|
6
「まぁ、じゃ、お困りじゃないんですか。お食事とか……掃除や洗濯なんかもあるでしょう」
「いえ、不便はないですよ。ハウスキーパーを雇っていますので」
氷室は、こじあけられた綻びから入ってきそうな厄介事を、やんわりと遮った。
「おいおい。氷室君みたいな男が、不便にしていると思うかね」
上機嫌な口調で割り込んできたのは、観光局長の吉野原だった。
市内のナイトクラブ。東京でいえば、銀座あたりの高級クラブになるのかもしれない。
もちろんグレードは幾分落ちるものの、氷室の隣に座ったホステスは、ナンバー1と呼ぶに相応しい容姿の持ち主だった。
この店に連れて来られたのは今回で二度目だが、その時も、確か同じ女が対応に出た。
名前は月華(つきか)――もちろん、本名ではないだろう。少しだけイントネーションに関西圏の訛りが混じっているが、日本人かどうかも定かではない。
すらりとしたモデル張りのスタイルに、色白の瓜実顔。会話レベルは高く、政治経済の話題にも、差しさわりのない程度の意見が言える。いかにも清楚な外見なのに、唇だけがふっくらと濡れて、肉感的に厚い。
なるほど、と氷室は思った。お堅い男を籠絡するのに、これほど手頃な女性もいないだろう。
初見の時は、控え目に微笑みかけてきただけの女は、今夜は不思議なほど積極的だった。終始氷室の隣にはべり、身体の向きはおろか視線すら逸らそうとしない。
いやぁ、氷室君は先日奥さまを亡くされたばかりで、市内のマンションに1人暮らしで……などと、余計なことを喋ってくれた局長は、ますます機嫌よく、続けた。
「これほどの色男で、しかも国のキャリア官僚さんだ。そりゃ色んな女性が言い寄ってくるさ。よりわけが、大変なのではないのかね」
「……はは」
「まぁ、氷室さん否定なさらないと」
そっと肩を叩かれる。巧妙なボディタッチ。香水はゲラン――誘惑の匂いだ。
月華は、長い睫をゆっくりと瞬きさせて、氷室を見上げた。自分の魅力を十二分に知っている女の眼差し。
「私も、本気にしてしまいます」
「それは、困ったな」
「困ってくれます?」
「君をくどく前に、僕が軽薄な男だと思われそうで」
「まぁ」
女が白い頬を赤らめる。さて――と、勝負がついたところで、氷室は腕時計を見た。
「局長、僕はそろそろ失礼します。あまり遅くなるとイプセンの機嫌が悪くなるので」
「ああ……」
と、吉野原が、いかにも機嫌を害した風に咳払いをした。
「猫、だったかね」
「ええ。こちらで飼い始めたんですよ」
氷室はにっこりと微笑んで、立ちあがった。「じゃ、失礼します。今夜はご馳走様でした」
「お送りします」
すかさず月華が立ち上がる。
「氷室さん、また来てくださいね」
「ええ、ぜひ」
視線があうと、先に、観念したように逸らしたのは女の方だった。
それきりサービストークさえ忘れたかのように黙っていた女は、店の外まで来ると、ようやく閉じていた唇を開いた。
「あの……、いつでもいいんです。今度はお一人で、お店に来てもらえませんか」
氷室が何か答える前に、女は慌てたように言葉を継いだ。
「役所の方がご一緒だと、氷室さん、なんだか窮屈そうにみえて。先月、一度、お見えになられたでしょう? その時も同じように思ったんです」
「そうですか。そんなつもりはなかったけどな」
氷室は視線だけで、今、出てきた店を見た。今も誰かが、自分の動向をどこかで窺い見ているのだろう。
「私のような女にこんな風に言われて、ご迷惑ではないですか」
「まさか」
再び女に意識を戻し、眉を上げて氷室は笑った。「君のような美人に誘われて、迷惑に思う男はいないんじゃないかな」
「そうかしら、――でも、氷室さんだけは、他の方と違うような気がするから」
微笑で会話を終わりにして、氷室は近づいてきたタクシーに手を上げた。
まだ、女は物言いたげだったが、氷室はあえて気づかないふりをした。
君は本当に綺麗な人で、東京の一流どころのクラブに行っても、十分通用するレベルだと思いますよ。
でも、残念なことに、僕は外見だけの美人には――もう、心の底から飽き飽きしているんです。
「本当に、待ってますから」
「必ず行くと約束しますよ。じゃあ」
氷室はどの店でも口にする挨拶を言って、タクシーに乗り込んだ。
――着信……。
携帯に履歴が残っていることに気づいたのは、タクシーを降りる直前だった。
イプセン。午後11時23分。
今から10分ほど前のことだ。
氷室はわずかに眉を寄せて、記録された番号にコールした。
こんな時間に? しかも滅多に向こうから掛けてくることがないのに――。
しかし疑問は、すぐに優しい気持ちに変化する。
最近会わないようにしていたから、そろそろ文句のひとつでも言いたくなったのかもしれないな。
何も言ってこないからそのままにしておいたが、少しくらい事情を説明しておいた方がいいだろう。
「はぁい」
が、繋がった携帯から聞こえた声は、思いもよらないものだった。
「…………」
男の声。
どこか、ろれつの回らない声だったが、氷室にはそれが誰の声だか一発で判った。――道路管理課の沢村だ。
「おたく誰? あー、この携帯持ってた子、酔っ払って寝ちゃってさ。今、俺が家まで送ってるとこ」
「…………」
「悪いね。また後で連絡させるよ。じゃ」
「…………」
途切れた携帯を耳から離した氷室は、それをポケットに滑らせて唇に拳を当てた。
事態を認識するまで1分以上、それを受け入れるまでたっぷり3分は要していた。
なるほど。
よりにもよって、沢村か。
担当替え以来、恨みを持たれていたのは知っていたが、つまり、これが奴の意趣返しということだろう。
一体何がどうなっているのか――。とはいえ、ひとつ確かなのは、彼女の携帯電話を沢村が持っていたということだ。
――全く……。
無防備というか不用心というか。性懲りもないというか。
沢村の意図は明確だが、あの子もあの子だ。こんな展開はこれで三度目。一体どうやって、思い知らせてやればいいのか。
「…………」
微かに息を吐いた氷室は、窓の外に視線を向けた。
嫌な感覚だ。
また、こうやって、掴んだと思ったものが、指からすり抜けていく。
こういうのは好きじゃない。
追うのも待つのも、俺は嫌いだ。
こういう関係は……好きじゃない。
7
――頭、痛……。
電話を置いた成美は、頭痛に顔をしかめて、額に手を当てた。
午前10時の執務室。担当局からの簡単な相談案件だったが、正直、何を答えたか記憶にない。
とんでもない二日酔い。
酒に弱い体質じゃないと思っていたのに、こんな経験は初めてだ。
原因は判っている。日本酒だ。
沢村が、いかにも美味しそうに、しかも水みたいにすいすい飲んでいたから、油断した。
板前にも勧められて、つい手を出してしまった2、3杯。
それが、ここまで酷く尾を引くとは……。
「日高さん」
上席の上司の声で我に帰る。
はいっと立ち上がった成美は、小走りに駆けて、柏原補佐の隣に立った。
「この資料だけど、道路管理課の担当に届けてくれる? 議会答弁の参考になると思うので」
今日も、玲瓏たる美貌が冴えわたっている――柏原補佐。
成美は、やや複雑な思いで、その柏原の横顔を見ていた。
柏原補佐も、今は氷室さんの「敵」なのだろうか。なんとなく、同じ霞ヶ関出身の2人には共闘関係があるような気がしたが、それは成美の期待しすぎだったのだろうか。
「なに」
「えっ」
「私の顔に、何かついている?」
冷やかな目が、成美を下から見上げている。成美は大慌てで頭を下げた。
「す、すみません! すぐに管理課に持って行きます」
柏原補佐から書類を受け取った成美は、そのまま廊下に出て、嘆息した。
――道路管理課かぁ。
氷室のいるセクション。
そこに顔を出すのは、普段なら成美のささやかな楽しみだったが、今は、少しばかり憂鬱だ。
結局夕べは、1時過ぎまで沢村と2人でいた。
氷室の話がもっと聞きたかったのもあるが、度を越した沢村の飲みっぷりが心配でもあったからだ。
――沢村さん……。
苦手な男だし、今でも好感はもっていないが、これだけは成美にも判った。
あの男は、柏原補佐が好きなのだ。
その思いが、夕べは何かの原因で行き詰って、それでああも乱れてしまったのだろう。
補佐は、おそらく年下の男の気持ちに気づいてもいない。どころか、視野に入れてさえいないだろう。成美以上に相手にもされていない。想像するだけで、絶望的な片思い――。
その沢村に会うのも憂鬱だったが、もうひとつ――夕べ、気づいてしまったことがあった。
氷室さんにとって、私ってなんだろう。
庁内中に噂になるほどのトラブルに見舞われながらも、それを、一言も打ち明けてはくれなかった。
少なくとも成美は、彼にとっては問題を共に分かち合う相手ではないのだ。
間違いなく恋人ではあるけど、精神的な部分では決して対等ではない。
もちろん、それでいい。自分は彼より10も年下だし、多分、精神的にはもっと離れている。大切に守ってもらえている(時にそうでないような気もするが)関係。それで、十分すぎるはずなのに――。
それなのに、寂しい。
寂しくて、やりきれない気持ちになる。
私がもっと年上だったら――
柏原補佐みたいな大人の女性だったら――
考えても仕方のないことだけど、どうしてもそう思えてしまう。
10という年以上に、彼と自分は離れている。この距離は、いつか埋まる時が来るのだろうか?
「じゃあ、何がなんでも、判を押さないつもりなんですな。あんたは!」
そんな声が聞こえたのは、道路管理課の手前まで来た時だった。
・
・
宮田に訴訟資料を渡すつもりだった成美は、その声で足をすくませていた。
そのダミ声だけで、主は考えるまでもない。水と森の博覧会準備室の森田課長だ――。
「申し訳ない。森田課長」
遠くに見える課長席。立ち上がった氷室は、丁寧に言って、頭を下げている。
「うちの担当から事前説明をさせてもらった通りです。法令違反を特例で認めるわけにはいかない。認めるならば、前提として条例改正が必要です」
「馬鹿な! これだから霞ヶ関の頭でっかちは駄目なんだ!」
森田の大声は、フロア全体に届いているはずだった。庁舎8階にある道路管理課。今もほぼ全員が、課長席でのやりとりを注視している。
「あんた、一体何様のつもりだ? 霞ヶ関のおえらいさんってのは、ええ? 政令指定都市の市長よりえらいのか?」
その剣幕に、成美はただ凍りついていた。
ブルドッグ森田。
壊し屋森田。
その悪名どおりの迫力で、先日、行政管理課で見せた関西商人風の気安さなどかなぐりすてた姿がそこにあった。
迫力のある大きな身体。つりがったキツネ目。よく通る大声。恫喝や威嚇に慣れた口調。
それが、のしかからんばかりに、頼りなげに立つ(傍目にはそう見える)氷室に迫っている。
「いいか。氷室さん。この程度の屋外広告物条例違反は、どの市町村だってやってんだ。我が田の宣伝には黙認してるんだよ。特例の何がいかん。採算をとるためじゃないか。この博覧会に、どれだけ税金をつぎこんだと思ってる。市だって儲けを出さなきゃやってられねぇんだよ!」
「ごもっともです」
氷室はひたすら低姿勢で、傍目にはただ困惑し、押されているようにしかみえない。
「だったら、判を押してくださいや」
そのタイミングを見越したように、森田の口調が優しくなった。
「たかだか広告がなんだってんだ。それが市民の生活と直結してるか? 誰も死んだり困ったりしない。ごく些細なことじゃねぇか」
「それは……」
「な、いいだろ。氷室さん。あんたはどうせ市の人間じゃない。2、3年したら本省に戻るエリートさんじゃないか。少しは地元で汗水たらして働いている、俺らの身にもなってくださいや」
眉を寄せた氷室が、窮したように視線を下げる。
「どれだけ周りが説得しても、あんたは意地になって判を押さない。あんたにも立場がある。それはよっく判ってる」
森田はその氷室の肩を、抱かんばかりの勢いだ。
まるでセクハラ――森田がブルドックか猛獣みたいな外見で、その前に立つ氷室が、華奢で美しい美青年にしか見えないからかもしれない。
「今も、みんなが見てる。そして全員が判ってる。強引な悪役は俺で、あんたは俺に脅される被害者だ。いいさ、俺は市じゃ、壊し屋だのイノシシだの呼ばれている。汚い仕事の引き受け屋だ。あんたのせいじゃない。それはみんなが知っている」
憂いを帯びた双眸を伏せ、氷室は気鬱な息を吐いた。
「あんたの心配事は、全部俺が引き受ける。あんたは、ただ、判だけ押してりゃいいんだよ」
――氷室さん。
彼の正体を知っている成美ですら、思わず駆け寄って彼の前に立ち塞がりたい衝動ににかられるほど、一方的に追い詰められる氷室の姿は、弱々しかった。
それにしても、森田の口の上手さには、成美もうならざるを得ない。
悪役は俺だと言いながら、結局森田は、いいところを取ろうとしているのだ。市職員の大半が、自分の味方だと知っているからだろうが、これでは氷室が、臆病者か卑怯者のように思えてしまう。
「まいったな」
が、やがて顔を上げた氷室は困惑したように微笑すると、おかけになりませんか、と傍らの椅子を指示した。
「いや、あんたがウンと言うまで、俺は座らん」
森田は鼻息を荒くする。「うんと言ってくれ。な、頼むよ。氷室さん!」
「…………」
氷室は再び微笑すると、自分は課長席の椅子に腰を下ろした。
落ち着き払った態度だったが、表情には疲れと翳りが垣間見える。しばらく沈思していた氷室は、やがて気持ちを固めたように顔をあげた。
「もう一度、局長と協議してみますよ」
「本当か??」
ぱっと森田の眼が輝く。
「ええ、申し訳ありませんが、今日のところはお引き取り下さい。うちは民間の業者も出入りする。あまり、耳に入れたい騒ぎではないですからね」
「わかった。さすがは氷室さん。東京の人は出来がちがう。そうだろう。あんたら、いい上司を持って幸せだな!」
振られたのは管理課の職員たちだが、もちろん全員が戸惑い顔だ。
今の会話で分が悪いのは明らかに氷室の方だが、彼らは氷室の部下なのである。どちらの味方をしても、後味が悪いに違いない。
「じゃあな、氷室さん、いい返事を待ってる。俺を裏切らないでくれよ。頼んだぞ!」
のしのしと、まさにイノシシみたいな勢いで、森田が執務室を出て行った。
氷室は静かに立ち上がり、局長室の方に歩いて行く。
その視線が、ちらっと成美の方に向けられたような気もしたが、氷室は特段気にとめた風もなく、扉をノックした後、局長室の中に入ってしまった。
「……はぁ、がっかりだよ……。結局は、判を押しちゃうのかなぁ」
カウンターの内側で、一番手前にいた男が溜息まじりに呟いた。
「僕、内心期待してたんですよ。だって法律で決められたルールですよ? 守るのが当たり前で、氷室課長の言い分は最もだと思います。市だから特別扱いしないって、むしろ、かっこいいじゃないですか!」
成美の同期の――名前は覚えていないが、同期の中では、成美同様、存在感の薄い男である。
「馬鹿だな。法律なんて、ただ守ればいいってもんじゃないだろ。たてまえでいけば課長のやってることは正しいけど、俯瞰的にみれば、バカバカしいよ」
その隣の職員が、疲れたようにそれに返した。
それに呼応するように、上席の――道路管理課の課長補佐、阿古屋(あこや)補佐が口を挟む。
「しかも、言っては悪いが市役所が出す広告だからな。民間と同様に考える方がどうかしているよ。放置されるおそれもなきゃ、美観を害することもない。きちっとした管理のもとに掲出されるんだから」
補佐にまで――
聞き耳をたてながら、成美は深い衝撃を覚えていた。
課長を助けるべき課長補佐にまで、そんな風に思われている。これでは、氷室が、あまりにも気の毒だ。
他の職員も、その会話に混じりだした。
「まぁ、これで課長も判を押すだろ。要は理由をお膳立てしてもらえりゃいいんだ。立場のある人って面倒だよな」
「むしろ、不思議じゃね? なんであの氷室さんが、今の今まで意地を張っていたんだか」
「なにしろ副市長まで出てきての説得工作だったからな」
「よう、どうした」
沢村が、立ちすくむ成美に気づいてカウンターから出てきた。
「聞いてた? 今の。さすがの氷室さんもタジタジだったろ」
にやにやと笑う沢村は、どこか痛快そうだった。
「……今朝はいまいちパワー不足……夕べ、何か心配ごとでもあったかなぁ」
どういう意味? と思った時、カンウター内の男性職員の声が再び聞こえた。
「なんにしても、これで氷室課長も、融通のきかない役人の烙印を押されたようなもんだよ。なんだか複雑だね。部下の俺たちとしてはさ」
|