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17
エレベーターを降りた時、ほんの数カ月前の恥かしい記憶が、わっと胸に溢れかえって来た。
14階――。
成美がいつも、泣いていた場所。
まさかこんな場所で、氷室が1人で仕事をしていようとは思ってもみなかった。
いつもだろうか。それとも最近?
やっと判った。初めて彼の車に乗せてもらった夜――あの夜、彼はこの階で仕事をしていたのだ。
道路管理課の電気が消えているのに、彼がいきなり10時前に現れたのは――そういうことだったのだ。
14階は案の定真っ暗だったが、薄い光が、確かに一筋漏れていた。
第3会議室――、少人数用の会議室で、30畳程度の広さしかない部屋である。
念のため、おそるおそるノックすると、
「はい」中から、氷室の声がした。
成美の心臓は、その刹那しぼみ切るくらいに収縮している。
柏原補佐が言いたかったことは、鈍い成美にもすぐに察しがついた。
つまりは、氷室さんが――補佐に助言してくれたということなのだ。
おずおずと成美が入ると、氷室はわずかに眉を上げたが、それだけだった。
彼が、どういう感情からか、すでに冷めきっているのを成美は知った。
それは、心臓が冷えついてしまうほどのショックだった。
「なんですか?」
開いたノートパソコンから顔もあげずに、氷室は言った。初めて耳にするような、素っ気ない声だった。
「あの、仕事……」
成美の強張った舌から、別人のような声がでた。
「……だいたい片付いて……終わったので」
「そのようですね」
彼はあっさりと切りあげた。
「申し訳ないのですが、少し切羽詰まっているので――話がそれだけなら、出て行ってもらえませんか」
成美の目が、心が、手足が震えた。
迂闊にも、想像してもいなかった。
あの氷室さんに、こうも冷たくされるなんて――。
心変わりとか以前の問題として、大好きだった人に、こんなに冷たく……。
「わ、わかりました。お邪魔してすみません」
うつむくと、涙がこぼれそうになった、成美は顔をあげて、唇を噛みしめた。
「それから――柏原補佐に聞きました。今回は、色々ご心配をおかけして、……ありがとうございました」
氷室から返ってくる声はない。
「……失礼、します」
成美は、懸命に動揺を堪えて会議室を出た。
出た途端、感情が一気に溢れそうになっていた。
なんという皮肉だろう。いつもいつも、成美が激情の全てを吐露していた14階で、再びどん底に突き落とされてしまうなんて。
いつも泣いていたトイレは目と鼻の先にある。
あそこに入れば、泣いてもいい。そんな条件反射が、ますます成美の顔をくしゃくしゃにさせている。
――こんな場所で泣いちゃだめ……。
氷室さんに聞こえてしまうし、そんなのあまりにも惨めすぎる。
「さぞかし、僕を愚かしく思ったでしょうね」
背後から、いきなり声が響いた。驚いて振り返った途端、大股で近寄って来た氷室に腕を取られていた。
「い……、」
痛みに、成美は眉を寄せた。
彼の顔は、はっきりと怒りを顕わにしていた。
「いい年をして、毎日、あなたからの電話を待つしかなかった。笑ってもいいですよ。そして二度と、僕に思わせぶりな態度は取らないでください」
あの……。
あの――。
それは……。
「電話、したじゃないですか」
言った途端、涙が頬に散っていた。
「何度もしたのに、氷室さん、電源切ったり、ブチ切りしたり、――氷室さんが、私を避けてたんじゃないですか!」
感情の箍がその時壊れ、成美は顔を覆って泣きだしていた。
「……ちょ」
一瞬唖然とした風だった氷室は、戸惑ったように周囲を見回し、成美の肩を抱えるようにして、再び会議室に連れ戻した。
氷室がそのまま、ものも言わずに抱きしめてくれたので、成美も彼にしがみつくようにして、泣いた。
「わざと、私を追い詰めてるんですか」
嗚咽しながら、成美は訊いた。
「いえ……今回は、僕が少々追い詰められていたようです」
少しその声が優しくなっている。
成美は顔をあげ、2人はそのまま唇を合わせていた。
涙も何もかも吸い取るように、氷室のキスは執拗に続き、彼はそうしながら会議室の扉を内側からロックした。
冷たい手が、成美の背中を情熱的に這っている。
やがて成美は我を忘れ、彼の冷えた手が素肌の熱を奪い取るのに任せていた。まさか――と掠めるように思った時には、もう遅かった。
「っ、氷室さん……」
気がついた時には、もがく身体を抑えられ、成美は長机の上に仰向けにされている。
成美の両手を重ねるようにして片手で押さえ、見下ろす氷室の唇には薄い笑みが浮かんでいた。
――こんな場所で?
「だ、だめです、いやっ」
驚愕した成美は抗ったが、彼にやめる気はさらさらないようだった。
むしろ、追い詰められた鼠をいたぶるように意地悪く、力とは別の、甘い残酷さを伴う方法で――成美の抵抗をひとつひとつ消していく。
こんなところで、最後まで――。
恐ろしい予感に成美は震えたが、もう逆らう気力は溶け落ちていた。最初から、氷室に引く気はないのは明らかだ。忘れていたわけではなかったが、彼にこの方面でのモラルは、……期待するだけ無駄だったのだ。
長机が、成美より先に悲鳴をあげる。
「……んっ、っ」
きつく閉じた目に、涙が滲む。懸命に声を殺して氷室の熱を受け入れながら、成美は氷室の性癖を恨んだ。でも……もう、成美自身もその熱波に半ば飲み込まれてしまっている。
「あ……っ」
「しっ」
口を片手で塞がれる。そのまま、氷室が、いっそう深く入ってくる。苦しさに成美は首を振り、咄嗟に彼の指を噛んでいた。
「っ……」
わずかに眉をゆがめた氷室は、しかしすぐに冷笑を浮かべた。
「そんな可愛い抵抗をすると、ますます君をいじめたくなるじゃないですか」
もう、呼吸さえも彼の思うままだった。成美にできたのは、ただ声を殺すだけだったのかもしれない。
こんなの――いや。
いやなのに……私、一体、何をしているの?
溶けそうな意識の中で、わずかに残された冷静な部分が、今の現実を訝しく感じはじめる。
以前も、思った。役所というあまりにリスキーな環境下で、彼は何故、こんな振舞いに平然と及ぶのだろう。
「……ふ、服が、汚れるんじゃ」
「大丈夫、……気にしないで」
少しだけ掠れた声、ぞっとするほど魅力的な囁き。今も、見下ろす彼の眼に、畏れの色は微塵もない。むしろ、完全に今の状況を楽しんでいる。
あなたは……どうして怖くないの?
もし、誰かに見られたら、あなたはどうするつもりなの?
そう、きっと上手く言い逃れるに違いない。前のように――その危険すら、この人には欲望をエスカレートさせるスリルでしかなのだ。
私のこと――私が負うであろうリスクと破滅なんて、この人には一切関心がないのだろうか。
まるで、吸血鬼に血を奪われるようだと、陶酔の中でふと思った。
彼は私の熱を全て奪いとって、貪り尽くす。私は、何もかも失うと判っていても、そんな恐ろしい人の虜になって、自ら生贄として彼に身を捧げているのだ。
残酷なほど美しくて恐ろしい、ヴァンパイヤ。
やがて、荒い息を吐いた氷室は、成美を解放して抱きしめた。
成美もまた、そんな彼をぎこちなく諸手で抱きしめている。とんでもなく矛盾しているが――でも、こうやって離れられる瞬間が、少しだけ寂しかった。
「……氷室さん……」
「はい?」
優しく笑んだ氷室に、ぽんぽんと頭を二回叩かれる。まるで、よくできましたと、先生に誉められているようでもある。
よくできました。
今……私は、この人を満足させてあげられたということ?
結局、こんなことで小さな幸福を感じている。異常な状況に流された自分が情けない。でも――やっぱり、この人が好き。
もし彼が、それを本気で望むなら、私はどこまでも堕ちていってしまうだろう。どこまでも――彼がいる人外の世界まで。
三つだけ外した成美のブラウスのボタンを、彼は丁寧に止め直してくれ、立ったまま、2人は再び抱きしめあった。
彼の抱擁には打って変わって優しさしかなく、成美はようやく心の底から安堵していた。
「私……嫌われたのだとばかり、思っていました」
「いっそ、そうなれたらと、今回は何度も思いましたよ」
「そんなに、ひどいことをしたでしょうか。私……」
絶対にしていないと思う――という反論は、胸の中に留めておいた。今みたいな危険な状況で、これ以上彼の機嫌を損ねたくない。
「まぁ、僕もその程度には目がくらんでいたのかな」
ふっと冗談めかして笑う氷室の目は、もう元の彼に戻っている。
「日高さん」
「はい」
「嫌でなければ、携帯を見させてもらってもいいですか」
「……? はい」
なんだろう。浮気チェック? まさかこんな細かい人だとは思わなかったけど、やましいことは何もないんだから、いいや。
成美は自身の携帯を氷室に渡し、彼は自身の携帯と双方見比べながら、何かをチェックしているようだった。
「あの……氷室さん、せっかくだから、メアドを交換したりしません?」
「僕は、自分の存在が何かに残るのが嫌なんです。それが素の感情なら、なおさら」
携帯から顔をあげずに、氷室は答えた。
「どうして、ですか……?」
「さぁ、昔からこういう性格でしたから」
成美の携帯を閉じ、氷室は微笑してそれを返してくれた。
「け、潔白は、証明されたでしょうか」
成美は、おそるおそる言っていた。
よくは判らないが、氷室が何か、とんでもない誤解をしていたことだけは間違いない。
「それは、日高さんの口から聞きたいな」
にっこりと笑って氷室。
――えー……。
と、成美は内心思っている。そもそも何を疑っていたのか――が、それを聞くのは憚られた。
絶対に教えてくれるわけがないし、かえって怒らせてもいけない。なにしろ成美は、自覚のある鈍感なのだ。もしかしたら、自分の全く意識しないところで、彼を傷つけていたのかもしれない。
「あの……正直、よく判らなくて、……ただ、私が何かをして、氷室さんを怒らせたのなら、ごめんなさい」
「あやまらないでください」
冷笑を唇に張り付けたままで、氷室は言った。
「謝られたら、本当に謝られるようなことをしたのかという疑問がいつまでも残ります。何も身に覚えがなければ、絶対に謝らないでください。それで?」
「潔白です!」
成美は片手を上げて誓っていた。
「よろしい」
鷹揚に頷く氷室を見ながら、成美は少しばかり恨めしいものを感じている。てゆっか、今回一番ひどかったのは氷室さんの方だと思うんだけど、そっちの言い訳は一切ないわけ?
あれだけベタベタしていた倉田さんのことは――。
「あの……」
「はい?」
聞こうかと、思ってやめた。
聞けば、彼を疑っていると認めてしまうことになる。
彼のキスや眼差し、今日の言葉を信じよう。
倉田さんとのことは、彼女が一方的に言っているのを聞いただけだ。何かあれば、必ず氷室さんは説明してくれるに違いない。
「い、いっこ、聞いてもいいですか」
それでも、成美は訊いていた。
この14階に足を踏み入れていた時から、ずっと心に引っかかっていた疑問。
「あの……いつから、ここでお仕事をされているんで、しょうか」
「? 5時からですが」
卓上を片付けながら、不思議そうに氷室が答える。
「組織改正案なので、あまり課の人間に見られたくないんですよ。庁舎管理課に無理を言って、いつも鍵をお借りしています」
「い、いえ、そうじゃなくてですね。あの……時期的な」
「時期?」
成美が頷くと、初めて意味を察したのか、氷室の目にわずかな笑いの影がかすめた。
「ああ……あれは何時頃だったですかね。夏……初夏の頃かな、少しばかり怖い思いをしたことがありましたよ。なにしろ、誰もいないはずの14階から、何故か女性のすすり泣く声が」
成美は、手足が固まるのを感じた。
「ははぁ、灰谷市役所の14階には、幽霊が棲みついているんだな、と僕はひそかに思っていました。実は、あの泣き声が、僕にはたまらないバックミュージックだったんです。おかげで仕事がはかどってはかどって」
「あ、あの、あのですね」
成美は赤くなったり青くなったり、しどろもどろになっている。
「僕はいつしか、その幽霊の泣き声に恋をしていたようですよ」
「…………」
え……?
成美は、氷室を見上げていた。
彼は優しく笑んで、成美を見下ろしている。
――今の言葉……今の言葉って。
ずっと判らなくて不安に思っていた。いったいどうして氷室さんのような人が、なんの取り得もない私なんかを好きになってくれたのか。
それは……それは……もしかして。そんな、お伽噺みたいなロマンチックな理由で……。
「いつか僕が、自分の手で、もっと泣かせてやろうと思いまして」
「……………………」
「あれ? 何か外したことを言いましたか?」
顎を落とした成美を、氷室は不思議そうに見下ろした。
ひ、……氷室さん……。
成美はがっくり肩を落としていた。
――ああ、やっぱりそんなオチ。
まぁ、もういいか。今、彼が私を好きでいてくれるなら。
たとえそれが、一時のきまぐれな情熱であっても――。
「仕事は?」
卓上を片付け終えた氷室が、優しい目で訊いてくる。
「あ、少し……残してて、あと30分くらい」
「いえ、もう聞きません」
遮った氷室は、成美の前に歩み寄って、いきなり成美を抱え上げた。
「嫌だと言っても、今夜は強制的に連れて帰りますから」
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