21
 
  
「……氷室さん」
 成美がおずおずと声をかけると、それに気づいて顔を上げた人は、わずかに驚いたようだった。
 黒のトレンチコートを羽織り、片手に光沢を帯びた革製の鞄を持っている。
 月明かりが、彼の左側だけを照らしている。しんしんと冷えた夜。蒼みを帯びた氷室の横顔は、ぞっとするほど美しく見えた。
「……私、どうしても、直接謝りたくて」
 足を止めた氷室の前に、成美はぎこちなく歩み寄った。
 氷室のマンション――その部屋の前。
 エントランスのセキュリティゲートだけは、教えられた暗証番号で通った。が、部屋にあがる勇気だけがないまま、時計と月を交互に見ながら、成美は彼の帰りを待っていた。
 何時でも――待つつもりだった。
「……ごめんなさい……」
 氷室は何も言わず、少し距離を置いて成美を見ている。
 彼の表情は、水のように静かで、何の感情も読みとれない。
 成美もそれ以上何も言えず、ただうつむいて、彼が何か言ってくれるのを待っていた。
 判っている……。
 きっと、もう、許してはもらえない。
 優しい人だから、叱るという意味では、感情を荒立てることはないだろう。
 でも――もう、何日も連絡がなくて……。
 不意に目が潤みだす。その時、微かに、氷室が溜息を吐くのが判った。
「とにかく、部屋に入りませんか」
 ――部屋、に……?
 成美が動けずに黙っていると、靴音が近づき、鍵を回す気配がした。
「話なら中で聞きますよ。いったい何時から僕を待っていたんです」
 近づいてきた氷室に、そっと、強張った指を握られる。
「指も、こんなに冷えている……」
 絡んだ氷室の指の方が、それでも、成美より冷えているような気がした。
「ここで、いいです」
 成美は感情を堪えて、かぶりを振った。
 氷室は何も言わず、そんな成美を静かな目で見下ろしている。
「私、自分が勝手にやったことだって、明日、森田課長のところに説明しに行くつもりです。いいえ、何も仰らないでください。そうすべきだし、そうしなければ、私の気持ちが収まらないんです」
「…………」
「氷室さんにご迷惑はかけませんし、私1人の片思いだって説明するつもりです。実際、私が……1人で決めて、勝手にしてしまったことですから」
 氷室は、何も答えない。
 怖いのに、何故かその沈黙は、成美には優しく感じられた。それは――まだ、2人の指が繋がっているからかもしれない。
「何故、あんな馬鹿な真似をしたんですか」
 やがて、静かな口調で氷室は言った。
 ――何故……?
 うつむいたまま、成美は少し戸惑っていた。
 それは……だって、今さら、口に出して聞くようなこと?
 氷室さんが好きだから。が、同時に、そんな言い訳を口にして、彼に負荷をかけたくないという思いもある。
「……悔しくて」
 迷いながら、成美は言った。
「何が、ですか」
 氷室の声は、不思議なほど静かなままだ。頭上から注がれる視線を、まだ成美は一度もまともに見られない。
「色々、……です。氷室さんが決裁を失くすはずがないのに……、そんな風に、決めつけられていること、とか」
「それは、僕のことであって、あなたには関係ない話でしょう」
「…………」
「僕のことで、あなたが怒る必要は何もない。僕もまた、他人のことで怒ったりはしない主義です」
 淡々とした声は、それだけは――ひどく冷淡に感じられた。
 ――氷室さん……。
 氷室の冷たさと冷静さに、成美はゆっくりと打ちのめされていた。
 もう、これ以上話をするまでもない。確かめるのは怖いけど――、口にするのも怖いけど、2人は、もう終わったのだ。
「か、関係ないですよ。でも――でも、それでも悔しかったんです」
 溢れそうな感情を懸命に堪えて、成美は言った。
「そうです。確かに私には関係なかったかもしれません。結果的に氷室さんの足を引っ張っただけだし、何もかも仰られる通りです。でも、私――私も、何かの役に立ちたかった。何かせずにはいられなかった」
「その動機が、悔しかったからですか」
 一体この人は、私に何を言わせたいんだろう。成美は唇を噛みしめるようにして、初めて氷室を見上げていた。
 彼の目も成美を見ている。暗い翳りを帯びた眼差し。私を見ているようで、見ていない。別の何かに、心を奪われている時の眼差し……。
 不意に成美は、心のどこかがすうっと静かになるのを感じた。
 怖さも不安も、悲しさも情けなさも全て消えて、この世界には今――自分と氷室の2人だけしかいないような、そんな気持ちになっていた。
「悔しかったのは……私が」
 その静かな感情のままに、成美は素直に言っていた。
「ちっとも、氷室さんの恋人らしくなかったから……。困っている氷室さんのために、何ひとつ役にたてなかったからです」
「…………」
「氷室さんに、……きっと、頼りにして欲しかったんです。ごめんなさい。すごく生意気で、馬鹿なこと言ってますけど」
 初めて涙が頬を伝い、成美は慌てて、それを両手で拭っていた。
「そんな勝手な動機で、とんでもない真似をしてしまいました。ごめんなさい。でも、もう課長には二度とご迷惑をかけたりはしませんから」
「もう一度、聞きますが」
 これ以上泣き顔を見られたくない成美は、急いできびすを返そうとしたが、氷室は何故か指を離そうとしなかった。
 くしゃくしゃになりそうな表情をぐっと堪え、成美は氷室を振り返る。
「なん、ですか」
「何故、あんな馬鹿な真似をしたんですか」
「…………」
 何故って――。
「それは……」
「それは?」
 さっきも言った通りで。
「それは、私が……」
「私が?」
「…………」
 何故、こんな時に、課長の目が、こんなに優しく見えるんだろう。
「ひ――氷室さんのことが、好きだからに、決まってるじゃないですか!」
「よろしい」
 幻聴のような声が聞こえた途端、ふっと全身が温かくなる。
 まだ、抱きしめられていることが信じられず、成美はただ、瞬きをしていた。
「僕のことなんかで、怒らなくていい」
「…………」
「あなたは、ただ、僕を好きでいてくれればいいんです」
 ――氷室さん……。
 もしかして、これは夢? 
 嘘でしょう? まさか、こんな嬉しいことを、課長が言ってくれるなんて。
「最初から、少しも怒っていやしませんよ。……馬鹿だな。君がそんな風に思い詰めているとは、夢にも思っていなかった」
 ひとまず、中に入りましょうか。
 耳元で囁く氷室の声は、どこまでも優しかった。
 
 

 
 氷室の部屋に通されても、成美は、どうしていいか判らないまま、ぎこちなく立っていた。
「そこで座って待っていてください。今、温かなものを用意しますから」
 氷室はコートを脱ぎ、ネクタイを外して、髪に指を差しいれて崩している。
「食事は? 僕は食べてきましたが、君がまだなら、これからどこかに出かけましょうか」
 彼が全くの平常モードだと、成美もようやく気がついた。
 まるで、2人の間に起きた出来事など最初からなかったかのように、平然と振舞っている。
 本当に、これでいいの?
 成美にはまだ、彼の変化――氷室自身は認めないだろうが、彼を覆う冷淡さが溶け、優しさに変わった理由みたいなものが判らない。
 正直言えば、まだ、頭ごなしに叱られた方が気が楽なくらいだ。
 いつもみたいに、有無をいわさず強引に奪われた方が――まだ、彼の感情の在処の説明がつく。
 知らなかった。
 優しくされればされるほど、不安になることもあるなんて。
 だってそれまでの氷室さんが、こういった場合、優しさの欠片もない対応しかしてくれなかったから……。
「ずっと連絡できなくて、悪かったですね」
 不安に沈む成美とは裏腹に、氷室は、ひどくリラックスした様子だった。さっさと身支度を整えると、赤ワインのボトルを手にしてキッチンに立っている。
「ホットワインを作りますよ。日高さんの指が冷たいと、何故だか僕まで不安になりそうだ」
「……課長、私」
「ん?」
 本当に、怒っていないんですか?
 あんな馬鹿な真似をした私を、――どうして、そんなにあっさり許せるんですか。
 じゃあ、私は。
 まだ、課長の、恋人でいても、いいんですか。
「い、いえ。……あの、私が作りましょうか。ホットワインなら、以前作り方を教えていただきましたし」
「駄目ですよ」
 いたずらっぽい目で氷室は笑った。
「それじゃ、何の意味もない。今夜はね、僕があなたを温めてあげたいんです。身も心も、溶けるほどにね」
 張りつめていた気持ちの糸が、それで、完全に切れていた。
 視界に映る氷室の背が、みるみる滲んで潤みだす。
 なんで?
 なんで、今みたいな状況で、そんなに優しいことが言えるの……?
「いつまでもそんな所に立っていないで、くつろいで――……え?」
 一瞬唖然とした氷室が、ボトルを置いて駆けてきた。
 成美は、しゃがみこみ、子供みたいに顔を覆って泣いていた。
「一体、どうしたんですか。僕が何か、気に障ることでも言いましたか」
 氷室の腕が、急いで成美を抱え起こそうとする。成美は顔を覆って首を振った。
「身体の具合が悪いなら」
「ち、違うんです。違います」
 彼の慌てさせたのが、申し訳なくて、成美は懸命に涙をこらえようとしたが、一度堰を切った感情はとめどなかった。
 背を波打たせ、唇を拳で覆い、泣き声を必死に抑えながら、成美は言った。
「もう……駄目だと思ったから。絶対に嫌われたと、思ったから、私」
「…………」
「ゆ、夢じゃないですよね? 後から、やっぱり許さないとか、そんな話にはならないですよね?」
「…………」
「今夜の課長が信じられないくらい優しいから……、それもそれで不安だなんて、私、本当にどうかしてますね」
 氷室が動きを止めて、見下ろしているのが判る。彼は今、どんな表情をしているのだろうか。
「でも、やっぱり今回はごめんなさい。私、許してもらえるなら、なんでもします。いえ、しなきゃいけないと思ってます。きちんと氷室さんの汚名をはらします。だからその上で、……今みたいに優しくしてもらえたら」
 嬉しいです……。
 後はもう、言葉にも何にもならなかった。氷室が抱きしめてくれたので、成美は声をあげて泣き、氷室はしばらく子供をあやすようにそのままの姿勢でいてくれた。
「……馬鹿だな、君は」
 そっと髪を撫でられる。氷室の腕も声も優しかった。
「名乗り出る必要はありません。その件を含め、森田課長とのごたごたは、もう何もかも終わったんです。……日高さんは悪くない。悪いとすれば、僕の気配りが足りなかったせいだ」
 ――氷室さん……。
 成美は氷室を見上げようとしたが、それより早く、唇をそっと奪われた。
 甘く、唇を濡らす涙ごと舐め取るようにキスされる。
「……ワインは、必要なかったな」
 自身の唇を舐める氷室の舌に、成美はいきなり心の深い部分を掴まれてしまっていた。普段冷静な彼から強い男を感じる時、今も成美は――痺れたように動けなくなっている。
「何もかも終わったって、一体、何があったんですか」
「ん……? 日高さんが、知る必要はないですよ」
 成美を自分の方に抱き寄せ、溶けるようなキスを続けながら、氷室は言った。
「知りたいんです。教えて……」
 心地良さに流されそうになりながら、成美は懸命に訴えた。
 今度だけは、曖昧に流されたくない。
 ちゃんと聞いて、理解したい。彼が、どういう形で問題を解決したか。今度だけは――ある意味、原因は成美自身なのだから。
 答えない彼の指が、成美の着ている衣服の下から忍び込む。咄嗟に成美は、彼の手を服の上から押さえていた。
「私には、話せないことですか」
「…………」
 口にした後で、少しだけ後悔した。
 見下ろす氷室の顔が、わずかだが翳って見える。
 彼が機嫌を損ねたのが判っても、成美も、今回だけは引けなかった。ここを曖昧にしてしまえば、いつまでも成美は不安なままだ。事態の成り行きが判らないということではなく、2人の関係が以前と少しも変わらないという意味で。
「あまり、いい話ではないですよ」
「それでも、きちんと話して欲しいんです」
「…………」
「先月何があったのかも、氷室さん、自分の口からは何も説明してくれませんでした。私、氷室さんのこと、もっと知りたい……。駄目ですか、私じゃ」
 氷室の冷えた頬に、成美はそっと手を添えた。
 好きなんです。
 だから、もっとあなたに相応しい女性になりたいんです。今はまだ、とんでもなく無理な相談ですけど。
「……僕は、あなたが思うような男ではないかもしれないですよ」
「そうでしょうか」
 氷室の微笑がどこか寂しげだったので、成美は彼の頬を無意識に指で撫でていた。
「結構、思ったとおりの人なのかなって思います。……でも、正直言えば、課長がどんな人でも、私、多分構わないんです」
「構わない?」
 指先に、顔をかたむけた氷室の唇がそっと触れた。「僕がどんなに、卑怯で残酷な男でも?」
「私、好きなんです。氷室さんが……大好き」
 言葉はそれ以上でてこなかった。彼の唇が、全てを奪い、飲み込むように、成美の唇を覆い尽くした。
 が、すぐにキスは激情を消して優しくなり、成美を追い詰め、高めていくそれに変わっていく。
 こんな官能的なキスを、成美は氷室と出逢うまで知らなかった。
 唇と舌の優しい愛撫。自分の喉から洩れた甘い声。心より身体がもう、彼を受け入れる準備を始めている。
 それを確認した氷室が、少しだけ残酷な微笑を浮かべる。獲物を追いつめた捕食動物の眼。怖い――でも、ぞっとするほど魅力的な目。
 彼の恐ろしさにも冷たさにも、成美はもう恋焦がれるほど惹かれているのだ。
 彼は、私の何もかもを変えてしまった。
 もう二度と、元の私に戻れないくらいに。
 怖いけど、好き――。
 大好き。
 こんなに好きになった人は、初めて。
「話は、後でいいですか」
 やがて唇を話した氷室が、掠れた声で囁いた。抱きあげられた成美は小さくこくりと頷いた。
 歩きながらキスをする氷室の表情に、もうあまり余裕はない。
 氷室の首に腕をまきつけるようにしてすがりながら、それでも少しだけ成美の心に不安と寂しさがこみあげる。
 あの日から何があって、どういう形で彼はトラブルを解決したのだろうか。
 氷室さんは――それを、本当にきちんと話してくれるのだろうか?
 
 

 吐息が肩をくすぐる距離で、隣で眠る人が健やかな寝息をたてている。
 苦笑してその寝顔を見下ろした氷室は、ずれた毛布をひきあげ、彼女の肩に被せてあげた。
 ――……君は、子供みたいに、すぐ眠れる人なんだな。
 判っているのか? 今日俺は、自分でもびっくりするようなことを、君に打ち明けてしまったんだぞ。
(僕のことで、あなたが怒る必要は何もない。僕もまた、他人のことで怒ったりはしない主義です)
 その俺が――いったい、何度、君のために腹をたてたか、本当に君は判っているのか。
 ほつれた髪が、健康そうな成美の頬に張り付いている。
 それを指で直してやりながら、氷室は独り言のように呟いていた。
「僕は……日高さん。自分で思っていた以上に、君のことを好きになってしまったようですよ」
 でもそれは。
 僕にとっては――あまり、幸福なことではないんです。
 そして、多分、君にとっても。
「…………」
 氷室は、カーテンの向こうの夜の静寂に目を向けた。その闇の向こうで、冷たい目が、じっと氷室を見つめている。
 ――天……
 天、あなたって、本当に馬鹿な人ね。私が本気で、あなたのような男を好きになるとでも信じていたの?
 ふふっ。
 ふふふ……
「……ん」
 細い呻き声が、氷室を現実に引き戻した。
 寝がえりを打った成美が、ぱたんと、無防備な手を氷室の腰のあたりに乗せてくる。
「……全く、子供みたいな、寝相の悪さですね」
 くすっと笑った氷室は、その手をそっと握り締めていた。
 意識はないはずなのに、その刹那成美の指がわずかに動き、氷室の手に応えている。
 まるで、いつもあなたの傍にいますから――そう言ってでもいるかのように。
「…………」
 今はしばらく、この感情に流されてみようか。
 どこに辿りつくかは判らない。
 でも、今はまだ――この暖かさを手放したくはない。……
 
 
 
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。