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「では、僕はこれで失礼します」
 玄関先で、氷室は丁寧に一礼した。
「今度は車ではなく、ぜひ公共交通機関できたまえ。いや、なんだったらこちらから迎えに行かせる」
 廊下に立って見送る男は、心底残念そうな目をしていた。微笑して、氷室は再度頭を下げる。
 市議会議員の倉田誠一。
 当選5回。建設分野に力のある与党系議員で、市議会では会派の長でもある重鎮である。
 市内郊外にある閑静な邸宅は、いかにも資産家の家らしく、コンクリートの壁で囲まれ、いくつもの監視カメラが備え付けられていた。
「氷室さん。今度はパパのお誘い、断っちゃ駄目ですよ」
 その倉田の隣で、娘が頬を膨らませるように言った。
「パパ、氷室さんと飲めるのをすごく楽しみにしてたのに」
「これは、まいったな」
 氷室は、わざと困惑している態を見せた。
「車でなければ、ぜひご一緒したかったのですが」
「帰りは送らせると言ったんだ。とても貴重なワインが手に入ったから、是非とも相伴してもらいたかったんだよ」
 議会の中でも慎重派で知られ、温厚な紳士でもある倉田は、今夜は徹頭徹尾父親の顔しか見せなかった。
「明日も仕事がありますので」
 氷室はやんわりと遮った。
「また今度、ぜひご一緒させてください。お嬢さんにはしばらく仕事でお世話になりますので、いつでも機会はあると思いますから」
「じゃあ、明日」
 笑顔で手を振る娘に、氷室は最上の笑顔を返した。    が、その笑顔は、玄関の灯りに背を向けた途端、淡雪よりあっけなく消えている。
     疲れる……。まぁ、仕方ない、これも仕事の範囲内だ。
(元局長を通じて、まぁ……つまりはそういうことだよ、氷室君。倉田議員は、娘の花婿候補に君をと思っているようだが、どうするかね。君は令室を亡くされたばかりだし、そういった状況ではないと、それは説明しておいたのだが)
(倉田市議は、物分りのいい紳士ではあるが、娘のこととなると少しばかり熱心にすぎるきらいがある。むげに断るのも失礼だろうから、多少は考える素振りでもみせてもらえないだろうか)
「…………」
 現道路局長墨田の苦しい胸の内は、氷室にはよく理解できた。
 今回の議会で、道路局は長年の懸案であった市営駐輪場の値上げに踏み切るつもりでいる。ここに至るまでには数年に及ぶ紆余曲折があり、数多の反対議員に根回しし、ようやく今議会上程にまでこぎつけたのだ。
 今、建設関係に力を持つ倉田の機嫌を損ねたくない    つまりはそういうことだろう。
「氷室さん」
 玄関の石畳を抜けたところで、背後から倉田市議の娘が追いかけてきた。
「どうしました」
 たちまち魅力的な笑顔で、    そこに、多少の驚きを交えつつ、氷室は振り返っている。
「車までお送りしたくて……いいですか?」
 腿とヒップラインの形良さをはっきりと見せつけるようなぴっちりしたジーンズに、胸元の大きく見せるサマーニット。
 控え目だが、自分を最大限魅力的に見せることを心得たメイク。そして何より、男心を掴み慣れた目線の配り方。
 氷室は、微笑して倉田真帆を見下ろした。
「いいですよ。あのままお別れするのは、僕も多少心残りでしたから」
「ま……」
 仄かに頬を染めた女は、潤んだ目で氷室を見上げた。
 演技か本音か。
 まぁ、そんなことはどうでもいい。
 議会が終わるまでの辛抱だし、こちらの素性が知れてしまえば、市議サイドから手を引くだろう。
 この程度の泥なら、霞ヶ関でいくらでも飲んでいる。
「そうだ、氷室さん。今日知って吃驚したんですけど、行政管理課の法規係に、私の同期がいるんですよ」
「……日高さんのことですか」
 特段隠す必要もないので、ごく自然の間を置いて氷室は訊いた。
「確か、行政管理と広報は同じ局だったと思いますが」
「ええ、でも彼女……なんていうか、悪い意味じゃなく、少し地味じゃないですか」
 これしか語彙がない自分を恥じるように、真帆は続けた。
「同期会にもずっと不参加で、だから、あまり存在感が……。彼女、大学時代の彼と長く同棲してたから、あまり合コン的な飲みに興味がないって噂もあったんですけど」
「そうなんですか」
 ごく普通に、氷室は答えた。
「今は    ご存じです? これも耳にした噂なんですけど、住宅計画課の有木さんって人とおつきあいしてるって。びっくりしました。だって有木さんって……ご存じないかもしれませんけど、妻帯者なんですよ」
「それは、穏やかな話ではないですね」
「あ、ごめんなさい。氷室さんが聞き上手だから、つい余計なことまで言っちゃった。一応同期だから……心配なんです。そんな噂がたっているだけで、役所じゃマイナスになっちゃうから」
「聞かなかったことにしますよ」
 丁度、車の前に着いた。
 真帆はなお物欲しそうな雰囲気だったが、それは気付かないふりでやりすごし、氷室はようやく運転席に収まった。
「やれやれ」
 走り出した車内で肩の凝りをほぐした氷室は、車が交差点で停止した時に、ふと気付いて上着に入れておいた携帯電話を取り上げた。
 タイミングが悪かったとはいえ、中途半端な所で切ってしまった。
 着信は、ない。
「…………」
 予想していたこととはいえ、氷室は軽く息を吐いた。
     住宅計画の有木か……。
 妙な話を妙な相手から聞いたものだ。
 本当だとしても、伝えるまでもないだろう。逆に管理課には、その有木が日高成美をやたらいじめているという噂が入っている。
 若い男女が2人きりで長時間協議しているから、色んな推測をされるのかもしれないが……。
 それにしても、性質が悪いな。
 この時期、そんな噂がたっては、局の法規担当者としての立場はますますなくなる。
 柏原明凛のように、それを実力で跳ね返せればいいが、おそらくはそうもいくまい。
 道路脇に車を停めた氷室は、やはり思い直して携帯電話を取り上げた。
(ごめんなさい。実は間違って押しちゃったんです。友達にかけるつもりだったのに)
 今思えば、妙に刺々しい言い方だった。
 言い訳としか思えないが    今度はいったい、どういう心境の変化だろう。
 耳に当てた電話からは、無機質なメッセージだけが返された。
『ただ今、この電話は電源が切れているか電波の届かないところに……』
「…………」
     謎だ。
 氷室は携帯を切って、それを助手席に嘆息と共に置いた。
 
 
 
 
 
 
 
                            
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。