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「まぁ、気のせいじゃないんですか」
 案の定、氷室の返事はあっさりしていた。
「まぁ、そうですよね」
 成美も、それ以上何も言えない。
 午後8時。
 彼が1人で残業している14階の会議室。
 少し躊躇いはあったものの、今夜、成美は久しぶりにその場所に足を踏み入れたのだった。
「あの……お邪魔してごめんなさい」
 これ以上話すこともなくなり、成美は所在なく言った。
「いえ、いいですよ」
 そう答える氷室の目は、今もパソコンに注がれており、成美の話を聞く間も、一度も指を止めなかった。
 ――なんだろう、もしかして不機嫌……?
 30畳程度の小会議室の中は思った以上に殺伐としていて、机に広げられているのはパソコンと数冊のファイルだけである。
 氷室は時折唇に親指を当てながら、パソコンに何か打ち込んでいるようだった。
「あの、コーヒーでも買ってきましょうか」
「いえ、いりません」
 思いのほか冷たい声に、成美は彼と会えた嬉しさが半減していくのを感じていた。
「そ、……ですか」
 やはり来るべきではなかった……と、改めて成美は思っていた。電話でもして事前に機嫌を窺うべきだったのかもしれない。少し話をするだけのつもりで、つい、断りもなしに顔を出してしまったのだが……。
 ストーカーの話なんて、実は成美はさほど気にとめてはいなかった。だって勘違いか誤解に決まっている。まず、自分にそんな事態が起こるなんてあり得ないし、氷室が原因だとしたら、結構心配症のこの人が何か言わないはずがないからだ。
 本当を言うと、氷室と2人になりたかった。
 役所では、いまだ秘密の関係を続けている2人である。自由に会うことはもちろん、気軽に口をきくことさえままならない。
 両思いになった――それは間違いないのに、今みたいな態度を取られると、たちまち成美の自信は霧散する。いまだ、彼から誘われなければ、何も進展かない気がするのは何故だろう。まだ、それでもどこか片思いのような気がするのは。――
「話は、それだけですか」
「え、はい」
 氷室の冷たい言い方に、成美も少しばかり憮然としていた。
「……送ってあげたいのですが、今夜は、どうしても作っておきたい資料があるので」
 時計を見ながら、氷室はわずかに眉を寄せた。
「あと一時間か」
 気が急いているのか、何かに苛立ったような口調でもある。成美は慌てて首を横に振った。
「いえ、そんなこと期待してたわけじゃないんです。ただ、ちょっと話を聞いてほしかっただけで」
「そうですか」
 初めて氷室が、指をとめて顔を上げた。唇に淡い微笑を浮かべている。でも目は少し疲れている。
「だったら、ここへは、あまり来ない方がいいです。僕は誤解されやすい男で、僕みたいな男と噂になっても、あなたが傷つくだけですからね」
 優しい口調だけど、何故か成美は傷ついていた。昼間、宮田が言ったとおりだ。
 優しい声で、すっぱりと否定されると、何故だか必要以上に胸が苦しい……。
「……じゃ、お先に失礼します」
 成美は、失望をありありと顔に出して頭を下げた。
「もう、氷室さんの邪魔はしませんから。ごめんなさい」
「…………」
 わずかに視線を下げた氷室が、軽く息を吐いて立ち上がった。
 いけない。
 はっと成美は、ようやく我に返っている。
 つれなくされた寂しさからとはいえ、ひどくふてくされた態度を取ってしまった。
 この時間は、氷室にとっては紛れもなく勤務時間だ。邪魔しているのは、成美の方なのだ。
「ごっ、ごめんなさい。私、態度悪かったですね。そんなつもりで言ったんじゃなくて」
 が、氷室は何も言わず、黙って成美の傍に歩み寄ると、そっと指をからめてくれた。
 ――氷室さん……。
 長い指は、いつもの彼らしくひんやりと冷えている。それは、自分の体温が高いからそう感じるのかもしれない。
 ぱりっとしたシャツからは、微かに氷室の匂いがする。フレグランスとも汗の匂いとも違う。実際に素肌をあわせた時に知った、彼の香り……。
 おずおずと彼の胸あたりに手を添えると、抱き寄せられ、髪にそっと唇が当てられた。
 嬉しくて、成美はもう、それだけで胸が一杯になっている。
「……今夜、部屋で待っていてもらえますか」
「いいんですか」
 現金なもので、成美は、ぱっと眼を輝かせて顔をあげた。
 くすっと氷室は微かに笑う。
「鍵を渡しておきますよ。よければ、預かってもらっても構わないのに」
「そ、そんな図々しい真似、できませんよ」
 どこが地雷原か判らないあなたの部屋に勝手に入り込むなんて――とは言えなかった。
 それでも嬉しくて、成美は氷室の身体に子供みたいにぎゅっと抱きついている。
 くすり、と氷室が笑う気配がした。
「そんなにされると、空腹には応えるな」
「お食事、まだだったんですか」
「ええ。食べさせてもらえますか」
「はいっ」
 ――嬉しい……。
 じゃあ、今から買い物して、早く彼の部屋に行かなくちゃ。
 どうしよう。何を作ろう。氷室さんは洋食が多いから、今夜は和食にしてあげよう。
 あれこれ考える成美をそっと引き離し、氷室は優しい目で見下ろしてくれた。
「できればここではなく、用事がある時は直接僕の部屋に来てください。役所の中は、ああはいっても誰の目があるか判らないですからね」
「はい……、今夜はごめんなさい」
 ぽんぽん、と頭を軽く叩かれる。その仕草がまた嬉しくて、成美はますます幸せな気持ちになる。
 成美の髪を撫でながら――氷室は言った。
「まいったな。明日はまだ水曜なのに」
「ごめんなさい。お疲れだったら、簡単な食事だけ作って帰りますね」
「ん? そうはいかないでしょう」
「え……」
 見上げた氷室の目に意地悪い笑みが浮かんでいたので、成美はやや戸惑って瞬きをした。
「食事なんて食べなくても一向にかまいませんよ。僕が食べたいのは別のものだから」
「は、はい?」
 ――まさか……。
 成美は身を強張らせた。空腹ってまさか、そっちの意味?
「そんな目で、僕を見ておいて」
 そ、そんな目って、どういう目……?
 ちゅっと、氷室の唇が耳に触れた。
「僕が、欲しいという目ですよ」
「はっ?」
「僕も君が欲しくなった。もちろん、今夜は帰さないので、そのつもりでいてください」
「、……なっ、な、何馬鹿なことを言ってるんですかっ」
 成美は真っ赤になって逃げようとした。その時には、氷室の腕が成美の背と腰に絡んでいる。
「当分、そんな目をさせないようにしなきゃな」
「もうっ、誤解です。そりゃ少しは寂しかったけど――やだっ、もう、どこ触ってるんですか」
「少しは? たった一週会えなかっただけで、もう音をあげたのに?」
 が、楽しそうにそう言った彼が、ふっと視線を険しくさせた。その直後だった。
「おや、氷室君。まだ残業?」
 ガチャリと扉が開いて、柔らかな女性の声が響く。
「もう直、退散しますよ」
 その時には、氷室と成美の距離は、すでに1メートルも開いていた。
 平然とする氷室の背後で、成美は立ちすくんだまま蒼白になっていた。
 しまった、なんて不用心だったんだろう。こんな時間に課長と2人きりでいるところを、誰かに見られてしまうなんて――!
「日高さん。資料、ありがとうございました」
 が、氷室は、なんでもないようにあっさりと言った。いつの間にか彼の手にはファイル。いかにも、それを持ってきてくれたのが成美であるかのような振る舞いだ。
「時間外に、わざわざすみません。柏原補佐に、お礼を言っておいてくださいますか」
「はい。じゃ、失礼します」
 成美もすぐに、心の体勢を立てなおした。
 なるほど、成美の上司である柏原補佐なら、成美と氷室の関係を知っている。ここで名前を拝借しても、何の心配もないだろう。
 出て行こうとする成美を見やり、扉の外から顔をのぞかせた人は、少しばかり意味深な笑いを浮かべた。
 成美はドキリとして目を逸らす。
 直接話したことはないが、名前と顔は知っている。観光局企画課長の綾森美和――本庁舎では未だ珍しい女性課長の1人である。
 褐色の縦ロール髪に、身体にぴったりとはりついたワイン色のスーツ。エレガント、の一言が彼女ほど似合う職員もいない。
 その綾森課長が、成美と入れかわるようにして会議室の中に入っていった。
「本当に毎日熱心ねぇ。よかったら、コーヒーでも買ってきてあげようか」
 意外なほどさばけた口調は、彼女の地なのか。それとも氷室との距離感の現れなのか。
「いや、結構です。もうそろそろ帰るところですので」
 ちらっと振り返って見あげた氷室は、にこやかに女性課長に応対しているようだった。
 2人とも長身だから視線が近い。その距離の近さに、成美は少しばかり妬いている。
 というより、綾森課長のあの目つきって……。
「雨、止みそうもないなぁ。氷室君って車だったよね。家ってどの方角?」
 成美は、なんともいえない胸騒ぎを覚えて視線を下げた。
 まさかと思うけど、誘惑にいってない?
 まさか――まさかね。だって綾森課長の年は氷室より二十近くも上だし、当然、既婚者に違いないし。
 とはいえ綾森美和が、相当魅力的であることだけは間違いない。
スレンダーなボディといい、華やかな顔立ちといい、若い頃は相当の美人だったのだろう。
 成美は再度氷室を振り返ったが、背を向けた氷室が成美を振り返ることは一度もなかった。

 
 
 
 
 
 
 
                             
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。