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「日高さん、電話」
 もし    もし本当に、倉田真帆が氷室さんを狙っているとして。
「日高さん、住計から電話だけど」
 彼は、そんなに簡単に倉田真帆に流れるだろうか。
 だって彼と私は、ついこの間両思いになったばかりなのだ。なのに    そんなに簡単に。
    前も言ったけど、ステーキを食べ飽きた人が野菜に手を出すようなものなのよ……すぐに物足りなくなるわ)
「…………」
 考えすぎだ。
 よしんば彼がそういう人だとしても、まだ、そうなるには早すぎる。
 でも、確かに、今日の氷室さんは冷たかった。
 倉田真帆と一緒に会議室から出てきた後、私の顔を見ても、表情ひとつ変えずに視線を逸らして   
「日高さん?」
「ごめんなさい。ちょっと外に出てきます」
 成美は、ついに立ち上がっていた。
「それじゃ、後で掛け直すって言っとけばいい?」
 電話を受けてくれた篠田が、困ったように何か言ったのは判ったが、その意味は、もう成美の頭に届いてはいなかった。
 とにかく、電話してみよう。
 エレベーターホールに出た成美は、携帯を持ったまま、人気のない場所を求めて階段の踊り場に入った。
 とはいえ、いきなり声を聞くのは    やはりどこか躊躇いがあった。
 こんなことなら、無理にでもメールアドレスを教えてもらえばよかった。実はメールアドレスの交換については、氷室から断られたのだ。
(僕のような大人が、いい年をしてメールもないでしょう。必要があれば、留守電に残しておいてください)
 そんな老人めいたことを言うほど氷室がいい年だとは思えないが……理由はどうあれ、彼が携帯メールに積極的でないことだけは確かなようだった。
     何話そう……。あまり、心配させるような話はしたくないし。   

 たかが電話    と言いつつ、あまりに久しぶりすぎて心臓がドキドキいっている。成美は、持ち上げた携帯から彼の番号を選択して、二十秒ほど躊躇った後に、プッシュした。
 出るかな。
 出るかな    出て、お願い。
 こうして待っている間に、頭の中から何もかも飛んじゃいそうで   
「氷室課長、携帯が鳴ってますよ」
 背後からいきなり聞こえてきた女の声に、成美ははっとして、同時に咄嗟に携帯を切っていた。
「あれ、切れちゃった」
 声は、倉田真帆のものだった。
 どこから    ? 成美は心臓が凍りつくのを感じている。
「誰からですか? 掛け直さなくていいんですか?」
「仕事です。後で大丈夫ですよ」
 優しい氷室の声がした。
 階段    成美が立つ踊り場の下、階下の非常階段からだ。
 察した成美は、急いで踊り場外の壁に身を隠している。
「こんな時間におつきあいいただいてごめんなさい。どうしても課長に見ていただきたくて」
「いえ、僕の方が無理を言ったんですから」
「ふふ……コーヒー、ご馳走様でした」
 2人の声が、みるみる近づいてくる。
 夜のエレベーターホールは照明が落ちていて、壁に張り付いて動かない成美を完全に隠してくれていた。
 踊り場から出てきた2人    氷室と倉田真帆は、肩を並べて管理課のある方に歩いて行く。
 判っているのは、彼が成美の電話を    それと判っていて、「仕事です」とあっさり流してしまったことだけだった。
「どうしよう。こんなに遅くなっちゃった。帰りの電車、もうないかもしれません」
 はい? 8時に停まる電車って……。
 成美は目を剥いたが、氷室はあっさりと女の簡単な罠に乗った。
「そうですね。よろしければ、僕が家まで送りましょうか」
「ええっ、いいんですかー」
「ええ、市議にも、一度顔を出すように言われていますので」
 遠ざかる足音と、2人の笑い声。
 まるで、性質の悪い夢でも見ているような気持ちだった。
 ようやく心臓の音が収まった後、成美はただぼんやりとその場に立っていた。
 嘘みたいだけど、嘘じゃない。
(だからあんな男、信じるなって言ったのよ)
(誓ってもいいけど、彼がキープしている女なんていくらでもいるわよ)
 これが、もしかして氷室さんの正体……?
 こうやって、誰彼となく女性を落として弄ぶ    それが、本当の彼だったの……?
 
 
 
「日高さん?」
 強張った手で、持ち上げた携帯を耳に当てると、普段どおりの優しい氷室の声がした。
 声の背後で、車のクランションの音がした。今、彼は外にいる   
「申し訳ない。仕事中ですぐに出られませんでした。何か用でしたか」
「いえ……」
 成美は、懸命に明るい声を出そうとした。
 これはきっと何かの誤解で。
 何か理由があったのに違いない。
 氷室から電話があったのは、執務室でぼんやりとパソコンを叩いていた時だった。
 すぐに携帯を持ってエレベーターホールに出たものの、2人の会話を盗み聞いて十五分も経った後の電話だったという現実が、胸に重くのしかかっている。
「あの……私、今日も残業で」
「ああ、知っていますよ。柏原さんがいなくて大変ですね」
 氷室の声は、拍子抜けするほどあっさりしていた。
「無理に誘うつもりはないので、安心してください。僕も今週は、少しばかり忙しくなりそうなので」
「……そうですか」
 沈んだ成美の声に、氷室がわずかに不審を感じたのが判った。
「なにかありましたか?」
 どうしよう。
「仕事のことかな。今でなければ、相談にも乗れると思うのですが」
「いえ」
 成美はきっぱり断っていた。今でなければ、という言葉に、無意識に傷つき、意地になっている自分がいる。
「ごめんなさい。実は間違って押しちゃったんです。友達にかけるつもりだったのに」
「……ああ」
 彼が、わずかに言い淀むのが判った。
 が、すぐに彼は普段通りの口調になった。
「そうでしたか。じゃあ、掛け直してお邪魔だったかな。久しぶりに日高さんから電話があって、僕は嬉しかったのですが」
 なんだろう。この無邪気さは。
 悪びれてないなら、はっきり聞いた方がいいのかな。へんに、うじうじ一人で悩んでいるより……その方が。
    ああ、申し訳ないですが、来客があるので」
 不意に氷室が早口で言った。
「また僕の方から連絡しますよ。仕事、頑張って」
 成美の返事を待たず、一方的に電話は切れた。
 何があったかは想像するまでもない。
 彼の元に、待ち合わせをしていた倉田真帆が現れたのだ   
 今の状況をなんと呼べばいいのだろう。
 もしかして二股……?
 それとも、二つだけでなく、もっと?
 成美はなんとも言えない気持ちのまま、ただその場に立ちつくしていた。

 
 
 
                            
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。