「……あ、……っ、ん、……い」
「ふ……、はっ、……ふ」
 カタカタカタカタ
「く……あ……、っ」
「は、……っ、はっ……はっ」
 カタカタカ…… ―――はぁ。
 氷室は嘆息して、パソコンのキーを叩く指を停めた。
 うるさい。
 隣人が何をしようが知ったことではないが、こううるさくては仕事にならない。
 なんて面倒なことになったのだろう。せっかくいい場所を見つけたというのに。
 立ち上がった氷室は窓際の方に歩み寄り、雨に濡れた街並みを見下ろした。
 全く、居候だと思って、市の連中も好き勝手にこきつかってくれる。
 こんな夜は、残業なんてせずに彼女と一緒にいたいのに。
(……天……)
 ふと、昏い夜の向こうから、女の声が囁いた。
 甘く、掠れて、幾万の毒を含んだ声。
「…………」
 氷室は嘆息し、額に落ちた髪をかきあげた。
 外は、凍えそうな雨。
 まぁ、いいか。今日みたいな夜は、どうせ誰が傍にいても憂鬱になる――
 
 
 
第3話 セックスと権力のハラスメント
 
 
  

               1
 
 
「どうしたの? 日高さん」
「あ、いえ」
 脚を止めた日高成美は、再度背後を振り返った。
 成美の背後――灰谷市役所一階のロビーでは、職員や来訪者が、普段どおり行き来している。特段、怪しい気配はない。
 ――気のせいかな。
「早く乗って。道路の込み具合によっては間に合わなくなるよ」
 道路管理課の職員に急かされ、成美は市役所玄関前につけられたタクシーに乗り込んだ。
 再度、車の窓越しに、成美は庁舎を振り返ってみる。
 改めて視界に飛び込んでくる市役所正面玄関のエントランス。張り出した雨よけ屋根の上には、緑の象と水滴型のオブジェが飾られている。その傍らの横断幕には、まだ真新しい文字が刻まれていた。――水と森の博覧会まであと200日。
 ――ああ、こんなのあったっけ。
 そう思った時、タクシーが走り出した。
 行き先は簡易裁判所。市が当事者となった損害賠償事件の和解調停のためである。
「すみません。お世話になります」
 我に返った成美が、慌てて挨拶をすると、隣に座る同行職員もまた、慌てた態で頭をさげた。
「いえいえ。日高さんにお世話になってるのはこっちですから」
 同行者は、道路管理課の主事、宮田主計(ちから)。30代半ばののっぽで少しばかり野暮ったい男である。とはいえ、苦手だった前任の沢村烈士に比べれば、とんでもなくマシな男と言えた。
 走り出した車の中、成美は未練のように背後を振り返っている。
 ――気のせいかなぁ……。
 どうも最近、誰かに見られているような気がするんだけど。
「しかし、いつも思うことだけど、若いのに落ちついてるよね、日高さんって」
「――え?」
「調停って聞いただけで、僕なんて相当舞い上がってんのに。さすがは法規担当者ですよね」
 隣でネクタイを直す宮田は、どこか居心地が悪そうだ。
 そうか。と成美は思っている。沢村から仕事を引き継いだばかりだから、宮田には裁判所は初体験なのだ。
「そんな畏れなくても大したことはないですよ。ただ同席して、次回の調停日を決めるだけですから」
 宮田を励ますように成美は言ったが、実際に、大した仕事でもなんでもないのが現実だった。
 調停には市の顧問弁護士も同席する。当たり前だがメインは弁護士で、何も一介の市職員が答弁に立つわけではない。成美の仕事は、次回の調停日を確認して、弁護士と簡単な打ち合わせをするだけの――いってみれば、子供の使いのようなものである。
 しかも、もともとは相当揉めた事件だったらしいが、今となっては和解まで時間の問題だという簡易なケース。しょせん、成美1人が任される案件などその程度のものなのだ。
「まぁ……相手の機嫌を損ねないよう、上手く和解調書にハンを押させるのも、確かに難義な仕事ですけどね」
 成美はそう言い添えた。
 何年もかけて市と相手とで話し合いを進め、ようやく和解にまでこぎつけたのだ。最後の最後で、成美がドジを踏むわけにはいかない。
「にしてもなぁ。今さらですけど、相手も相当のバカですよね。何も馬鹿正直に、壊しましたって申告してこなくてもよかったのに」
 自身の緊張をほぐすためか、宮田はいつも以上に饒舌だった。
「公共工作物って意外に高いんですよね。壊して初めて知る悲劇……橋の欄干なんかを壊しちゃった日には、何百万単位で損害が発生しますもん。僕だったら、絶対にばっくれますよ。ほっといても行政だったら税金で直せるんだから」
「み、宮田さん、問題発言ですよ。それ」
 タクシーの運転手に聞こえることを警戒して、成美は慌てて遮った。
「私たちは、いわば法の番人であり、税金の出納役でもあるんですから。そんなこと言っちゃいけません」
「日高さんは現場を知らないから」
 宮田も失言に気づいたのか、少しだけ声をひそめた。
「公共物に関して言えば、当て逃げ事故のいかに多いことか。真面目に申し出た奴と裁判で争うなんて、なんだか理不尽な気がしたんですよ」
 宮田は、区役所の管理課時代にも、いくつかの道路訴訟事件を担当しており、口では舞い上がってますなどと言っているが、実務経験は遥かに豊かなのだ。
 今回の事件は、道路標識にトラックの荷台がぶつかって破損させたという簡単なものだが、トラック運転手が標識の設置場所の不備や、当時の道路に違法建築物があったことを逆に訴え、数年に渡ってもめていたケースであった。
「そんなに多いんですか」
「ですね」
 微かな苦笑を交えて、宮田は続けた。
「この車が走っている道路にしろ、橋梁にしろ、実は、とんでもない額の税金が投じられているんですが、そんなの、だーれも認識してないんでしょう。平気で落書きしたり、過積載トラックをがんがん走らせたり……」
 今も2人が乗った車の隣を、いかにも重量たっぷりのトラックが通過していった。
「公のものは誰のものでもないって感覚なのかな。壊して、汚して、ゴミも平気で捨てて行く。そういうの、全部税金で後始末してんですけどねぇ」
「まぁ、そうですよね。確かに」
 成美は納得して頷いた。
 宮田の所属する道路管理課は、市道や公園を管理しているセクションである。その仕事の大半をしめるのが、放置自転車、不法占有物等の後始末なのだ。
 いつだったか、道路で跳ね飛ばされた動物の死体の始末にも、市職員が呼びだされると聞いたことがある。そんなの、近所の人か町内がやっているとばかり思っていた成美には、ちょっとした驚きだった。
「ま、不景気だし。今は町内会も半ば崩壊してますからね」
 その話をすると、溜息をついて宮田は言った。
「でも、こんな風にグレーゾーンを何もかも行政に押し付けてたら、いつかこの国の財政、崩壊しちゃうんじゃないかなぁ」
 もう宮田さんったら、冗談ばっかり。
 と、笑えないのが、今の時代なのかもしれない。と、成美は思った。
 税収は減り、支出だけは恐ろしい勢いで増えていく。国だけでなく、地方もそれは同じことだ。
 成美は少しだけ憂鬱になったが、すぐに気持を切り替えた。
「だったらなおさら、私たちは税金の財布の口を締めなきゃ、ですよ」
 そう言うと、何故か宮田は眼をぱちぱちさせて、苦く笑った。
「ま、そうですね。なんだかな、うちの課長と話してるみたいだ」
「はっ、はい?」
 うちの課長――。
 成美は、大慌てで動揺を走らせた表情を元に戻した。
 
 
 な、なになに、なんでそこで氷室さん? 
 宮田が言う課長とは、道路管理課長の氷室天。
 こう言っても間違いはないと思うが、10歳年上の、成美の恋人である。
「あの人クールだからなぁ」
 その氷室と、おそらくさほど年の変わらない宮田は、軽い苦笑いを浮かべた。
「アルカイックスマイルっていうんですか? いつも微笑して黙っておられるから、ついついこっちの口が滑らかになるんですよね。で、たまーに今みたいに言いすぎちゃうと、やんわりと釘をさされたりして」
「……氷室課長、私と同じようなことを言われたんですか」
 おそるおそる成美は訊いた。
 氷室とは、成美の恋人であると同時に、頼もしい兄のような存在でもあり、役所では尊敬できる先輩でもある(単に底抜けにエッチなだけでなく、そういう顔も持っている)。
 彼の思想に影響されているという自覚があるだけに、うっかり疑いを招くような発言をしたのかもしれない。
「ええ、今みたいに僕が、こんな無駄遣い状態が続くと今に財政が破たんするみたいな話をしたら――」
 幸いなことに、鈍い宮田は何も気づいてはいないようだった。
「じゃあ、税金の財布を締めるよう努力したらどうですか、と。僕らは公務員なんですから、市民と同じレベルで愚痴を言ってはいけませんよってね。口調は極めて優しいんですけど、なんでかなぁ。ちょっとグサっとくるんですよね。氷室課長に言われると」
 なんだか判るような気がする成美である。それはおそらく、優しい笑顔の下から彼の本性が透けて見えるから――ではないだろうか。
 宮田さん。あなたは知らないだろうけど、氷室さんって人は、実はとんでもない悪魔的な一面を持ってるんですよ。優しい皮を被ってるだけで、心の中は、冷凍庫より冷え切ってます。取り扱い要注意の、ものすごい危険人物なんですよ。
 もちろん、そんなことが言えるはずもない。
「やっぱ、霞ヶ関の官僚サンは違いますよねー。普段寡黙な人だけど、その実、頭の中じゃ難しいことばっか考えてるんだろうなぁ。あの人の頭の中、どうなってるんだろうって、時々皆で話したりするんですよ」
 ――結構くだらない……割と普通な、いや普通以上のエロおやじ的な……。
 とも、さすがに言えず、成美はただ微笑して「そうですね」と言った。
 身長185センチ、東京大学法学部卒、端麗な容姿はルネサンス期の彫像を思わせ、誰もが振り返るほどの麗しい美貌の持ち主――氷室天。
 32歳、独身。とはいえ、彼に先月まで病身の妻がいたことは、いまや役所内では公然の噂になっていた。
(――やっぱり、女には冷淡な人なんだね)
 成美の同期で、同じ総務局で仕事をしている長瀬可南子もそう言っていたし、その感想は、おそらく大抵の者が同様に持っているはずだった。
 それは、彼が表向き独身で通していたことと、亡き妻の葬式に一日休んだだけで、すぐに通常どおりの仕事に戻ったことに起因している。
 彼と妻のいきさつは――成美だけは知っていたが、むろん、それを他言するつもりはなかった。
 氷室を、その件で問い質したことも一度もない。
 彼がまとう氷のような冷たさ――それは彼の手の冷たさから、成美が勝手に連想したものだが、何故だかその原因が、亡くなられた奥さんにあるような気がしたからだ。
 とはいえ、役所内で――こと道路局内での氷室に関して言えば、意外にも彼は、好人物で知られているようだった。
 温厚で人当たりがいい。無口でシャイ。優しくて押しが弱い草食系男子。成美的には、全てええー? なのだが。
「とにかく氷室課長は、僕らとは思考のレベルが根本から違うんだろうなぁ。だから、ああいうことにもなっちゃうんだろうけど」
 ――え?
 溜息まじりの宮田の呟きに、成美は振り返っていた。
「どういう、意味ですか」
「え、ああ、いや。すみません、独り言ですっ」
 成美の問いに、宮田は何故か大慌てで手を振った。
「あ、着きますよ。日高さん、忘れ物しないように」
 なに、なんだろう。
 ああいうこと――? 氷室さん、課内で何か、トラブルでも抱えているのかしら。
 実のところ、この10日あまり、氷室とは会っていない。
(少しばかり、仕事が忙しくなりそうなんです。申し訳ないのですが、次に会える時は、僕のほうから連絡しますよ)
 2人で最後に会った先々週の日曜日、ふと思い出したようにそう切り出したのは氷室の方だった。
 そうなんだ、と成美は素直に思ったし、その時は、逆に少しばかりほっとした。なにしろ、先月の――全く身に覚えのない浮気疑惑のとばっちりときたら――今思い出すだけで、耳まで赤くなりそうだ。
 とにかく、その時は、単純に氷室から解放されるのが嬉しかったのだ。
 ――てゆうか氷室さん、私を玩具か何かのように思っているんじゃないかしら。何ひとつ逆らえないのをいいことに、あんなことやこんなことまで……。
 恥かしがったり嫌がったりすれば、余計に彼を喜ばせることは判っている。成美ももう学習している。あの人は真性のSなのだ。サディスティックな振舞いに及ぶわけではないが、相手を精神的にいたぶって追い詰めることにかけては、もう……。(もちろん本人は認めないが)。
 とはいえ、思うに電話(用件以外での)やメールがあまり好きではない氷室である。会えないとなると、とことん疎遠になってしまうのが寂しいところだ。
 とりあえず2人の仲は、先月の倉田真帆事件以来落ちついていて、殊更焦ったり心配になったりする必要はないと判っているのだが……。
 ――仕事で、何かあったのかな。……大丈夫かな、氷室さん。
 気にはなるが、宮田にこれ以上つっこんで聞くこともできなかった。下手な態度で、2人の仲を疑われてはいけないからだ。
 まぁ、大丈夫だろう。氷室さんなら。
 成美は気持ちを切り替えて、タクシーを降りた。
 倉田真帆の時もそうだった。やっかいな頼まれごとを引き受けた彼は、結局成美に何ひとつ相談することなく、自分の裁量で何もかも解決してしまった。
 今度も、多分そうするだろう。それが仕事上のことなら、成美が口を出すまでもない。
 清算を済ました宮田が降り、成美たちが乗っていたタクシーが走りだす。そのすぐ後ろに、もう一台、別のタクシーがついている。
 何気なく、二台を見送った成美は、二台目のタクシーの窓から、黒い帽子の女がこちらを窺っているのに気がついた。
 長い髪――黒いつば広の帽子。……
 幻のように見えた横顔は、すぐに速度をあげたタクシーと共に見えなくなる。
「あの、宮田さん」
 成美は咄嗟に、傍らの宮田を振り返っていた。
「役所を出る時、女の人を見ませんでした? ロングヘアで、ちょとオペラハットみたいな帽子を被った」
 成美の質問が意外だったのか、宮田は訝しく瞬きした。
「帽子……? 気付かなかったな。急いでたから、周り見る余裕もなかったし」
「そ、そうですね。ごめんなさい」
 気のせいなのか、偶然なのか――。確か前にも、仕事帰りに同じことがあった。
 バスを待っている時に、視線を感じて振り返り、振り返ると、黒っぽいスカートの端が、すうっと背後の建物の影に消えた。
 昨日も帰宅途中、似たような経験をした。
 そして今日、役所のロビーで宮田の車を待っている時にも。
 黒っぽい服に気がついたのは今日と仕事帰りの二度だけだったが、誰かが自分を見張っているような、そんな不穏な空気を感じたのだ。
 偶然? それとも、誰かが、私の後をつけているの?
「もしかして日高さんのストーカーとか」
 裁判所の自動扉をくぐりながら、宮田が冗談まじりの口調で言った。
「ストーカー?」
 成美はぎょっとして隣の男を振り仰いでいる。
「まさか。相手は女の人ですよ」
「あはは。それはないか。だったら恋のライバルとか」
「ばっ、馬鹿なこと言わないでください。それ、紛れもなくセクハラ発言です!」
「ジョークですよ。そんな本気で怒らないでくださいよ」
 成美の剣幕が面白かったのか、宮田はまだくすくすと笑っている。
 まさか、冗談じゃない。
 ストーカーなんて論外だけど、氷室さん関係で女の人に恨まれるのも、大問題だ。
 どんな形であれ、分不相応な派手なトラブルだけは勘弁してほしい。
「あ、そうだ。日高さん。今、区からこんな相談を受けてるんですけどね」
 宮田は、自分の言った軽口のことなど忘れたように、別の案件について話はじめた。
 頷いて相槌を打ちながら、成美は別のことを考えていた。
 どうしよう。ほぼ気のせいのような気もするけど、氷室さんに相談してみた方がいいのかな………。
 
 
 
 
 
 
 
 
                             
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。