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「よ、元気?」
 背後から軽く背を叩かれた。
 道路管理課で、こうも馴れ馴れしく成美に接してくる男は一人しかいない。第一管理係の沢村烈士である。
「氷室課長なら、今、会議室で打ち合わせ中だけど」
「違います」
 きっぱりと遮っておいて、成美は軽く咳払いした。
「宮田さんにちょっと話があって……以前、相談を受けた案件のことなんですけど」
 とはいえ、確かに一目、氷室に会いたいとは思っていた。
 彼と幸福な週末を過ごして今日で十日。
 氷室に会いたいと思う反面、今会えば、はりつめたもの全部が壊れてしまいそうで恐ろしくもある    。でも、本音を言えば、ものすごく会いたい。
 いくら会わない宣言をしたといっても、それは少々行き過ぎというか、せめて電話くらいしてもよかったのかも    とも、最近思い始めている。
 が、やはりそれは出来なかった。
 とんでもなく追い詰められている今だからこそ、最後まで一人でやり遂げたいという意地もある。
 だいたい、ここで彼を頼ってしまえば、ますます依存心が増していくばかりで……、それは色んな意味で望ましくない。
「嘘でしょ。まだ協議が終わらないんですか」
 カウンターから出てきた宮田は、成美の説明を聞いて、露骨に呆れた顔になった。
 第一管理係の道路占用担当者で、違法看板の撤去の件で、成美に案件を回してきた男である。
 仕事熱心なのは判るが、やたら細かいことまでいちいち聞いてきて    正直辟易することもある。
 今も、甲高く神経質な声で宮田は続けた。
「法規からの回答がこんなに遅いことってないですよ。あ、悪い意味で言ってるんじゃないけど……こっちも、区役所から回答急かされてるんで、頼みますよ、マジな話」
「すみません……」
 ひどく大声でまくしたてられ、成美は耳まで赤くなる思いだった。
 確かにこれまで、三日以上回答を留保したことはなかった。それは、もたもたする成美に代わり、柏原補佐がいつも答えを出してくれていたからで   
「おつかれさまでした」
 その時、一際華やいだ女性の声が、管理課執務室に響き渡った。
「じゃあ、課長。来週はよろしくお願いします。あ、それから今日お願いした話、そっちも忘れないでくださいね」
 成美は自然に、声のほうを見ていた。どこかで聞いた声のような気がしたからだ。それも、あまりいい記憶ではない声   
「こちらこそ、よろしくお願いします」
 次いで、氷室の声がした。
 南側の突き当たり    開かれた会議室の扉の中から、その氷室が出てくるところだった。隣には、彼の肩ほどの背丈の、スレンダーな女性が立っている。
 総務局広報課の倉田真帆。
 成美はその女性を知っているし、相手も成美を知っているはずだった。
「なにしろ、テレビの取材は初めてですから。色々ご教示お願いしますよ」
 氷室は、いつになく判りやすい笑顔を浮かべていた。
 上機嫌    というより、見事なビジネススマイルだ。
 彼のような一見寡黙を貫いている人が、ああも愛想のいい笑い方ができるとは思わなかった成美は、しばし呆然とその横顔を見ている。
 が、彼の隣に立つ倉田真帆の方が、今は成美より熱心にその横顔を見ているようだった。
「課長なら、すごくテレビ映りがいいと思います。どうします? 冗談拭きで、視聴者からファンレターが届くかもしれませんよ」
「はは」
「お世辞じゃないですよ。私、ずっと素敵な方だと思ってたんです。氷室課長のこと」
 2人の会話は、静まり返ったフロアに、恥かしいほどはっきりと響き渡っていた。
「そこで、ははって……、否定も謙遜もしないのが、氷室さんのすごいところだよな」
 沢村が、呆れたように呟いて肩をすくめた。
「課長、当日の衣装、もしよろしかったら私が指定しても構いません? せっかくだから、課長が一番映える色でコーディネイトしてみたいわ」
 倉田真帆   
 いかにも貫録たっぷりだが、実は成美の同期である。つまり、今年採用された新規職員。
 で、ある意味、同期間では最も有名な女性である。
 真帆の背後には、広報課の職員と思しき恰幅のよい男性が追従している。氷室は振り返り、その職員にも愛想よく話しかけているようだった。
「取材なんだよ。不法駐輪の特集を、市の広報番組でやることになったみたいでさ」
 沢村が、低いハスキーボイスで説明してくれた。
 それがあまりに耳元だったので、成美はぎょっとして振り返っている。
 沢村は、鋭い野性的な目を細めてにやにやしている。相変わらず不気味というか、何を考えているのか掴みがたい。
 思わず後ずさった成美を、沢村はカウンターに追い詰めるようにして、距離を詰めてきた。
「うちが担当の宮田さんを出そうとしたら、広報からのご指名で氷室課長……ま、確かにあのルックスなら主婦受けはするだろうね」
「そ、そうなんですか」
「最近は何かにつけて打ち合わせに呼ばれてばかりだよ。ていうか、あの子、普通に課長に気があるんじゃない?」
 挑発しているとしか思えない沢村から、成美は身体を逸らすようにして逃げた。
「氷室課長、それじゃあ、またご連絡しますね」
 再び、倉田真帆の声がした。
「ええ」
 真帆を見下ろし、氷室は柔らかく微笑している。「お待ちしていますよ」
     なんだろう……。
 軽い足取りで去っていく真帆を見送りながら、成美は理由の判らない胸騒ぎを感じていた。
 今の課長の笑い方が、とても魅力的だったから?
 まるで、倉田さんを誘惑でもしているような    って、何を邪推してるんだろう、私ったら。
 成美は、躊躇いがちに氷室の方に視線をやったが、確かに視線はあったものの、彼は特別なアクションを示さなかった。
 わずかにうつむき、そのままファイルを片手に自席の方に戻っていく。
 その思いもよらない冷たさに、成美は少しばかり打ちのめされていた。
 もちろん、仕事中だから……そんな風に思う自分がどうかしているのだろうけど。
 
 
 
 おいおいおいおい。
 今のはなんだ? 俺に対する挑戦か?
 自席に戻った氷室は、親指を唇に当て、もう片方の指で机を叩いていた。
 沢村の悪癖は今に始まったことではないが、忠実な犬みたいに飼い主の言いつけに従っている男相手に、今の態度はないだろう。
 沢村みたいな女癖の悪い男とあんなに身体をくっつけあって    妙な誤解でもされたらどうするつもりだ。
 ただでさえ、管理課内での彼女の評判は落ちているというのに   
「氷室課長っ」
 氷室は眉を寄せて顔を上げた。
 目の前には、再び三ツ浦が立っている。
「先ほどの決裁、直してみたんですけど、どうでしょうか    って、すみませんでしたぁ!!」
 氷室が口を開く前に、蒼白になって逃げて行った新人職員を、氷室は無表情で見送った。
「き、気のせいですかね? 今、課長の背中からブリザードが」
「つ、疲れが溜まっていらっしゃるんだよ。ほら、議会前なのに広報の仕事まで入ったから」
 それにしても    謎だ。
 氷室は嘆息して立ち上がった。
 今まで、ゲームみたいに何人もの女を落としてきた。
 当時の行動の善悪しはともかく、彼女たちは、    たいてい、三日もたたずに必ず向こうから連絡してきた。
 日高成美が人一倍仕事熱心といえばそれまでだが、どうも、それだけではない気がする。
 何か、氷室の想像の及ばない部分で、妙な意地を張っているような   
「…………」
 判らないな。
 何もかも俺のものにしたと思っていたのに、それは自惚れに過ぎなかったのか。

 
 
 
 
 
 
 
 
                             
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。