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「危険ね。それ」
 長瀬可南子の判断は即座だった。
 翌日のランチタイム。同期入庁の可南子はダイエット中なのか、豆乳ドリンクだけを飲んでいる。
「危険って?」
 おずおずと成美は訊いた。
 性格は極めて冷淡。恐ろしいほど割り切りの早い友人に、成美は――自立しようと思いつつ、ついつい依存してしまっているのだ。
 今日も、余計なことと知りつつ、つい訊いてしまっていた。ねぇ、綾森課長ってどんな人? なんだか氷室課長と親しいように見えるんだけど。
 結局、昨夜の約束は反故になった。
 別れてから30分後に氷室から電話があって、仕事が長引きそうだから、またの機会に、と言われたのだ。
 なんとなく――それを浮気だと断定したわけではないが、なんとなく――女のカンというやつで、それは、綾森課長のせいのような気がした。穿ち過ぎかもしれないが、昨夜は、結局綾森課長を送って帰ったのではないかと。
「だから綾森課長のことよ。アラファイブ……っていうの? あれくらいの年の人のこと」
 可南子に逆に問われ、成美は自信なく首を横に振った。
「30代前後はアラサー、40代はアラフォー、50代はなんて言うのかしらね。……てか、こんなもの、一体誰が行くわけ?」
 不意に可南子の指が、テーブルの傍ら――調味料立ての傍に置かれた紙製の人形を持ち上げた。水滴をイメージした擬人化キャラと緑色の象が、いかにもアニメっぽいつぶらな目で笑いかけている。――水と森の博覧会。
「しずくちゃんと、もりぞう君だっけ」
 記憶を喚起しながら、成美は言った。
 昨日から、市役所本庁舎エントランス屋根にも二匹?の人形が飾られていた。
 水滴をイメージした「しずくちゃん」と、森をイメージした「もりぞう君」。
 来年の初夏、灰谷市が、大々的に行うことが決まっている「水と森の博覧会」のイメージキャラクターである。
「世間じゃこれっぽっちも盛り上がってないのに、こんなイベントしてなんの意味があるのかしらね」
 可南子は呆れたように紙人形を指で弾くと、再び成美に向きなおった。
「で、綾森課長のことだけど、あの女が五十代もつれだからって、甘くみてたら痛い目にあうわよ。なにしろ元ミス灰谷市。役所に入ってからずっと前市長の秘書役で、市長退任後は、トントン拍子に出世……。間違いなく容姿と愛嬌と接待だけで上まで行った女だから。しょせん女子短大出のくせに」
「………………」
 相変わらず辛辣な可南子の表現に、早くも成美は言葉を失っている。
「でも……下手したら、氷室さんのお母さんくらいの年だよ」
「フケ専」
「はっ?」
「専は余計かな。きっと氷室課長は、守備範囲がとんでもなく広い人なのよ。だってその中に、成美も入ってるくらいだから」
 ふっと可南子は馬鹿にするように鼻で笑った。
「まだ、騙されてるんだ」
「そんなことないわよ」
 きっぱりと否定する。ほんの少し前までは可南子の言うことは、成美にとって絶対だった。でも、今は違う。今は――可南子より、氷室さんのことを信じているから。
 が、自信たっぷりな口調で、可南子は続けた。
「奥さん死んじゃったけど、それで終わりだと思ったら大間違い。みてなさい。今にザクザク出てくるから。氷室課長の過去の遺物――昔の女」
「…………」
「昔だけならまだしも、現在進行形もいたりしてね。だって彼みたいな魅力的な人に、女がいないと思う方がおかしいもの。そうは思わない? 成美」
「思わないわ」
 一瞬、黙り込んだものの、成美はすぐにムキになって否定した。
「可南子は知らないのよ。課長はそんな人じゃないわ。本当は優しくて――」
 よく判らないけど、時々、とても寂しそうに見えて……。
 なんだか私がいないと、駄目なような気がするんだもの。まぁ、自分勝手な思い込みかもしれないけど。
 ふふっと可南子は、可笑しそうに肩をすくめた。
「成美は、男に免疫がないもんね」
「そ、そんなことないわよ。別に氷室さんが初めての恋人ってわけでもないし」
「恋人、ね」
 言いきった成美が意外だったのか、可南子は呆れたように眉をあげた。
「――ま、今は成美が珍しいから、彼なりにご機嫌をとってるだけだろうけど、直に化けの皮がはがれるわよ。近い内に成美にも判ると思うな。私の言ってることが正しいってね」
 結局、毎度お馴染みの決めセリフを吐かれ、成美は反論のしようもなく、力なく嘆息した。
 
 
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「なんとかならないですかね。あの氷室課長に、なんとか判を押させる論拠みたいなものは、ないでしょうか」
 成美がふと脚を停めたのは、パーティションの向こうで、そんな会話が聞こえたからだ。
 本庁舎8階。総務局行政管理課執務室。
 スチール製のパーティションで仕切られた向こうは、即席の会議室だ。
 成美が所属する法規係に連日持ち込まれる行政執行上の法律相談は、たいていこの会議室で行われる。
 今、その会議室は、ガチャピン篠田――こと、篠田主事が協議中のはずだった。
「論拠ですか……」
 真面目な篠田がうーんと唸っているのが聞こえる。
 なんの話? どう聞いても法律相談と無縁――どころか氷室さんの名前が意味もなく聞こえたような。
「どこですか?」
 やがて協議を終えた篠田が席に戻ってきたので、声をひそめ、成美はそっと訊いていた。
「博覧会準備室」
 うんざりしたように篠田は答えた。
「もしかして、<水と森の博覧会準備室>のことですか」
 しずくちゃんともりぞう君。
 昨日から、やたら色んなところで目につくようになったキャラクターが頭をよぎる。
「そそ。まいったよ。なんだってこんな相談、うちにわざわざ持ってくるかな。上絡みだから、今から柏原さんに相談してみるけどさ」
 上絡み――つまり、少なくとも局次長クラスが出張っている案件である。
 成美はますます胸騒ぎを覚えた。
「……あの、さっき、道路管理課の氷室課長の名前が聞こえたような気がしたんですけど」
「そりゃ、あの人が問題の根源だもん。って、日高さん、知らない?」
「え?」
 成美の反応が意外だったのか、篠田は寝ぼけた目をぱちぱちとさせた。
「日高さん、道路局の担当だったよね。じゃ、今、結構な騒ぎになってるの知らないの? 氷室さんとブルドック森田の戦い」
「え……はい?」
 ブルドッグ森田……?
「別名、クラッシャー森田」
「そそ。悪名高き市役所の壊し屋」
 ここぞとばかりに割り込んできたのは、ダブルオー。大地と織田である。
 大地はいかにもスポーツマン系の浅黒い肌に力強い目元。織田は色白の眼鏡貴公子風。2人ともかっちりとしたシャツにネクタイ姿だが、そのネクタイのドット模様が……なにげに日本を代表するロボットアニメのキャラだったりする。成美は、見ないふりをした。
「どういうあだ名ですか、それ」
「だから壊し屋」
「異動した端から壊してくの。その犠牲者は後を絶たず……」
「死屍累々、だね」
 だから何の話なんだか――。
「パワハラの常習なんだよ」
 ぶっきらぼうに口を挟んだのは、修羅雪姫こと、雪村主査だった。
 顔だけみれば、はっと見惚れるくらいの美少女――もとい、美男子である。
 白い雪肌。墨で履いたような形良い眉。さくらんぼのように色づく唇に漆黒の髪。
 が、その毒舌ときたら――あたかも身体全体が毒林檎でできているようなのだ。
「パワハラ、ですか」
「そ、パワーハラスメントの常習犯。いびられた挙句、病休になった職員は後をたたず……とはいえ、仕事だけはとんでもない馬力でやるからさ。上の覚えはそこそこめでたい。一番やっかいな輩だな」
「そ、そうなんですか」
 パワーハラスメント。組織内での、立場や権力を利用した嫌がらせ。
 セクハラほどの知名度はまだないものの、企業内での大人イジメは、少しずつ社会問題になりつつある。
 そんな話は初めて聞いた。役所には色んな人がいるから、そんなモーレツな職員がいたって不思議はないけど……何故にそんな人と氷室さんが?
 はっと気付いて、成美は顔色を変えていた。
「もしかして、氷室課長がパワハラを受けてるんですか!」
「それ、ないし」
「本省の人間に、たかだか一介の市職員が、逆立ちしたってパワハラなんてできるもんか」
「ばっかじゃね? お前。同じ課長級でも、天地ほど身分が離れてんだよ。市職員と本省のキャリア官僚は」
 ダブルオーの蔑んだようなもの言いに、成美はうっと傷ついている。
「逆を言えば、氷室さんだから、森田さんと対等にやりあってんのかもしれないけどな」
 雪村が冷やかに言い添えた。
「にしても、今回は少しばかり、その氷室さんの立場が悪い……ちょっとした四面楚歌状態ってとこか」
「……どういう、ことですか」
 氷室課長に判を押させる? 
 確か、聞こえてきたのはそんな話だ。
 氷室がいるのは道路局道路管理課だ。どうしてその氷室に判を押させる云々の話が、他課の職員の口から出てくるのか。
 が、その時には、既に全員が着席して無言で机に向かっている。
 成美は遅れて気がついた。総務局の鬼局長、藤家広兼が課長を引き連れて入って来たのだ。
 その背後に、えらく大柄な男がいる。縦にも横にもずっしりと厚みがある大男。まるで柔道選手のような――。
「噂をすれば、森田さんだよ」
 ガチャピン篠田が囁いた。
「あの人が、ですか」
「いよいよ、局長にまで話を持ってきたみたいだね。氷室包囲網を周辺から固めるつもりなんじゃない」
 ――氷室さんの敵……。
 成美は、多少の嫌悪と恨みをこめて、相撲取りみたいな男を見上げた。
 年齢は40後半くらいか。近くで見れば、その巨体は、決して健康的なものではない。単に無精がたたって肥えている、という感じだ。
 はち切れそうな腹に、くくれた顎。目はいわゆるキツネ目で、糸のように細く切れあがっている。
 いかにも悪人面――誰しも、一見してびびってしまうほど迫力溢れる風貌だった。
「柏原君、ちょっといいかね」
 柏原補佐がお気に入りの藤家局長は、大抵の相談は課長をすっとばして補佐席に持って行く。
「はい、なんでしょう」
 すっくと立ち上がる美貌の上司――柏原明凛。彼女も本省・霞ヶ関出身だ。
「悪いね、柏原サン」
 初めて森田課長が声を発した。よく通るダミ声だが、意外なほど愛嬌があって、親しみやすい声音である。
「ちょっと話に入ってもらえませんかね。市の一大事、おたくみたいな頭のいい人の力がどーしても借りたいんですよ」
 市職員というより、民間企業の営業向けなのかもしれない。あっという間に相手を自分のペースに引き込む力がある――そんな喋り方である。
 しかも、決して上から目線の態度ではなく、自分を卑下した慇懃さもあり、それを卑屈に感じさせない明るさも兼ね備えている。
 おそろしげなキツネ目は、にこにこ笑うと垂れさがって可愛らしい。成美でさえ、ふと心を許してしまいそうな人好きのする笑顔である。
「私でよければ……。どこで話しますか」
 鉄面皮の柏原補佐の表情も、こころなしか和らいでいるように見えた。
「ははっ、よかったよかった。藤家局長、じゃ、よろしくお願いしますよ。局長室でやりましょう。こういう話はじっくり作戦を練らないと」
「全く、君には敵わんなぁ」
 と、藤家もなにやら、まんざらではないように苦笑している。
 3人はそのまま局長室のほうに消え、成美は、渦巻く疑問を抱きながら、自分の仕事に戻った。
 よく判らないが、藤家局長や柏原補佐まで、もしかして氷室さんの敵にまわろうとしているのだろうか?
 ――氷室さん、大丈夫なのかな……。
 それにしても、一体何が起きてるんだろう。
 仕事絡みなのは、間違いないが、どうして水と森の博覧会と氷室のセクションが関係しているのだろうか……?
 
 
 
 
 
 
 
 
 
                             
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。