い張ってるのさ」
 嘆息をつく沢村の横顔に、うんざりしたものがわずかに掠める。
 その表情で、成美にも判った。今日、雪村がふと零した言葉の意味が。
 氷室さん1人が四面楚歌――。管理課の職員でさえ、今回の氷室の判断には首をかしげているのだろう。
 呆れたように、沢村は広い肩をすくめた。
「あの素直な人がどうしたんだろうね。局長に説得されても、絶対に首を縦に振らない。今はみんなが、手を換え品を換えして氷室課長のご機嫌をとってる最中だよ」
「ご機嫌、ですか」
「今夜は観光局のおえらいさんと飲み。おとといは副市長一派と。今に市長が出てくるんじゃない?」
「…………」
 なんだろう。それじゃまるで、氷室さんが自分の立場を利用して接待を受けてるみたいな。――もちろん、そんな人じゃないのは、私が一番よく知っているけれど。
「……まぁ、課長は国の人だから」
 無意識に――むしろ氷室を庇う気持ちもあって口に出した言葉だった。
 が、口に出した途端、成美はその言葉が持つ冷たさに気がついていた。
「市の台所事情は他人事。皆、そんな風に思ってるよ」
 沢村はグラスを持ち上げて唇につけた。
「しょせん余所者だから、市の一大イベントに対してあんな冷たい態度が取れるんだろうって。早けりゃ来年の春には、東京に戻る人だからね」
「…………」
 氷室さん……。
 知らなかった。なんだか疎遠になってしまったこの一週間で、彼がそんなトラブルに巻き込まれていたなんて。
 どおりで先日、14階を訪ねた時、彼が微妙に疲れて見えたはずだ。でも一体何故だろう。あの頭がいい人が――沢村が言った程度の方法を知らないとは思えないのに……。

 
 
 
 
 
 
 
                             
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。