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「宮田さんのお母様が?」
 成美は受話器を持ち直していた。
 翌日――行政管理課執務室。
 朝イチで道路管理課の宮田に電話をすると、出てきたのは沢村だった。
「昨夜かな……。急だったらしいよ。宮田君は退院したって喜んでたけど、どうも完治してたわけじゃないみたいだね。いわば、最後の帰宅的な」
 淡々と言う沢村の声を聞きながら、成美は胸が締め付けられるような思いに駆られていた。いつも帰宅時間を気にしていた。退院するといって喜んでいた。――宮田さん。
「ご病気だったんですか?」
「癌だって。長患い……氷室さんの奥さんと同じだね。母子家庭だから宮田君が喪主らしいよ。今夜が葬式で、俺らも手伝いに出る予定だけど、日高さん、どうする?」
「あ、私も顔だけ出させていただきます」
 場所と時間をメモする成美の耳に、沢村がわずかに笑う声が聞こえた。
「例の彼女も顔出すみたいだよ。広報の倉田さん」
「…………」
「祭儀場で、ガチバトルだけは勘弁な。にしても氷室課長も罪つくり……。倉田さん、完全に彼女気どりみたいだけど、実際のところどうなのさ」
「どういう、意味ですか」
 用心深く成美は訊き返す。
「庁内じゃ、いかにも倉田さんと結婚間近みたいな噂が立ってるけど、実は日高さんが本命の彼女なんでしょ? ま、倉田さんのことは、局長を通じて氷室課長に話があったみたいだから、むげに断れない事情でもあるのかもしれないけど。にしても、いつまでも三人でずるずるってわけもいかないんじゃないの?」
 
 
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 葬儀は午後七時から、中区の光明会館で行われた。
 出席者の大半が役所の人間で、受付は管理課の沢村と、成美と同期の三ツ浦が勤めていた。
 少し遅れて祭儀場に到着した成美は、居並ぶ喪服姿の人たちの最後尾に立った。
 自宅で急いで着替えてきた喪服は、まだ二回しか袖を通したことがない。
「本日は、お忙しいところを、母信子の葬儀にご会葬くださいまして、誠にありがとうございます。……このように大勢の方々にお見送りいただき、さぞかし故人も喜んでおることと存じます」
 前方親族席では、喪主である宮田が、代表挨拶をしている最中だった。
 淡々とした口調だったが、宮田の横顔は、気の毒なほど憔悴していた。
「……日高さん」
 背後からそっと囁かれ、振り返ると氷室が立っていた。成美は彼を見上げ、わずかに視線だけを下げた。
 氷室もまた、当たり前だが黒の喪服姿だった。
 何故かその黒が目に痛々しく、成美はしばらく顔が上げられなかった。
「宮田君のところは、母一人、子一人で、今まで随分苦労されてこられたそうですよ」
 成美の隣に立った氷室が囁くように言った。
 前方ではその宮田が、懸命に涙をこらえ、時折声を詰まらせながら、挨拶を続けている。
「宮田君は、随分親孝行だったんですね。最後はどうしても自分で看取りたいと、ご自身の意思でお母さんをご自宅に引き取られたそうです」
「……そうですか」
 普段の宮田を知っているだけに、その思わぬ姿は成美の胸を打った。
 ぐっとこみあげる感情を、成美は瞬きをして押しやった。
 下げた視線の端に、氷室の手が見えた。
 黒い袖から覗く、形のよい手首。
 不意に成美は、彼の手をそっと握り締めたくなっている。
 その袖に、彼はごく最近袖を通したのだ。彼の―― 一度は将来を誓った人のために。
「僕には、彼のような生き方は理解できませんが」
 氷室が、呟くように続けた。
「親御さんは、さぞかしお幸せだったでしょうね」
「そうですね」
 頷いて、そっと見上げた氷室は、不思議に無表情だった。
 憐憫とも、冷淡とも取れる曖昧な眼差しで、壇上の棺を見つめている。
 黒い衣装に身を包んだ氷室は、何故か今も――あの夜と同じで、成美にはひどく遠い人のように思えた。
 そして、ふと成美は思っている。
 今、彼は何を見ているのだろう。
 彼が今、見つめているのは、壇上に祭られた宮田の母の写真などではなく、――もしかすると……。
 成美は咄嗟に氷室に指に手を伸ばしていた。
 まるで、水の底の石に触れたような冷やかさ。氷室が、少し驚いて成美に視線を向ける。
 背後で、不意にはっきりしたすすり泣きが聞こえたのはその時だった。
 
 
「私……ごめんなさい、なんだかすごく……宮田さんがお気の毒で」
 葬儀が終わった後、倉田真帆はハンカチを目元に当てるようにして、氷室の傍に寄り添った。
 長い睫を濡らしながら零れる涙は、まるで女優の泣き演技のように美しく――可憐だった。
「宮田さんの気持ちを考えたら、たまらなくなって……ごめんなさい、みっともないですね。こんなに泣いて」
 潤んだ瞳で氷室を見上げる見事さに、成美は声も出ないと言うか――むしろ、圧倒されていた。
 脳裏に、トラウマのような研修飲み会の出来事が蘇る。美しくも悲しい涙で、真帆は、その場にいた男子全員の心を鷲掴みにしたのだ。
「そんなに、泣かれなくてもいいんですよ」
 優しい声で、氷室は言った。肩を震わせる真帆の背に、彼はそっと手を添えた。
「あなたは本当に……心の優しい人なんですね」
 穿ちすぎだという自覚はあるけれど、この時、成美だけは確信していた。また、倉田真帆が、同じ行動に出ているのだと。
 女子力の圧倒的な差を、ありありと見せつけられた気分だった。
 この倉田真帆相手に戦って、本当に勝つことなどできるのだろうか。
 いや、そもそも氷室さんは、一体どういう気持ちで……。
 退くことも、会話に入ることもできず、成美は馬鹿みたいにその場に立ち続けている。
 通り過ぎる職員が少しばかり奇異な目で見て行くから、この状況が、人目をひくものであることだけは間違いないようだった。
「ああ、広報の倉田さん……」
「氷室さんの喪があけたら、結婚するらしいね」
 ひそひそと聞こえるそんな噂。
 成美はますますいたたまれなくなった。広がった噂の結末を、一体氷室さんはどうやってつけるつもりなのか……。
「私、……それからごめんなさい。どうしても、氷室さんの奥さまのことを思い出してしまって」
 零れる涙を、ハンカチで拭いながら真帆は続けた。
 氷室は無言で微笑している。
「同じご病気だと聞いて……、胸が一杯になってしまって……、今、氷室さんが、どんなお気持ちでこの場に立たれているのかと思ったら」
 しゃくりあげる真帆を、氷室は優しい目で見つめ、そして背をそっと叩いた。
「そんな顔では、一人でお帰りにはなれないでしょう」
「ごめんなさい……」
「車でお送りしますよ。宮田君に挨拶をしてきますので、少し待っていてもらえますか」
 潤んだ目で頷く真帆を、氷室は愛おしげに見つめた。
 成美はただ――凍りついていた。
 胸の中では、氷室さんを信じよう、信じなきゃ、という思いが切望のように渦を巻いている。が、今見ている光景はなんだろう。耳にはいる言葉の数々はなんだろう。
 これを二股と言わずして、何と言えばいいんだろう。
「日高さん」
 氷室は、ごく普通に成美の名を読んだ。
「は、はい」
「今日は、わざわざおいで下さってありがとうございました」
「……あ、いえ」
 事務的な喋り方に何を答えていいか判らず、成美はうろたえて視線を彷徨わせた。
「では、僕はこれで失礼します」
 にこっと笑った氷室がそのまま踵を返す。
 立ちすくむ成美の背後では、真帆が顔をそむけてハンカチで涙を拭っている。
「ああ、そうだ」
 ふと氷室は足を停めた。
「忘れていた。先ほどお借りした小銭を、お返ししますよ」
 はい?
 きょとんとする成美の手に、氷室はなんでもない素振りで、金属の欠片を置いた。
「じゃあ。今夜は寒いので、温かくしてください」
 簡単に言い置いて、氷室は背を向けて歩き出した。
 
 
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「日高さんも来られていたんですね。私、気付きませんでした」
 走り出した車の中で、あれだけ泣いた人は思えないほど、完璧に顔を作ってきた女は、不思議そうに言って氷室を見上げた。
「課長と日高さんって、親しいんですか?」
「あなたほどではないですよ」
 氷室は前を見たまま、笑った。
「……どういう意味ですか?」
 真帆が訝しげに眉を寄せた。「私も、彼女とはそんなに親しくないんですけど……」
「さほど親しくもない人の噂を、あれこれ吹聴するのは、あまり褒められたことではないですね」
 助手席の真帆が、少しむっとするのが判った。
「どんな間抜けがそれを真に受けるか判りませんからね。僕も、噂には随分悩まされた口ですから」
 氷室が、優しい目で振り返ると、女の疑念はたちまち溶けたようだった。
「そんなつもりはなかったんですけど……、氷室さんが仰られると説得力があります。亡くなられた奥さまのこと、……私も色々耳にしましたから」
 悲しみを思い出したように、真帆は再び双眸を潤ませた。
「ひどいと思いました。……奥さまを亡くされた氷室さんのお気持ちを考えると、あれこれ、好き勝手な噂を流している人たちが……」
 唇を噛みしめるようにして、真帆の睫を新しい涙が濡らした。
「あ、ごめんなさい。私、すごく涙もろくなってるみたい」
「ご自分のために流す涙は気持ちのいいものでしょう」
「え……?」
 冷やかに氷室は続けた。
「一番辛いはずの当事者が、懸命に涙を堪えている中で、よく泣くことができますね。およそ礼儀を知っている人間なら、会ったこともない人のために、そうも泣いたりはしないものですよ」
 真帆が、ぽかんと、何を言われているか判らない目で氷室を見上げた。
「そういうのは、映画かドラマを見る時くらいに留めておかないと。現実の人の痛みなんて、そう簡単に共感できるようなものではないですからね」
「あの……、どういう意味ですか」
 しばらくして、ようやく自分を建て直したように、真帆は言った。
「あなたのように美しい人には、もっと大人の振る舞いが似合うという意味ですよ」
「…………」
 氷室の口調が優しかったせいか、真帆は、なんとも言えない――言葉に迷うような目になる。
 わずかに笑って氷室は続けた。
「子供だからと思って大目にみていましたが、携帯の履歴を消去したのは失敗でしたね。何故なら僕は、イプセンからの連絡を一日千秋の思いで待っていたんですから」
「……え? イプセン?」
「幽霊という意味ですよ」
 女が、一瞬慄いたように眉をしかめるのが判った。
「それ、どういう冗談ですか?」
「言葉どおりの――トイレの花子さんが、僕の目下の恋人なんです」
「…………」
「あの夜、僕がどういう思いで夜を過ごし、朝を迎えたか――まぁ、あなたに八つ当たりする前に、自分でなんとかすればよかっただけのことなので、その件については気にもとめていませんが、トイレの花子さんを傷つけたことだけは許せない」
「……あの、なんか、気持ち悪いたとえなんですけど、氷室さん、真面目に言ってます?」
「あなたは、驚くほど自分のことしか見えていない人なんですね。とても浅はかで……生きる知恵がない人だ。あなたが思う以上に周囲の人間というのは利口者が多くて、浅知恵で隠した本性なんて、簡単に見抜かれているという意味ですよ」
 みるみる女の相貌が青ざめていくのが判った。
「言われている意味が、よく判らないんですけど」
「僕はね。あなた以上に自分勝手で、他人を振り回し、傷つけることをなんとも思わない残酷な女と、何年も一緒に暮らしてきたんです。彼女はビジュアルが素晴らしいという点で、まだ女としての取り得がありましたが、そのおかげで僕は、美人を見るとたまらない嫌悪を感じるようになった」
「…………」
「あなたは、僕が知りうる限り、この世で一番最悪な女の、出来の悪いコピーのような人なんですよ。ああ、誤解しないでください、何もあなたがどうこう言っているんじゃないんです。僕の、個人的なトラウマから来た勝手な感想ですから」
「…………」
「泣きたければ、勝手にどうぞ」
 冷笑して、氷室は続けた。
「僕はね、多分あなたの想像以上に残酷で酷薄な男ですよ。今でも、あの女に似たものをあなたから感じるたびに、自分の手で殺したくて仕方なくなっている。どうぞ、全てを洗いざらいあなたのお父様に話してください。僕の生まれは、もうお調べになられましたか? とんだ誤算で申し訳ありませんでしたが、僕は、あなた方が期待するような家柄の生まれではありませんよ」
 もう、氷室を見る女の目には、怯えしかなかった。
「そして、互いにとって不名誉な噂は、できればご自身の口から撤回くださるようにお願いします。なにひとつ得にならないばかりか、あなたの女性としての価値に、傷がつくばかりですからね。そうして、僕らの間に起きたことは一切忘れてくだされば、僕も、あなたの人格にとって不名誉な噂は厳に慎むと約束します。……僕の大切なイプセンに誓って」
 
 
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 玄関の鍵が回される音を聞いた刹那、成美は弾かれたように駆けだしていた。
「氷室さん」
「ただいま」
 にこっと笑うと、彼はすぐに靴を脱ぎ、焼香の染みた上着を脱いだ。
 成美はそれを受け取ろうとしたが、何故だか躊躇ったように手が動かず、氷室はさほど気にするでもなく、上着を手にしたままリビングに歩いて行った。
「着替えてこられたんですか」
 自身の上着をハンガーに掛けながら、氷室は言った。
 成美は自分の服を見た。
「だって、さすがに喪服では……」
 祭儀場で鍵を手渡された時点で、部屋で待っていろ、という意味だと成美は解した。
 実際、心中は穏やかではなかった。彼を信じたいとは思っている、でも……。
「それは残念です。楽しみにしていたのに」
「え?」
 意味が判らず瞬きする成美を振り返って、氷室は微笑した。
「けりをつけてきましたよ」
 ――けり……?
「優しく、お断りしてきたということですよ。今まで、説明も何もせずにすみませんでした。倉田さんのことは、上役の意向もあって、すぐに、というわけにはいかなかったので」
「あの……」
 戸惑う成美の前で、彼はネクタイを外し、シャツを脱いだ。
 成美は慌てて、背を向けている。
「本当に、大丈夫なんですか」
「全く? 僕自身は、何かを約束した覚えも期待させた覚えも、一切ありませんから」
 本当にそうだろうか?
 その魅力的な微笑と、優しさだけで、大抵の女は――私も含め、勘違いするものだと思うんですけど。
「極めて丁寧に、親切に、判り易く説明させていただいたので、倉田さんも納得されたと思いますよ」
 コットンのシャツを羽織った氷室は、涼しげな目をしている。
 なんだか、嫌な予感がしたものの、成美は曖昧に納得した。
 彼の危険な性格が、倉田さんを傷つけていなきゃいいけれど。――にしても、なんだか不公平だ。
 何ひとつやましいことのない私がああも責められ、絶対にやましいことをした氷室さんが、こうも平然としているなんて。
「あの……食事、どうしましょう。台所を勝手に使わせてもらっていいのなら」
「いえ、それより先に食べたいものがあるんですよ」
「はい?」
 悪い予感を覚えて見上げた氷室の顔は、案の定影のある微笑を浮かべていた。
「飢えて、もう、死にそうなんです。ずっとお預けを喰らっていましたからね」
 そんなこと言って昨日も――とは、もう言葉にならなかった。氷室の目に見つめられただけで、成美はもう動けなくなっている。
 なんとなく判ってしまった。いや、最初から判っているけど。
 私って、とことん都合のいい女なのかも――彼にとって。
 抱えあげられて、ベッドに運ばれながら、成美は少し恨みがましい目で氷室を見上げている。
「氷室さん、明日も仕事だってこと、絶対に忘れないでくださいよ」
「そうでしたっけ」
 今も、彼の微笑む顔を見ただけで、何もかも溶けて流れている。
 この人が好きな気持ちだけで、もう一杯になっている……。
 
 
 暗夜に、粉雪が舞っている。
 とごまでもどこまでも続く、永遠のような雪の華。
 すごく寒い――寒くて、……もう、死んでしまいそう……。
(……君の手は暖かいね)
(大事にしなさい。それは、人の心を幸せにする手だから)
 優しくてかっこいい駅員さん。
 思い出した。
 ずっと忘れていた。なんで、今頃になって思い出したんだろう。
 あの人が……私の手を温めてくれた……。 


 成美はまどろみから覚めるように、薄く目を開けた。
 翳った室内――仄かなオレンジの灯りが、ぼんやりと周囲を照らしている。
 夜――カーテン越しの外は、まだ闇に包まれている。
 へんな夢、見ちゃったな……。
 そっと首を向きを変えると、氷室の横顔があった。彼はまだ起きていて、重ねた枕に背を預けるようにして薄い本を読んでいた。
「氷室さん……」
 今、何時だろう、そう思いながら、成美は掠れた声で彼の名を呼んだ。
「どうしました?」
 氷室はさほどの驚きも見せず、本を閉じて淡く微笑する。
 成美は半身を起こして枕元の時計を見た。――3時過ぎ。さすがに目を見開いていた。
「もしかして寝てないんですか?」
「本が面白くて」
 本――?
 氷室の手から、成美はそっと彼が読んでいた本を受け取った。
 布製のハードカバー……表紙は、英語?
「げ、原書ですか」
 それだけで気持ちが萎えている成美である。
「日本で出回っている和訳もなかなかですが、原書も悪くないですよ」
「どういうタイトルなんですか」
「幽霊……」
「え?」
 思わず顔をあげた成美を、氷室は静かに微笑して見下ろした。
「イプセンの戯曲ですよ。虚偽の結婚生活を続けた女性の、非惨な末路を描いた物語です。ここでいう幽霊とは、女性を縛る過去の因習を指すのですが……、興味があれば、和訳の本もありますよ」
「い、いえ。私は、はい」
 その内容を聞いただけで、絶対に読みたくないと思っている成美である。
「ラストは、太陽が欲しいといって、梅毒に目をやられた息子が狂い死ぬんです。身につまされますよ。色んな意味で」
 ど、どういう身につまされ方だろうか。
 それにしても、なんだか重苦しい、嫌な気持ちになる内容だ。
 虚偽の結婚生活を続けた妻。
 太陽が欲しいと言って死んだ息子。
 彼はそこに、何を見ているのだろうか?
「ゴースト、ファントム……、どれもピンとこなかった。幽霊というのもストレートすぎてウィットがない」
 淡々とした口調で、氷室は続けた。
「……なんの話ですか?」
「花子と最後まで競いましたが、多少は気どった感じも残したくて。それでイプセンに決めました」
 だから、何を――。
 戸惑う成美を見下ろし、氷室は楽しそうに微笑んだ。
「日高さんの名前ですよ。携帯に実名で登録すると、後々触りがあってもいけないと思いましてね」
「私の、名前ですか」
 成美は、やや唖然としながら訊いている。
「ええ、なかなかいい名前でしょう? 我ながら傑作だと、僕はかなり気にいっているんです」
「はぁ……」
 え、何かこう、すごく深刻な雰囲気だったと思うんだけど。そのオチが私の名前って――本当にそれでいいの?
「イプセンとかけて、日高さんと解く」
「そ、……」何てキャラにあわないことを言い出すんだろうこの人は。――と思いつつ、成美もつい訊いている。
「その心は?」
「僕のなかでは、どちらも幽霊のイメージが強烈なので。もう寝ましょう。あと2時間もすれば、夜が明ける」
 成美を腕で抱え込むようにして、氷室は自身も横になった。
「……すごく、身体が熱くなっていますよ」
 額に唇をあてられた後、いたずらめいた声で囁かれた。すでに彼の冷えた手は成美の肌を探っていて、成美はさすがに慌てていた。
「ね、寝てる時は誰だって体温が上がりますからっ。寝ましょうっ、でないと明日、絶対に遅刻しますっ」
「冗談ですよ。なにも、そんな真顔で逃げなくても……」
 氷室はやがて上向いて目を閉じたが、彼が眠っていないことを、成美は漠然と察していた。
 夜明けを畏れて眠れないファントム。
 今、この人の心には一体誰がいるんだろう。 
 肩に回された氷室の腕。その手に、成美はそっと自身の手を重ねて指を絡めた。
 彼の、冷たく凍えた手。
 いつかこの手が、本当に温かくなる日がくるのだろうか。……。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
                            (終)
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。