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15
「よかった。成美も可南子も、そこにいたんだ」
いきなり浴びせかけられた馴れ馴れしい声に、成美は半ば凍りつきながら振り返った。
込み合った食堂。
2人の背後には、トレーを持った倉田真帆が立っている。
成美にしてみれば、今、一番顔を会わせたくない相手である。
何の用? と眉をひそめたのは、多分可南子も同じだったはずだが、可南子は即座に、
「うそー、真帆? 久しぶりー」と思わぬテンション&女子力を発揮した。
今に始まったことではないが、可南子の二枚舌――もっと悪く言えば徹底した二重人格ぶりにはいつもながら驚かされる。
可南子が倉田真帆を毛嫌いしているのは間違いないが、同時に広報課――そして議員と元局長を縁故にもつ女を、間違っても敵に回してはならないことも、よく知っているはずだった。
「いっつも2人で食べてるの? 同じ総務局なのに、私だけのけ者みたい」
2人を見下ろし、どこか寂しげに真帆は言った。
「やだー、そんなことあるわけないじゃない」と、即座に意外そうな笑顔で可南子。
「成美とは、たまたま時間あった時に一緒に食べてるだけ。ねっ」
「う、うん」
と、ただ相槌を打つしかない成美である。
「同期の女子って少ないから、私、ずっと心細かったの。私って一人っ子だから、なんかこう、自然に人の輪に入っていけなくて」
「あー、判るそれ。私も一人っ子。結構似たもの同士じゃない? 私たち」
「そういえば、可南子と私って、確かに雰囲気的なものが似てるような気がするよね」
「うんうん、私もそう思ってた」
って……すごいよ、可南子。そして倉田真帆。
上辺だけ選手権で、2人ともぶっちぎりで優勝しそうだ。これっぽっちも心がこもらないその場限りの会話の数々に、成美はただ、石みたいに固まっている。
「ねぇー、成美……ちょっと聞いてみてもいいかな」
が、真帆の目的は、どうやら可南子ではなく成美のようだった。
「昨日聞いたんだけど、成美って法規担当で、しかも道路局の担当なんだってね。もしかして、氷室課長と親しかったりする?」
何を今さら、の質問だった。
さすがは他人に一切関心がない倉田真帆。
声をたてずに、可南子の横顔が笑っている。が、次の瞬間、可南子はさも意外そうに、
「本当? 氷室課長と親しいなんて、そんな話、私一言も聞いてないよ?」
と成美に向かって言った。
「あ、全然親しくないから」
余計なことは喋らない方がいい――と思しき可南子の警告を察し、成美は片手を振って見せた。
「課長と直にお話することは殆どないし。親しいも親しくないも、そもそも、よく知らないから」
「そうなんだー……」
真帆は物憂げに唇に指をあてた。
「ねぇ、誰にも言わないでくれる?」
来た――。
成美は咄嗟に可南子を見上げたが、可南子はすでに真剣な目で頷いていた。
「言わないよ。もしかして何かあったの? その氷室課長と」
「うん……、本当に秘密にしておいてくれる?」
成美はもう、席を立ちそうになっていた。
二次会に寄り添って消えて行く2人を見たのが先夜のことだ。しかも直後、あんな形で携帯を切られた。聞きたくない。お願いだから、何も言わないで。
「私の父がね……。あ、これも秘密にしておいてほしいんだけど、実は……」
と、真帆は、おそらく役所内の大半が知っていることを、さも重大そうに打ち明けた。
「それで、私の結婚相手に氷室課長を考えているようなのね。びっくりしちゃって、だって私、まだ23になったばっかだよ? 結婚なんて、普通考えられないじゃん」
「えー、横暴! 信じられなーい」
真帆の言葉にショックを受けつつ、可南子のリアクションに顎が落ちそうになっている成美である。
氷室さんが……倉田真帆の結婚相手に。
まさか、想像してもいなかった。
浮気、二股、遊ばれている――様々な状況を想像したが、結婚前提の仲だったとは。
くらっと眩暈がしそうになっていた。こつん、と可南子のパンプスが、成美のつま先を蹴りあげる。
「私の気持ちなんか無視して、父ったら、どんどん話を進めて行くの。で、昨日判ったんだけど、氷室さんも随分乗り気みたいで」
はっと成美は視線を伏せていた。
「……私……氷室さんは確かに素敵な人だと思うけど、十歳近く年も上だし、――ほら、氷室さんって、この間奥さまを亡くされたばかりじゃない? 本当にちゃんとおつきあいしていけるのかなって、すごく不安なの」
「そうだよね、なんか判るよ、その気持ち」
しみじみと可南子が言った。もちろん、それが彼女の女優なみの演技であることは、成美はもちろん、倉田真帆でさえ判っているような気がした。
「本当に判ってくれる? 嬉しい……、なんだか昔からの親友に出会えた気分」
まさに、女2人の上辺だけの共感がひとしきり続く。
が、真帆は、再び表情を翳らせてみせた。
「なんかこう……気持ちがいまひとつ曖昧なまま、実は昨日、氷室さんのマンションに泊っちゃって……」
さすがに、可南子のリアクションがその一時静止した。
成美に至っては、世界ごと静止していた。
え……?
今、なんて言った?
「マジで? それって、エッチしちゃったってこと?」
「しッ……、だって、彼、結構強引なんだもん。なんかもう、後に引けないって感じで。……どうしたらいいと思う?」
成美はもう、夢の中にでもいるような気持ちで、飛び交う会話をきいている。
「なんだか、身体で流されそうな気がして怖いの。それに、奥様を亡くされたばかりだし」
――へぇ。
「色んな意味で、早すぎるような気がしない? 周りの人がどう思うかも心配だし」
――ふぅん。
次第に自分を取り戻してきた成美は、悲しみを通り越して、怒りがふつふつとわいてくるのを感じていた。
「でも、びっくりするくらい優しくて……素敵だったな。結構強引で、怖いところもあったけど、それも彼の魅力? みたいな」
で、結局何が言いたいわけ?
何のために、ここに来たわけ?
ひとしきり、のろけとしか思えない愚痴を吐いた後、真帆はすっきりした顔で立ち上がった。
「じゃあまたね。今日はありがとう。2人とも、また私の相談に乗ってね」
「うん、いつでも来て」
ひらひらと、にこやかに手を振った可南子は、その表情を顔に残したまま、冷やかに呟いた。
「間違いなく、今日だけで何人にも、今の話言いふらしてるね、あの子」
「…………」
そうなのだろうか?
成美は眉を寄せたまま、視線を下げた。
真実であれ、虚言であれ、そんな噂が広まってしまえば、彼のイメージに傷がつく。そうはさせたくないから――どんなに寂しくても、役所内では他人を貫いてきていたのに……。
「しかも、多分、今のは牽制の意味もあるよ。成美に対して」
「……どういう意味?」
「氷室さんと成美も、一部でちょっとばかり噂になってたから。一時仲よかったでしょ。まだ彼が独身で通していた頃の話だけど」
「…………」
「もう私のものだから、二度とちょっかい出さないでって、そんなオーラがびしびし出てた。あんな言い方をするくらいだから、自分がふられる可能性なんて全くないと思ってるんだろうね。それとも、周りを固めて逃げ場をなくしていくつもりかな……なんにしても」
そこで言葉を切った可南子は、冷たい笑いを唇に浮かべた。
「あんな馬鹿、死んじゃえばいいのにね」
16
「あれ、日高さん、まだ帰らないの?」
最後に席を立ったガチャピン篠田が、成美を見て訝しく声をかけてくれた。
「まだ仕事がつまってる? 俺、今暇だから、少しなら見てあげてもいいよ」
――え……。
思わぬガチャピンの優しさに胸がじん……となりながら、成美は慌てて手を振っていた。
「あと、まとめて決裁を取るだけなんです。私も、三十分もしたら帰りますから」
「そ。……まぁ、無理だけはしないように」
そう言って篠田は、そそくさと執務室を出ていたった。
そうだよな……と、成美は改めて思っている。
皆、ただ冷たいわけじゃなく、それぞれ目いっぱい仕事を抱えているから余裕がないだけなんだ。
(法規は、もともと新人を育てる土壌がないでしょう)
いつだったか、氷室がそう言っていたことを、成美は改めて思いかえしていた。
確かに、その通りだった。
まるっきりの個人プレー。それぞれが、それぞれの担当する局の某大の法令を相手に格闘する仕事であるがゆえに、おいそれと他分野に口を挟めない。
でも、だからって、周りを恨んでもどうにもならない。
今、私がいるのはそういう職場なんだ。――そう腹を括ってやっていくしかない。
「そうよ、もう私は仕事に生きるんだから」
成美は独り言のように言って、いっそうパソコンを打つ指を速くした。
氷室さんが何よ。
あんな浮気な最低男、こっちから願い下げよ。
確かに、私を本気で好きじゃなくても構わないとか、そんな意味のことを言ったのは私だけど、――だからってひどすぎる。
まるで、私にあてつけるみたいに……。
電話が鳴ったのはその時だった。内線コール……誰だろう、こんな時間に。
「日高さん? 私です」
ひどく冷淡に聞こえる声は、柏原補佐のものだった。
電話だというのに、成美は大慌てで居住いを正している。
「朝一番で課長に伝言をお願いしてもいいかしら。私は外出の用事があるので――今から言うことをメモに取って」
「は、はい」
補佐からの頼まれごととなれば、些細なメモ取りでも緊張の極みである。
成美は掌に汗をかきながら、柏原の言葉を一言一句書き留めた。
「仕事は、どう?」
補佐の口調が、少しだけ緩くなった。
「あ、あの、期限ものは全部片付きました。今は――なんとか、回っています」
「そう」
「近宗主幹も、少しずつアドバイスを下さるようになりましたし、……あの、補佐のおかげです。おかげで仕事のやり方がなんとなく判るようになって――ありがとうございました!」
「…………」
補佐は何も答えず、何故かわずかな嘆息だけが聞こえた。
「ずっと職場を離れていた私に、何故、あなたのことが判ったと思う?」
――え……?
「この時間、氷室課長は14階の会議室におられる。……知っているかもしれないけれど」
14階?
何故か不吉な響きを覚えたが、それより、柏原が何を言いたいのかが成美には判らなかった。
「あの……それは、どういう」
「お礼を言うなら、課長にまずいいなさい。それで察しがつくと思うけど」
それきりで、電話は切れた。
成美は受話器を持ったまま、ただ柏原の言葉の意味を考えていた。
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