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22
「……ここ……」
成美は、ぱちぱちと瞬きをしていた。
「会議室、ですね」
――氷室さんが、いつも残業に使っていた……。
「そうですね」
氷室はあっさりと言うと、扉の鍵を内側から締めた。
成美はぎょっとして後ずさっている。まさか今? 休日の庁舎に、仕事以外の理由で入りこむのもどうかと思ったのに……。
「そんな怯えなくても」
氷室はやや呆れたようだったが、その目は面白そうに笑っていた。
一夜明けた土曜日の午後。
氷室に誘われて、赴いた場所がここだった。何が起きたかきちんと僕から説明しますよ。ただし、場所を指定させてもらってもいいですか。
――それはどこでもよかったが、なんだって役所の中?
「非常に萌えるシチュエーションではありますが、残念ながら、もうここでは二度としません」
「それ、残念じゃなくて当たり前の感覚ですっ。わ、私だって二度と嫌ですよ」
氷室の大真面目ぶりが、信じられない成美である。
氷室は軽く肩をすくめた。
「夕べは、まぁ、話すどころの騒ぎじゃなかったので」
「は、はぁ」
成美は真っ赤になっていた。別に私が騒いだわけじゃ……単に氷室さんが、なかなか……終わってくれなかっただけで。
氷室はその辺りの椅子に適当に腰掛け、成美も彼にならって、少し離れた椅子に腰を下ろした。
今日の氷室は、一応休日出勤の人らしく、ブルーのシャツと、黒のパンツを身につけている。が、髪に整髪料はついていない。さばけた髪型は、彼をいつもより若々しく見せ――成美は、いつもより、少しだけ親近感を覚えていた。
「実はですね。……どのくらい前になるかな。藤家局長に呼ばれたんですよ。それが面倒事の始まりだったわけですけど」
――藤家局長?
成美の所属する総務局のボス。市役所の鬼局長、藤家広兼のことだろうか、まさか。
「これだけは死んでも口にできませんが、市の幹部の一部に、とある業者から仲介料が渡っている可能性があると。水と森の博覧会絡みでね」
成美は息を引いていた。
それ……。
仲介料って……それ、言葉を換えれば収賄っていうんじゃ。
「森田課長は何も知らずに、彼らの思惑どおりに、その業者と随意契約を結びかけていたという……まぁ、そういう展開だったんでしょうね。藤家さんは、その幹部を穏便に守ってやる必要があった。ただし、どう転んでも犯人隠匿にはならない方法で。それでからくりは理解してもらえますか」
「…………」
成美は黙り込んでいた。
それは――知ってしまうには、あまりに重い……。
むろん、氷室も同じだったろう。ある意味墓場まで持って行こうとしていた秘密に違いない。
それを……私に、打ち明けてくれたのだ。
「だから、広告物を許可しなかったんですか」
「その通りです。しなかったというより、できなかった。藤家局長の命令ですからね」
「…………」
「話はいったん白紙に戻り、疑惑の幹部は受け取った仲介料を、業者に返還するシナリオになっています。ま、どんな形であっても業者に弱みを握られた以上、その幹部は遅かれ早かれ失脚すると思いますけどね」
淡々と氷室は続けた。
「正直、馬鹿馬鹿しい役目だと思いましたが、僕にしかできないと言われればその通りでした。僕以外の誰でも、あの包囲網には音をあげるしかなかったでしょう。何しろ市役所の壊し屋ですか。僕は今回壊される側の恐怖を、存分に味わいましたよ」
そこで笑う氷室の表情ほど、恐ろしいと感じられたものはなかった。
それは絶対嘘だと、成美は思った。
この人のことだ。森田とのやりとりを、内心薄笑いを噛み殺すようにして楽しんでいたに違いない。
それなのに――本気で心配してしまった私って。
「とはいえ、僕にも誤算がふたつありました。ひとつは相手が局を挙げて僕の身辺を探りにかかり、そこにあなたが引っかかったこと」
「…………」
「もう一つは、――これは……言っていいのか、どうか」
氷室の表情が重苦しく翳る。成美は緊張で身を固くした。これ以上恐ろしい事実がでてきたらどうしよう。私、耐えられるだろうか。
「僕ら以外にも、いたんですよ」
「……はい?」
「この会議室で、愛をはぐくむカップルですよ」
「は、はい??」
成美は聞き間違いかと思って瞬きをした。それか、もしくは冗談か。が、氷室の表情は大真面目なままだった。
「最初は、微笑ましく聞いていたんです」
憂鬱気に唇に指をあて、氷室は続けた。
「それがもう、毎日毎晩、しかも声も音も……ちっとも美しさや恥じらいが感じられない。次第に、彼らのショータイムが始まる午後九時が憂鬱でしょうがなくなりましてね」
そ、そんなくだらない下ネタ的な話を大真面目にされても、氷室さん。
「その上、間が悪い事に、会議室から出て行くヒロインと僕が鉢合わせになってしまった。僕は何食わぬ顔で挨拶して帰ったのですが、女の勘は、実に鋭い」
が、氷室はどこまでも大真面目だった。
「その翌週あたりから、僕の残業中に、隣室のヒロインが頻繁に僕を訪ねてくるようになったんです。最初は探りを入れているんだろとう思って、適当にあしらっていたのですが、どうも相手は、本気で口封じに来ていたようで」
「口封じ、ですか」
「僕も、彼らの同類にしようと思ったんでしょうね」
氷室はにっこりと微笑した。
「なかなか上手い手管でしたよ。あるいは僕でなければ――落とされていたかもしれない。相手は、立場のある女性課長で、立場の弱い男性職員だったら、まず、逆らえなかったでしょうから」
それ……。
それは、もしかして。
成美は自分の全身から、血の気が引いて行くのを感じていた。
「まさか……あ、綾森……」
「名前は言いません。でも、日高さんに心当たりがあるのなら、その人には今後一切関わってはいけない」
初めて氷室の眼が、本当の意味で怖くなった。
「その人は、これからも、僕らの弱みを徹底的に掴みにかかってくるでしょう。怖いだろうし、難しいと思いますが、僕らの関係は、すでに一部の職員の間では周知の事実で、僕は、今回の件で役所に沢山の敵を作ってしまった。それを絶対に忘れてはいけません」
「…………」
――私……。
もう、相当な隙をあの人の前で……。
成美は、自分の手足が震えだすのを感じた。
どうしてうかつにも、今まで気がつかなかったのだろう。あの夜、会議室に忍び込んだ夜も、今にして思えば、綾森課長にそそのかされたも同然だったというのに。
「一度、綾森課長と……飲みに行きました」
「知っていますよ」
「……酔い潰れて……介抱してもらって……いい人だと思ったんです」
「…………」
氷室は無言で椅子を寄せると、成美の手をそっと取った。
「僕が悪かった」
――氷室さん……。
「言いたくなかった。君を怖がらせると判っていたから。でも、……」
「いいえ」
成美は急いでかぶりを振った。「言ってくださって嬉しかった。私、気をつけます。氷室さんの足手まといにはなりたくないから」
氷室は静かに微笑すると、成美の頭を抱いて、引き寄せた。
そのまま氷室の身体に身を預けようとした成美は、はっと気付いて顔をあげた。
そんな危うい状況で、さらに最悪のことを、私はしでかしてしまったのだ。
「私が、会議室に忍び込んだことは、あれは、どうなったんですか」
「もう、解決しましたよ」
「どうやって」
「……知りたいですか」
成美が頷くと、氷室は微かに嘆息して腕を離した。
「眼には眼を。互いに弱みを交換しあって、解決しました。正直言えば、他にやりようがなかったのと」
ふっと氷室の眼から表情が消える。
「連中の手口の汚さに、僕自身が限界を超えてしまったからでしょうね」
――どういうこと……?
氷室はポケットから、小さなレコーダーを取り出してスイッチを入れた。
ん? と眉を寄せた成美は、数秒後、真っ赤になっていた。
「ひ、ひひ、氷室さん、これ――」
「隣室の情事の録音――と、馬鹿な森田君はあっさり信じ込んでくれましたが、AVの声を、東京の友人に少しばかり加工してもらっただけの代物です。ちらっと聞いたたけじゃ、まず判らないでしょうけどね」
氷室は楽しそうに肩をすくめ、レコーダーを再びポケットに滑らせた。
「まぁ、この程度の工作が通じる程度の相手だった、というわけですよ」
成美はしばし、ぽかんと口を開けていた。
本当にこの人って、――この人って――どういう人?
「つまり……騙したんですか、森田課長を」
「騙したも何も……」
氷室は冷やかに笑んで立ち上がった。
「相応の報復をしたまでですよ。最も、全く分不相応で、まるで物足りないくらいです。僕の大切なものを汚し、大切な場所を台無しにしてくれた。ここは、君との思い出の場所ですが、もう二度と利用しません。あんな連中と同類にはなりたくないですからね」
氷室が成美を振り返る。
その目は、多分こう問っている。さぁ、僕の手は全て明かしました。あなたはそれでも――僕を嫌いになりませんか。
なれるはずが、ない。
やっぱり氷室さんって底が知れない。でも私、そんな彼がますます好きになってしまったみたいです。神様――これは、いけないことでしょうか。
「さて、そろそろ出ましょうか」
ふっと笑んだ氷室が歩き出す。その背が、ふと、壁のほうを向いたまま、止まった。
「……氷室さん」
「しっ」
睨むように、しばらく壁と向き合っていた氷室は、やがて長い息を吐いた。
「馬鹿は、死んでも直らない、か」
「……どうしたんですか」
「中毒なんでしょうね。本当に憐れな人たちだ」
――はい?
成美の腕を引くようにして、氷室は静かに会議室を出た。
「この鍵は、スペアで作った僕専用ですが、同じ轍を踏む前に捨てた方がいいのかもしれないな」
エレベーターホールまで出た氷室は、独り言のように呟くと、おもむろに携帯を取り出して耳にあてた。
「すみません。十三階の者ですけど、十四階の第七会議室から、どうも妙な声が聞こえるんですよ。まるで男が女を襲っているような」
はいっ?
傍らの成美は、顎を落としそうになっている。
「事件かもしれないので……。はい、ちょっと様子を見てもらえますか。鍵は閉まってますけど、空調は動いているはずです。ええ、そちらでも確認できますよね? じゃあお願いします」
氷室は携帯を切り、それをポケットに滑らせた。「じゃ、僕らは帰りましょうか」
「ひ、氷室さん、今のって」
「ん? 聞いたとおりですよ。会議室をホテル代わりに使っている。市職員として、当然の通報義務を果たしただけです」
「…………」
私は何も聞こえなかった。
この人の耳って、……もしかして。
「デビルイヤーですか」
「はい?」
そうデビルイヤーにデビルアイ。今回の氷室さんは吸血鬼じゃなくてデビルマン――悪魔だった。
裏切り者の名を受けて、全てを棄てて戦う男。
なんだか主題歌まで、あっている。
氷室に腕を引かれながら、成美はまだ、未練のように遠ざかる会議室を振り返っていた。
いくらなんでも、そこまでしなくても――確かに気持ちの悪い話だけど、なんだかそれじゃあ、中の人たちが気の毒すぎる。
「どうなるんですか」
エレベーターに乗り込みながら、成美は氷室に聞いていた。
「不倫してたことがばれちゃったら……、中の人たち、どうなっちゃうんですか」
「どうなるか、ですか」
氷室は成美を見下ろして、実に優しく――優雅に、あたかも一切の怒りを知らない聖職者のように微笑して、言った。
「そんなこと、僕の知ったことじゃありませんよ」
23
「……沢村さん?」
庁舎のエントランスで足を止めた人は、少し訝しげに、綺麗な目をすがめた。
「どうも」
沢村烈士は、心持ち視線を下げて挨拶をした。
「担当が変わったと、氷室課長から聞いていたけれど」
柏原明凛は、それでも、特段気にすることなく、沢村が開けた車の後部シートに滑り込んだ。
「宮田さん、今日は課長と別件で。……前任の僕が、代理です」
「そう」
会話はそれだけで、沢村が運転席に乗り込んだ時、すでに後部シートの女性は手元の書類を手繰っていた。
「……このまま、どっかに行きましょうか」
唇を掠めた言葉は、多分、彼女の耳に届いてもいない。また、届ける勇気も、今の沢村にはないままだった。
沢村は微かに息を吐くと、車のアクセルを踏み込んだ。
バックミラーに見える人は、周囲には一切の関心を払わないまま、一心に訴訟資料を読みこんでいる。
俺、あんたのことが、好きなんだ。
でも、おつきあいしたいとか、そういう健全な好きじゃない。そういうのは、俺、一生無理だから。
あんたを、俺のものにしたい。
どうしても――したい。どんな手をつかっても、欲しい。抱きたい。
いっそ、このまま……。
「いい天気ね」
「は、はい?」
沢村は無様なほど動揺して、思わずブレーキを踏みかけていた。
い、いきなり声をかけてくんなよ。
てか、あんたの視界に、俺って人として入っていたのかよ。
一瞬車が蛇行して、柏原が驚いたように運転席のシートにすがる。それだけで、沢村の心臓は飛び出しそうになっていた。
「……意外と、運転が下手なのね」
「す、すみません」
会話はそれきりだった。
再び柏原は書類に視線を落とし、沢村は、自分の意識から彼女を消そうと心掛けた。
が、それは無理な注文だった。
今まで何度もそうしようと思ってできなかった。くそ、俺としたことが――こんな風に誰かに心を奪われたのは初めてだ。
しかも相手は、俺の名前さえ覚えているどうか定かではない、精巧なロボットみたいな秀才女――。
「ありがとう」
やがて車が裁判所につくと、後部シートから降りた柏原は、冷淡にしか見えない目で沢村を見上げた。
ご苦労、じゃなくてありがとうか。その程度には降りてきてくれたのかな。この高い所にいる女も。
「車、駐車場に停めてきますんで」
沢村は素っ気なく言って、自分の感情が顔に出る前に再び運転席に乗り込んだ。
ありがとうって……。
なんだか、口元が緩み、頬のあたりが熱くなる。
そんな言葉程度で、幸せ感じる俺って……実は結構馬鹿なのか?
にしても、今日は一体なんだろう。柏原補佐との同行を自分がいいつかったのは間違いなく管理課長――氷室天の差しがねだが、それは、どういう思惑なのか。
日高成美を連れ回して、氷室から電話をかけさせた夜。もちろん、履歴は綺麗に消去したから、日高成美は気づいていないだろうが、当然氷室には自分の意図が判っていたはずだ。
なのに、その夜の報復攻撃どころか、てっきり危険人物として離されたとばかり思っていた柏原明凛と、こうして――2人になる機会を作ってくれたとは。
が、車を停めて、柏原が待つ裁判所のエントランスに駆けた沢村は――そのまま、凍りついていた。
「沢村くーん。どうしたの? 久しぶりー」
えっ、なんだってこのタイミングで――
手を振って駆けてきた女は、馴れ馴れしく沢村の腕を掴んで引き寄せた。
その少し離れた場所では、柏原が訝しげにこちらをみている。
顔も身体も肉感的な女は、少しばかり恨みがましい目で、沢村を軽く睨んだ。
「最近、電話くれないね」
「……まぁ、ちょっとな」
うるせぇとか、馴れ馴れしくすんなとか、その、いつもの言葉がでてこない。
じっと、こちらを見ている、針みたいな柏原の目を感じるから。
裁判所で臨時職員をしているこの子とつきあった――というより、二度ほど遊んだのは、もちろん、沢村にとっては、行きずりの、まさにどうでもいい相手だったからだ。
それと、少しばかり説明し難い理由――いってみれば、氷室への対抗心からである。
以前沢村は、この裁判所に、着任したばかりの氷室を連れて赴いている。その当時、彼女――今沢村にくっついている女は、氷室の携帯番号を聞き出そうと、それで意図的に沢村に近づいてきたのだ。
だから、逆手にとって、誘惑して、落とした。それが、そもそももの慣れ染めだ。当然双方遊びのつもりだし、あと腐れのないセックスフレンド。
相手も、もちろん沢村の気持ちを知っているはずなのに、今になって、一体なんの嫌がらせだろう。
「こっちから掛けても電話に出てくれないしー。待ってるから、また暇だったら部屋に泊めてね」
「……は、はは」
ねぇだろ。泊めたことなんて!
ひらひらっとスカートを翻して、悪夢みたいな女が駆け去っていく。
沢村はぎこちなく柏原の隣に歩み寄り、さらにぎこちなく視線を逸らした。
「…………」
「…………」
今の、どう思われたろう。
最低だとか、女にだらしないとか、――もしかして、微妙な嫉妬……とか。
「……まぁ」
ふっと女の口から声が漏れる。ドキッとしたその刹那、沢村の心臓はおかしいほど跳ねあがっていた。
「女性絡みで、裁判沙汰にだけはならないように」
それだけだった。
腕時計を見て、何事もなかったように柏原補佐は歩き出す。
――え……。
一時、ぽかんと口を開けていた沢村は、すぐに我にかえって、美貌の上司の後を追った。
そうか。判ったよ。これがあんたの報復攻撃だったのか、氷室さん。
にしても、俺があの子とそういう関係になったって、何時の間に掴んでたんだ。あの人は。
その報復攻撃は、不発だったのか、成功だったのか。
ますます遠ざかる柏原との距離を感じつつ、沢村は恨めしく天を仰いだ。
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