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11
「今夜、空いてませんか?」
はい ?
と、成美は顔を上げていた。
行政管理課の協議スペース。五時まであとわずかという時間帯だった。
「あの、まだ何かありますか。ご相談の件なら、これでよかったと思ったんですけど……」
成美が訝しくそう言うと、対面に座っている男は、慌てたように片手を振った。
「仕事じゃないです。実は今夜、うちの課で飲みがあるので」
「はぁ……」
ますます訝しく、成美は住宅計画課、有木の顔を見た。
能面を人の顔にしたら、こんなだろうな、と常々思っていたほどの冷たい顔をした男である。
面長の顔に、錐で彫ったような切れ長の目。細い眉の間には、いつも何かに苦悩するような縦皺が刻まれていて その憂鬱な顔が、今は別人のように慌てて見えた。
「うち、女性が一人で、いつも飲み会が味気ないんですよ。僕が言い出したことじゃないんですよ? 独身連中が誘え誘えとうるさいので……、よかったら日高さん、うちの飲み会に参加されませんか」
最後は一気に言い切るような早口だった。
「はい?」
しばしその意味を考えた成美は、次の瞬間、「えっ?」と眉を上げていた。
「私がですか? どうして?」
「まぁ、最近うちの課によく顔を出されているからなんですかね。さっきも言いましたけど、独身の若い連中が言っているだけであって、僕がお願いしているわけじゃないですから」
困惑をありありと浮かべながら、有木は自身の左手をわざとらしく前に出した。薬指のリング へぇ、こんな冷たい人に奥さんがいたんだ、と今さら気付いている成美である。
それはいいとして まぁ、最近は、冷たいだけでない有木の誘いに、少しばかり嬉しいものを感じている成美だった。
新人職員 特に女性が、他課の飲み会に誘われるのは珍しい話ではない。
ただ、成美にとっては珍しいし、実際初めての経験だった。
しかも、誘ってくれた相手が、あれほど自分にきつく当たった有木だとは 。
「無理なら、無理にとは……。いくらなんでも今日の今日で、図々しいとは思ってますから」
「いえ……そうですね」
今日の今日でも、無理ではなかった。
ようやく地獄の条例改正作業を終え、行政管理課にも通常の閑静さが戻って来たところである。
成美の仕事も、ぎこちないながら、ひとつふたつと片付いて、大きな案件では、今日の住宅計画課の仕事が最後だった。
最後までてこずったが、何度も住宅計画課に足を運び、有木と2人で協議を重ね、ようやく出した回答である。
当初、有木は残酷なまでに冷たかったが、それでも最後はフランクに話せるまでに親しくなった。
有木さん……私を認めてくれたのかな?
そう思うと、さすがに少しばかり嬉しくはある。
ただ、飲み会となると、気持ちは全く乗り気ではなかった。
住宅計画の人は有木さんしか知らないし、元々初対面の人と話すの苦手だからなぁ……。
どう言い訳をして断ろうか そう思った時だった。
「いや、正直言うと、僕も来てほしかったんですよ」
隠し抜いた罪を告白するような有木の言い方に、成美はしばらく唖然としていた。
「今回、日高さんが新人だって判ってるのに、随分意地悪な要求をしたから。 最初は腹が立つことばかりだったけど、最後は立派に仕事をされていると思いました。……謝りたかったし、色々話しもしてみたかったんです」
そこで言葉を切った有木は、やはり慌てたように左手を強調した。
「へんな意味じゃないですよ、誤解しないでくださいよ。ただでさえおかしな噂が流れて迷惑してるんですから」
「……?」
それは意味が判らなかったが、有木の言葉は素直に嬉しいと思っていた。
全てが上手くいったわけじゃないし、色んな迷惑と手間を色んな人にかけてしまった。それでも 絡みに絡んでいた糸は、なんとか解けたらしい。
何もかも、あの夜助言してくれた柏原補佐のおかげだ。
「いえ、私こそ……今回はご迷惑をおかけして。これからもよろしくお願いします」
頭を下げた成美は、同時に、なんだか断りにくい雰囲気になってしまったと思っていた。
どうしよう……行ってみてもいいかな。
確か、大人しそうな(成美の感覚では自分と同類のような)女性職員が一人いたし、私でも馴染めるかも。
今夜は久々に残業から解放される見込みなので、荒れ放題になっている部屋の掃除をしようと思っていた。
それに もしかすると、氷室さんと連絡が取れるかもしれないし……。
彼とは、あれ以来一度も連絡を取り合っていない。
何かもう、絶望的な距離が空いてしまったことを自覚しているのに、それでも未練みたいに氷室からの連絡を待っている自分が不思議だった。
「あの……五時までには電話するので、返事は待ってもらってもいいですか」
迷った挙句に、成美は言った。
「ああ、そうですね。急でしたから」
有木は申しわけなさそうに、頭を掻く。
「ごめんなさい。早目に連絡しますから」
とにかく、氷室さんに電話してみよう。いずれにしても、このままじゃいられない。
成美は気持ちを固めて立ち上がった。
・
・
「あ、日高さん」
廊下でばったり出会ったのは、道路管理課の宮田だった。
「今回は、色々お疲れ様。議会やら何やらで大変だったけど、ようやく残業から解放だね」
「あ、はい」
宮田の顔が、いつになく明るいので、今日はいいことでもあるのかな、と成美は思った。
一時険悪になった宮田との関係も、いつの間にか元に戻った。
もちろん、簡単ではなかった。成美が自身の非礼を謝罪し、互いにぎこちないながらも、少しずつ信頼を取り戻していったのだ。
仕事のつきあいというのは、いいものだな。と成美は今回、少し勉強した気になっている。
慣れ合いだけの友達ではないから、逆にとことん険悪にもなれる。なったとしても、仕事というクッションを経て、またその関係を修復することもできる。
「うち、今夜は打ち上げなんだ。駐輪場の料金改定も無事に議会に通ったしね。なんだかもう、思いっきり飲みたい気分だよ」
嬉しそうに宮田は続けた。
あ、そうなんだ……。
ということは、氷室も当然、その飲み会に参加するのだろう。
内心感じた寂しさを隠して、成美は笑顔で頷いた。
「そうですかー。いいですね、うちは、滅多に飲み会なんかないから」
「今度、日高さんも来て下さいよ。氷室課長も喜ぶと思うし」
その軽口にはドキッとしていた。まさか、宮田にまで見抜かれているとは思えないが……。
「実は今夜は、広報課と合同の打ち上げなんです。課長のテレビ放送、昨日だったんですけど、ご覧になられました?」
成美は、自分の笑顔が強張るのを感じた。 広報……?
「今日、何件か、広報に問い合わせがあったみたいですよ。テレビに出ていたのはどういう人なのかって。もしかして、マジでスカウトとかきちゃったりして」
「わー、すごいですね」
無感動に言って、成美はきびすを返していた。
昨日がテレビ放送だった それを教えてもらえなかっただけでなく、今夜は、広報課と合同の打ち上げ。
じゃあ、また倉田さんと一緒なんだ 。
自席に戻った成美は、即座に住宅計画課の内線番号をプッシュした。
胸の底には、やるせなさと腹立たしさがぐじゃぐじゃになって渦巻いている。
電話をくれない彼。電話をしない私。
何も話さない彼、何も聞かない私。
男女の交際ってこういうもの?
それとも私たち、本当の意味の恋人ではなかった?
一度つきあった大学時代の先輩だって、こうも冷たくはなかった。向こうから連絡してくれたし、デートプランも毎週考えてくれた。
でも最後は、今と似たような感じじゃなかった?
どちらともなく連絡をしなくなって、 結局はそれっきりで……。
暗い予感が胸をかすめる。それを振り切るように、成美は明るい声で言った。
「あ、有木さん? 日高です」
もういいや。
今夜は私も、思い切り飲んじゃおう。
12
「氷室さん!」
華やいだ声が執務室に響き渡る。
パソコンに視線を向けていた氷室は、声につられるようにして顔をあげた。
道路管理課執務室。
机についている全員が、聞き耳をたてているのがよく判る。課長席の近くに立っていた道路局長墨田の目が、氷室の方に向けられる。それは、今夜で最後だから我慢してくれと 、暗にそう言っているようだった。
職名を呼ばず、誰でも「まさか?」とその関係を疑うには十分の慣れ慣れしさで、倉田真帆は課長席まで駆け寄って来た。
「今日は、お誘いいただいてありがとうございます。うちの課も、皆管理さんとの飲みを楽しみにしているんですよ」
「そうですか」
氷室は微笑して立ち上がった。
給湯コーナーで、自らの茶をいれるほど慎ましいお人好しの墨田局長は、なんだか申し訳なさそうな顔で、こそこそと局長室に消えて行く。
「うちも、若い職員が多いですからね。皆、楽しみにしていると思いますよ」
なにげなく真帆を促して外に出る。
そうでもしなければ、この女性が執務室で何を口走るか判らないからだ。
決して愚かには思えない むしろ利口が過ぎるように思える倉田市議の一人娘が、あえて周囲の誤解を増長させるような振る舞いに出るのには、彼女なりの計算があると、氷室は見ている。
それ自体はどうということもないが、この、肉食獣そのものの女性の目に自分がどう映っているか それを思うと、少しばかり可笑しい氷室だった。
「あ、そうだ。うちの幹事が今夜予約した店なんですけど、今夜、そこで住宅計画課も飲みをするみたいなんですよ」
「そうなんですか」
エレベーターホールを挟んで対面にある行政管理課の執務室を目線で追いながら、氷室は答えた。
議会は終わった。 もういいだろう。
課長である自分が打ち上げを抜けるのは気がひけるが、今夜は早く帰宅して、こちらから連絡してみるか。
「それで、住計の友達から聞いたんですけど、行政管理課の日高さんも、住宅計画課の飲みに参加するんですって。例の有木さんに、熱心に口説かれたみたいで」
「…………」
その刹那、氷室は自分がどんな表情をしたのからなかった。
「そうですか」
が、やがて平然と氷室は答えた。
「それは奇遇ですね。日高さんには、うちの課もお世話になっていますから、顔を合わせたら挨拶くらいはしたほうがいいでしょうね」
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「氷室課長っ」
執務室に戻った氷室の傍に、新人職員の三ツ浦が頬を火照らせながら駆けよった。
「今夜の飲み会の配席なんですけど、僕、できれば氷室課長の隣に って、すみませんでしたぁ!」
怯えた捕食動物みたいな目で後ずさった三ツ浦は、来た時と同じ速度で自分の席に戻っていく。
「ひ、氷室課長の周囲が、すでにホワイトアウト状態に……!」
「なんか知らないけど、超おもしろくね?」
笑いながら、沢村が言った。
「俺、ああいう、腹に一癖も二癖も隠してる奴が大嫌いなんだよね。お嬢様風情に何ができるのかって思ったけど、せめて一癖分でも、あの取りすましたエリートの腹から引きずりだせば、それで十分合格だよ」
「な……なに言ってるんですか?」
意味が全く判らない風の三ツ浦を見上げ、沢村は「さあね?」とにやりと笑ってみせた。
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