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冗談じゃない、もうサイテー。
道路管理課と広報課が、銀製のパーティションひとつ隔てた隣室で飲み会をしている。
今夜の舞台であるアジア料理専門店に到着して初めて、成美はその事実を住宅計画課の職員の口から聞かされた。
その時点で逃げて帰ろうと思ったが、住宅計画課の課長がもう、成美の手を引くように先導していったので、逃げることもできなかった。
幸い、広報&管理グループが到着したのは、少し後だったらしく、気配でそれと判るものの、店内の騒然とした雰囲気の中で、隣室の様子を意識し続けることは不可能だった。
それでも、できるだけ早期にこの席を抜けるつもりの成美だったが 。
なんとも申し訳ないことに、今夜の住計の飲みは、実質成美が主役のようなものだった。
若い男性職員 しかも半数が技師職である。成美の仕事の興味へも手伝ってか、ひっきりなしに誰かが話しかけてくるので、帰るどころかトイレに立つ余裕すらない。
最初は、なんとか口実を作って抜けようと思っていた成美だったが、8時を回った頃から、もうどうでもよくなっていた。
もちろん、私がここにいるって、知ってるよね、氷室さんも。
時折、隣のスペースから華やいだ笑い声が聞こえてくる。
そこに、彼は確かにいるはずなのに、成美に一切連絡してくれる気配はない。
まぁ、それも仕方がない。局が違う管理課と住宅計画課は、仕事上全くと言っていいほど接点はない。
役所同士が、同じ店内で鉢合わせになることは、決して珍しい現象ではなく、結局意識しているのは、成美一人だけのようだった。
「あ、日高さん」
それでも意外なことに、ひょいっと顔をのぞかせてくれたのは、管理課の宮田だった。
「すみませんねぇ、おじゃましまーす。あ、いえいえすぐにお暇しますから」
宮田は如才なく他課の間に割って入ると、ごく自然に成美の横にやってきた。
「実は、僕はもう帰るんですよ。おふくろが明日退院なんで 。最後に、日高さんには注いでおこうと思いまして」
それだけ言って、宮田は成美のグラスにビールを注いだ。
宮田の親切は嬉しかったが、成美の心はますます重苦しくなっていた。
宮田が当然のようにこのスペースに入って来た、ということは。
成美がここにいることは、もちろん宮田だけではない、氷室も承知しているということになる。
「あの……あちらは盛り上がっていますか」
成美は、控え目に聞いてみた。
宮田は苦いような笑い顔を見せた。
「察しがつくでしょう? 氷室課長一人がモテモテ状態ですよ。課長も、なんだかんだいって優しいというか、ちょっと優柔不断なところがあるから……押されっぱなしですよ。女性パワーに」
あの氷室さんが。
成美は、ややぽかんと口を開けていたが、すぐにそれを閉じ直した。
「それは……大変ですね」
「狼の群れが羊にくらいついてる図、てなとこですか? うちの課長は切れ者だけど、繊細で優しいから……押し切られそうで、他人事ながら心配です」
その例えは、どうなんだろう?
氷室さんが羊?
いったいあの人は、管理課ではどういう仮面を被っているんだろう。
「じゃ、失礼します。また来週、職場で」
宮田がそう言って去って言ったので、氷室の情報はそれきりとなった。
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「日高さん」
そう言って、その日初めて成美の隣に座ったのは、終始黙々と飲んでいた有木だった。
「なんだー、全然飲んでないじゃないっすか。ほら、遠慮しないで、もっともっと」
と、別人のように陽気になった有木にすすめられ、成美は「はぁ」と飲む気もないビールグラスを持ち上げた。
「最近の若い子はいくらでも飲めるんでしょう? そんな静かな顔で座ってると、一人で白けてるみたいですよ」
いや、その表現は、さっきまで黙々と一人で飲んでいた、有木にこそふさわしいものだったのだが 。
とはいえ、皆が砕けてきた飲み会終盤、白けているのは成美も同じことだった。
飲める方でもなければ飲めない方でもない。
飲んだところで、陽気になることもなければ、陰気になることもない。
つまるところ、飲み会の席にあっても普段とまるで変わらないテンションを維持できる成美は、大抵の場合、こういった雰囲気に乗りきれないからだ。
「有木さん、今夜はありがとうございました」
とりあえず、成美はそう言って彼のグラスにビールを注いだ。もう温くなっているから、双方、礼儀だけのものである。
「いやいやいやいや、こちらこそ」
有木は 普段の寡黙さを知っているだけに意外さに驚いた成美だが、実際、相当酔っているようだった。
白い肌は、うっすらと朱に染まり、きりっとした目も、どこかとろんとして見える。
「有木さんは、マジ酒癖悪いから、近寄らないほうがいいですよ」
隣の技師が囁いてくれた。
「しかも、明日になるとその辺りの記憶が一切飛んでるんです。一番性質の悪いパターンですから」
とはいえ、周囲の誰もが、有木の泥酔ぶりを面白がって見ているようだった。
それはそうだろう。
有木みたいな、生真面目で勤勉で他人にひたすら厳しい男の乱れ切った姿など、こんな時でしかお目にかかれない。
確かに少しばかり怖かったが、何かされる心配があるわけではない。成美はむしろ、欠点をさらけだした有木に、初めて親しみを感じていた。
「いや、ほんと、僕の方が悪かったですから。今回は」
杯を口に運びながら、有木はろれつの怪しい口調で話し始めた。
「最初からびびらしてやろうと思って、喧嘩ごしで行ったんですよ。若い女の子が、周囲にちやほやされて、適当にやってると思ったんです」
次に、ウィスキーのグラスをあおり、有木は口元を手の甲で拭った。
「あの、有木さん、大丈夫ですか?」
さすがにちょっと、成美は引くものを感じていた。
どうしよう。絡まれる前に席を替わった方がいいのかな。
「僕はね……もともと日高さんと同じ立場だったんです。もう十年近くも前ですけど、入ってすぐに、行政管理課の法規係に配属されたんですよ」
え……?
驚いた成美は思わず有木を見上げていた。
「はは……もう、そんな昔話を知ってる人間は誰もいませんよ。一年持ちませんでしたからね。秋から休みはじめて、四月に異動しました。耐えられなかったんです。あまりに辛くて……あの時の僕には荷が重すぎたんですよ」
グラスをあおりながら、独り言のように有木は続けた。
「ずっと思っていましたよ。何故、新人ですぐにあんなところに行かされたんだ。人事は何も判っていない。僕を潰すつもりなのかって。そうして思っていたんです。実力さえつけば、あんなことにはならなかった。もっと勉強して もっともっと経験を積めば……」
成美は何も言えなかった。
苦悩を酒で紛らわせつつ、どうやっても戻らない過去を悔んでいるのは、数か月前までの成美だった。
上手くいかないことを、全て周囲のせいにして、もっと実力と経験があれば私だって と、言い訳ばかりしていた成美自身の姿だった。
「でも、今度は組織の方が、僕みたいな病休経験者を必要としなくなったんでしょうね。今、法規の担当者は、補佐の柏原さんを初め、大半が二十代の若手です。僕より全然若いんです。それでも立派にやっている……。今になって判りましたよ。年でも経験でも実力でもないんです。恥を畏れて逃げないこと。 たったそれだけのことだったのに」
有木さん……。
何も言えずにうつむいた成美は、胸が一杯になっていた。
皆、それぞれ、悩みや葛藤を抱いて仕事をしている。成美から見れば、有木ほど自信に溢れて仕事をしているように見えた人もいなかった。それなのに……。
「……私、恵まれていただけだと思います」
成美は言った。
「柏原補佐や……他にも色々な人が、道を示してくださいましたから……そうでなければ、とても耐えられなかったと思います」
本当に恵まれていた。
そうでなければ、暗闇の中、きっといつまでも彷徨い続けていただろう。自己憐憫と、運命だけを呪い続けて 。
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