7
 
 
「いったい、どういうことなんですか」
 朝一番でやってきた住宅計画課の有木は、こめかみを震わせるようにして成美に詰め寄った。
「おたくが、昨日電話すると言ったんじゃないですか。僕は、10時までずっと連絡を待っていたんですよ? どういうつもりなんです。本当にやる気があるんですか?」
 成美はただ、氷みたいに固まってうなだれていた。
 言い訳できることは何ひとつなかった。完全に、自分のミス   
 こちらから有木に連絡すると言ったのは成美だし、その有木から8時にあった電話を出ないままに飛び出した。
 その後は、執務室に戻っても、ただ動揺していただけで   
「本当にごめんなさい」
 成美は声を振り絞るようにして言って、頭を下げた。
「必ず、今日中に連絡しますので、……昨日は、本当にすみませんでした」
「あなたの約束は、まるであてにならないですよ」
 きんきんと響く有木の声は、行政管理課どころか、隣の総務課にまで響き渡っていた。
「新人だからって、周りに甘えているんですか? 僕だってね、何も合議先じゃなきゃ、おたくの事前協議なんかいちいち受けやしませんよ。こっちがいくらあれこれ調べて起案しても、おたくで再々弾かれるから。だからこうやって、事前協議をお願いしてるんじゃないですか」
 ただ、うなだれて頷くしかない成美である。
 まだ役所に入って五カ月と少し。仕事の流れがようやく判るようになってきて、その仕事を一人で任されるようになったばかりである。
 成美は、市の行政執行の、いわば最高位に位置する機関に所属している。
 誰もが頭を悩ます案件の、最後の結論を出す場所が、成美のいる行政管理課なのだ。
「……すみません……本当に、昨日のことは、私のミスでした」
     やっぱり、私には無理なんだ……。
 何度も謝りながら、目の奥がぐっと熱くなっていた。
 経験がないことを言い訳にするなと、柏原補佐には言われたけど、頑張ったって何もできない。ただ時間ばかりかかって、結論を間違ってもどう軌道修正していいかさえ判らない。
 係の中に、そもそも同寮をフォローするシステムがないのだからどうしようもない。まだ仕事が閑散期なら、ガチャピン篠田なりダブルオーなりが、厭味を言いながらも助言をしてくれただろう。
 が、今は係の全員がピリピリ殺気立っていて、とても余計なことを頼める雰囲気ではないのだ……。
「柏原さんは、いつ戻るんですか」
 帰り際、厭味としか言いようのない口調で有木は言った。
「おたくは法律の本をただ読むだけの仕事でしょうが、こっちは、市民相手に最前線で仕事をしている区役所を統括してるんです。頼みますよ、本当に」
 こんな日に限って下腹部が重苦しく痛み、学生時代から悩まされていた親知らずもズキズキし始めている。
 噛み合わせがずれているため、ちょっと体調を壊すと、すぐに歯肉が炎症を起こしてしまうのだ。
 気持ちを入れ替えて机についても、広げた案件は、涙が出そうなほど複雑で、判らない専門用語のオンパレード……。まず、それをいちいち法律用語集や令規で確認することから作業が始まる。
 そうしている間にも、催促の電話は再三鳴る。
「あの……すみません。もう少し待ってください」
「今、調べていますので、はい、……ええ……明日か、明後日には、必ず」
 相手の声に、全て有木の苛立った顔が重なった。
 どうしよう。    どうすればいいんだろう。
「一体、どんだけ仕事ためてんだよ」
 いつの間にか背後に立っていた雪村主査の、呆れたような声がした。
「……事前協議が、五つに……質問が四つほど」
 消え入りそうな声で成美は言った。
 はっと、雪村が疲れたように嘆息する。
「あのさ、なんでもかんでも受けるからそういうことになるんだよ。六法全書開けば判る程度の質問なんて、自分で調べろって突き返せ。でなきゃ、俺らの仕事にならないだろ」
「……はい……」
「いい加減八方美人はやめて、皆の対応をよく見てみろ。どうでもいい質問や協議以来なんて、ばっさり切り捨ててるから」
 それだけ言うと、雪村はさっさと歩いて自席に戻る。
 残る連中は、皆知らぬ顔を決め込んでいる。
 成美は、眉を寄せながら、再び書面に向きなおった。
 確かに雪村の言うとおりで、かかってくる電話に対する皆の対応は、結構クールだ。
「あー、それ、要綱に出てますよ。自分で確認してもらえますか」
 とか、「そんなこと、考えてもあまり意味ないですよね。こっちで結論出すこととは違う気がするんで、そちらの内部で検討してもらえませんか」とか……。
 もともと口が悪いダブルオーなど、電話を切った後「少しは自分で考えろ、バーカ」と言い棄てる始末である。
 が、成美にはその辺りの区別がまるでつかないのだった。つかないから、ひとまず受けて、受けた以上、何かの回答を探し出してやる他ない。
「急ぐ順に、タスクでも作ってみたら」
 隣席のガチャピン篠田がぼそっと囁いてくれた。
「頼むから潰れるなよ。これ以上負荷かかってきたら、僕らだって危ないから」
「大丈夫です」
 成美は気丈を装って顔を上げたが、その実、いっそ病気になりたいとさえ思っていた。
 どうやったら、この負の連鎖から逃げだせるだろう。
 もう、どうやっても抜け道が見いだせない……。
 
 
          8
 
 
「成美、ちょっと」
 昼休憩が終わり、執務室に戻ろうとした時だった。
 遅れて食堂から出てきた可南子が、いきなり背後から成美の袖を引っ張った。
「なに?」
「いいから、あれ見てごらんよ」
 早く戻って仕事の続きをするつもりだった成美は、躊躇いながら、可南子が指す方を見た。
 15階    食堂横の休憩スペース。そこに氷室の姿を認めた成美は、さっと目を逸らしそうになっていた。
 彼が、昼の一時、その場所で過ごすのは知っていた。
 可南子がいない時で、しかも彼の周囲に誰もいない時、成美もこっそり顔をのぞかせたことがある。
 とはいえ、役所では完全に秘密にしている2人の関係が噂になってもいけないので、極力気にしないようにして、彼がそこにいても素通りしている。
 今、氷室は一人ではなかった。
 彼の隣には、彼をうっとりと見上げる、倉田真帆が陣取っている。
 2人は隣り合って座り、コーヒーを片手に何事かを語らいあっているようだった。
 時折、行き交う女性職員が、興味津々といった態で脚を止めているから、傍目にも少しばかり目を引く組み合わせなのだろう。
「てか、趣味、悪すぎじゃない?」
 嘲笑うように可南子が言った。
「案外マニアックな趣向の持ち主なのかもね。他にマシなの、いくらでもいるでしょ。    ま、どうせ縁故目当てだろうけど」
 いや、それは可南子のレベルが高すぎるからで    倉田真帆は、女性としては、相当魅力的な部類に入るはずである。
「安っぽい男……。幻滅ね、成美も目が覚めたでしょ」
 成美は曖昧に頷いて歩き出した。
 昨夜、    思い悩んだ挙句、九時過ぎに再度電話した。
 自分の言い方がひどく言い訳めいて、刺々しかったという自覚があるし、やはり、氷室と真帆の件は、成美の一方的な誤解に違いないと思ったからだ。
 彼の裡に潜む、寂しさや孤独を、成美はよく知っている。
 確かに、彼が何故私を選んでくれたのかという最大の疑問は残るけれど、だからといって、こんなに早急に、彼の人格的なものを疑う必要はないはずだ。
 が、掛けた電話は、驚くことに電源が切れていた。
『ただ今、この電話は電源が切れているか電波の届かないところに……』
 無機質なメッセージを聞きながら、成美は懸命に、携帯電話の電源が切れている理由を    最もらしい理由を考えようとしたが、無駄だった。
 頭に浮かぶのは、ネガティプな想像ばかり。今、彼は、隣に別の人を乗せていて、そして……。
 数度掛け直し、その度に同じメッセージを聞かされた後、成美はそんな自分が嫌になって、自身の携帯の電源を切ってしまった。
 もう、氷室のことなど考えたくもなかった。かかってこない電話を一晩中待つより、こちらから完全に繋がりを切ってしまったほうがマシである。
 今朝、携帯電話の電源を入れて……あれから六時間。
 彼から、連絡めいた素振りは一度もない。
 あんな中途半端なところで、一方的に電話を切られたのに、フォローする気さえないのだろうか?
 それが誤解であれ、なんであれ、彼は一言も私に抗弁してくれなかった。
 つまり、それは……その必要がないと、そういうことなのだ……。
 
 
 
「聞きました? 法規の日高さんの話」
「聞いた。住宅計画の課長が、行政管理課長に直々に苦情言いに行ったんだろ」
 午後    自席でメールの返信をしていた氷室は、その声にふと顔を上げていた。
 第一管理係の沢村と宮田だった。課長席横、パーティションで仕切られた給湯コーナーで、2人の男はコーヒーをカップに注いでいるようだった。
 くたびれた中年男にしか見えない宮田は27歳。風貌に凄味さえ漂わせている沢村に至っては25歳という若さである。
 が、高卒の沢村は役所歴は宮田より長く、そのせいもあり、一種独特の雰囲気もあり、課内では誰からも一目置かれる存在だった。
「このままじゃ、仕事が滞るから担当を換えてくれって」
「うわ、きつ。……それ耳に入ったら、日高さんへこむだろうな」
「てか、うちも他人事じゃないっすよ。正直、雪村さんか篠田さんが代わってくれたら、どんなに助かるかって思いますもん」
 苛々した声で宮田は続けた。
「おかげで全然仕事が進まないし……、うち、今、おふくろが入院してんですよね。早く切り上げて帰りたいのに、なかなか返事がかえってこないから」
「ま、どっちにしても議会中は帰れないだろ」
 氷室は、軽く息をついて立ち上がった。
 これはもう、放っておけるレベルを超えているな。
 周りが忍耐の緒を切らすか、本人が潰れるか、どちらが早いかだけの違いだろう。
 さて、しかしどうすればいい。
 どうも、今の彼女が、俺の言うことをまともに聞くようには思えないのだが   

 
 
 
 
 
                            
 >next  >back  >top
Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。