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「はい……はい、そうですね」
 忙しい時に限って、仕事が重なるのは何故だろう。
 午後四時。電話は、道路管理課の宮田からで、道路占用に関する要綱についての疑義だった。
「僕も、区に指摘されるまで気付かなかったんですけど、もしかして改正道路法に抵触してるんじゃないかと思って……。これ、思い切って削除しちゃった方がいいんですかね」
 知らないよ。
 てか、道路法のことも、道路占用の要綱のことも、私よりそっちの方が何倍も詳しいじゃない。
 だいたい、それ急ぐこと?
 急ぎじゃないなら、何もこんな時期に掛けてこなくても……。
「と、いうのはですね」
 苛々が募る成美の内心など知るよしもなく、やや粘着質のきらいがある宮田は滔々とまくしたてる。
 あー、……話が全く見えてこない。
 お腹痛いな。生理、いつになったら終わるんだろ。
 てゆっか、こんなことに時間を取られてる暇は   
「あのですね」
 ついに、成美は遮っていた。
「ごめんなさい。それ、そちらの課でご判断いただけませんか? うちで考えるより、その方が早いと思いますから」
「……は?」
 電話の向こうで、宮田が言葉を詰まらせたのが判った。
 言った   
 成美の心臓は、もう嫌な風に高鳴っている。
「いや、それはそうかもしれないですけど、……法規担当のご意見をお聞きしちゃいけませんかね」
 宮田の声に、険がこもるのが判った。多分、宮田もむっとしている。
 成美もこの瞬間、はじめて不愉快な感情がこみあげるのを感じていた。
「自分で考えてください」
 ひどく、冷たい声が出た。その勢いのまま、成美は続けた。
「じゃあ、失礼します。以前お伺いした案件のことは、決裁が取れ次第お返事しますから」
「……はぁ」
 不愉快まるだしの応答があって、電話は向こうから乱暴に切られた。
 重苦しい、なんとも言えない気持ちを抱いたまま、成美は持っていた受話器を置いた。
 これでよかったのだろうか? 確かに余計な仕事がひとつ増える事態からは免れた。でも……。
 宮田からの信頼は、今、完全に失ってしまった。やたら細かい性格が苦手ではあったが、道路管理課では、比較的楽しく話が出来る相手だったのに   
「あれ、柏原さん?」
 篠田の声で、成美ははっと我に返った。
 成美だけでなく全員が振り返る。丁度その人は、カウンターを通って中に入ってくるところだった。
 法規係の課長補佐、柏原明凛。
 黒のパンツスーツに身を包んだ女は、いつも以上に無表情で、やや不機嫌そうだった。
「どうしたんです? 市長のお伴でイギリスじゃなかったんですか」
「正午に羽田についた。今日は少しだけ時間が取れるので」
 それだけ言って、自席についた柏原は、すぐに卓上のパソコンを立ち上げた。
「近宗主幹、今の進捗を報告してもらえますか」
「……はい」
 仏頂面で近宗女史が立ち上がる。
 この2人の不仲は有名で、    実際、十以上若い同性の上司を持つことになった近宗には、成美でさえ、時に同情を禁じえない。
 が、近宗はふてくされていれば事足りるが、男性上司でさえ扱い難い近宗を使う立場の柏原は   
 想像するだけで、成美は自分がげんなりしてしまった。
 私には、何があっても絶対に無理。
 そんな立場に追い込まれたら、間違いなく病気になる。
 今も、柏原に近況報告する近宗女史の態度は不遜そのもので、「いちいち口出ししてもらわなくても大丈夫です」感が丸出しになっている。
 柏原補佐は相変わらず能面そのものの無表情で、その顔が、なまじ西洋人形のような美貌を湛えているだけに、なんとも言えない威圧感がある。
     でもよかった。補佐がいてくれるなら、私の仕事もなんとかなるかも……。
 自身の窮状に光明が見えた気になった成美だったが、ふと顔をあげた柏原と目が会った時、その期待はむしろ恐怖に代わっていた。
 冷やかに自分を見つめた柏原の目には、明らかな叱責の色があった。
 女上司にそんな目で見られたのは初めてで、訳が判らないままに、成美は自身の血の気が引いて行くのを感じていた。
 
 
               10
 
 
「……失礼します」
 パーティションを通り、成美は会議スペースに足を踏み入れた。
 午後十時半、そこでは柏原補佐が一人で、膨大な条例改正資料のチェックをしている。
 付箋がいくつもついているから、誤字・語文などのミスが幾つも見つかったに違いない。
「あの……」
「座って」
 おどおどと立つ成美に、書類から顔も上げずに柏原は言った。
「なんで呼ばれたか判ってる?」
「…………」
 判るようで、判らなかった。とはいえ、思い当たる節はひとつしかない。
「仕事が……滞っているせいでしょうか」
「なんで滞っているか、判っている?」
「……………」
     それは……。
 ふっと目の前の景色が、水に沈んだ。
 いけない。成美は急いで視線だけをよそに逸らした。泣かない、絶対にこの人の前では泣きたくない。
「あのね」
「……はい」
 覚悟を決めて、成美は上司に向きなおった。
「知らないことを、知ったふりをするほどみっともないことはないのよ」
     …………。
 成美は、眉だけに力を入れてうつむいた。
 どういう意味だろう。私がいつ、そんな態度を取ったと言うのだろうか。
「答えを承知の上で、相手を突き放すのはある種の思いやりかもしれないけど、知らないことを知ったふりをして突き放すのは、みっともないとしか言いようがない」
 突き刺すような鋭さで、柏原は続けた。
「あなたは、役所人としても法律を扱う者としても素人で、今は、あらゆることに貪欲でなければならない。どんな質問でも、学習の機会だと思って真摯に取り組みなさい。新人が、今日みたいな受け答えを絶対にしてはならない!」
 ようやく成美は、柏原が何に対して怒っているのか理解した。
 でも    でも、それは……。
 言い訳は数え切れないほど頭に溢れ、けれど一言も口からは出てくれなかった。
 他にも、することが一杯あって……。
 もう、私のキャパでは対応しきれなくて   
 何もしらないくせに、という悔しさがぐっとこみ上げる。が、同時に彼女の指摘が的を射ているというのも理解していた。
 宮田の電話を切った後、ずっと自分の態度を後悔していた。それは    心のどこかで、もっともらしいことを言って仕事から逃げた自分のずるさが判っていたから……。
「……日高さん」
 唇を震わせながらうつむく成美に、思いのほか静かな声がかけられた。
「私は、明日にはまた秘書課に戻らなければならない。今夜しか時間が取れないので、あなたの仕事を助けてあげることはできない」
「……はい」
 一度はやりすごした感情の波が、また自分を襲うのが判った。
 どこかで期待して、甘えていた自分が、いまほど情けないと思えたことはない。そのくせ、今も、五歳しか年が違わない同性の上司に、無意味な反発を感じたりして……。
「判らないことは、判る人間に聞けばいいだけの話なのよ」
 淡々と、柏原は続けた。
「判らないことを自分で無理に調べようとするから、無駄に時間がかかっているのが判らない? まず、聞きなさい。それから背伸びするのをやめなさい」
 咄嗟に、成美は顔を上げていた。
 誰に? 誰も教えてくれない。手を貸してもくれない。この忙しい職場で、一体誰に?
 その反発の表情を読んだように、柏原はわずかに息を吐いた。
「たとえば、道路管理の案件なら、その分野に一番詳しいのは誰? 近宗主幹でも、雪村さんでもない。道路管理課の担当者でしょう」
    ……」
 しばらく押し黙った成美は、やがて自身の目から何かが零れたような気がしていた。
「向こうの条例、要綱、専門用語、判らなかったら、恥かしがらずに何もかも相手に聞けばいいのよ。過去の対応例、本省の見解、参考になることはいくらでもあるでしょう」
 その通りだった。
 成美は今まで、それら全てを、行政管理課内の資料で調べて自身の無知を補ってきた。仮にも法規担当者で、基本的な条例を知らないなどは、どうしても言えなかったからだ。
「問題の所在は、常に相談課にあるのだから」
 静かな口調で、柏原は続けた。
「あなたはサポート役であることを忘れてはだめ。一人ではなく、向こうの担当者と一緒に問題解決するくらいの心づもりでいなさい」
「……はい」
 自然に、成美は頷いていた。
 何故だか、ぶるっと脚が震えた。
「あなたが新人であることは、役所の誰だって知っている。ある意味、とても得な立場だということよ。判ったら、もう仕事に戻りなさい」
「ありがとう、ございました」
 成美は、深く頭を下げた。
 暗闇の中、一人でうろうろしていたのを、不意に光の下に引っ張って行かれたような気持ちだった。
 できるだろうか    私に。
 道路管理課の宮田さんにも、住宅計画課の有木さんにも、両方から呆れられている私に。
 でも、やってみるしかない。それしかないんだ。
「あの」
 退出間際、成美は足をとめて、再度柏原を振り返っていた。
 理由の判らない気持ちの高揚が、思わぬ感情を口から迸らせていた。
「私    補佐みたいになりたいです」
 わずかに、柏原が眉を上げたのが判ったが、反応はそれだけだった。
 入った時とは真逆の気持ちを抱いたまま、成美はパーティションの外に出た。
 下腹部の痛みも、親知らずの疼きも、氷室の気持ちが判らないもやもやも、全てが吹き飛んでしまったようだった。
 
 
「そうですか。お忙しいところ、ありがとうございました」
「いえ、これも私の仕事の内ですから」
 返ってくる硬質の声を聞きながら、氷室は、受話器を耳に当てたまま微笑した。
 自宅の書斎    こうして本に囲まれている時が一番落ち着くと言ったら、この電話の向こうにいる人は笑うだろうか。
「帰国したばかりでお疲れなのに、すみませんでしたね。今度、食事でも奢りましょうか」
「結構です」
 すぐさま、きっぱりと断られる。が、その声は、どこか彼女らしからぬ温かなものを帯びていた。
 声の主    柏原明凛と、氷室の出会いは、柏原が灰谷市にやってきた昨年の春に遡る。
 何もかもが規格外の美貌の女性の前歴は、すぐに氷室の耳にも入ってきた。
 なるほどな、と氷室は思った。いかにも上司とそりがあいそうもない強情そうな女性である。一部の隙もない美貌も、それを誇るような凛とした表情も    、氷室に言わせれば、この地上で最も苦手で嫌いなタイプだった。
 が、今電話で話しているこの女性が、知り合った異性の中でも、群を抜いてつきあいやすいと思うようになって、もう随分立っている。
 一番魅力的なのは、    本人が聞いてもまず怒らないだろうが、異性であることを全く感じさせない青竹を割ったような清冽な性格と、意外なまでの天然ぶりだ。
 正直、この女性ほど、外見と中見のギャップで損をしている人もいないだろう。
「お礼を言いたいのはこちらです。日高のことは、近宗主幹によくお願いしていたのですが    ああも見事に放置されているとは思いませんでした」
 苦笑した氷室は、卓上に出していた本を取り上げた。
「それは、おそらく逆効果だったんですよ。あなたがそんな頼み事をしたから、近宗さんが意地悪をしたんじゃないかな」
「……? 何故でしょう」
 何故と言われても   
 氷室は吹き出しそうになっていた。
 誰から見ても嫌われているのに、まるで気付いていないところが、この女性の面白さと、危うさだ。
「柏原さん、僕はあなたのそういうところがとても好きですよ。いや、今のは独り言なので忘れてください」
「忘れましょう。これ以上日高に恨まれたくないので」
 さすがに訝しかったのか、冷静な女は軽く咳払いをした。
「それにしても、お気づきであれば、課長が助言してあげてもよかったのではないですか。日高は、随分追い詰められていたようでしたが……」
「……まぁ、僕でない方が効果的だと思いましたので」
 氷室は膝の上で本を広げた。
 ヘンリック・イプセン。
 ノルウェーの劇作家。
「うちの課の案件でもありますしね。僕の立場で、公平な助言は出来ないですから」
 互いに別れを告げて電話を切った部屋に、元通りの静けさが満ちた。
「…………」
 おかしいな。
 いつもはこの部屋にいれば、何もかも忘れられたのに。
(冷たい……)
 幻聴のように聞こえた囁きにつられるように、氷室は自分の指を見た。
(もしかして、冷え性ですか?)
「……僕の、イプセン」
 氷室は微笑して、ソファに深く身を預けた。
「さて……僕はそろそろ、限界なんですけどね」
 
 
 
 
 
 
 
                            
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。