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「あの、有木さん、しっかりしてください」
 店を出た途端、有木はふらふらと前のめりに倒れそうになった。
 丁度周囲には成美しかいない。成美は咄嗟に、有木を抱き支えていた。
     うわ、重い。
 ずしりとした重みが、正面からのしかかって来た。
 一見、痩身の有木だが、当然のことながら成美よりは遥かに上背がある。
「ちょ……有木さん、しっかりして!」
 有木を両手で抱えるようにしながら、成美は悲鳴をあげて後退した。
 タクシーがひっきりなしに通る夜の繁華街。道行く人が、酔っ払いにのしかかられた成美を面白そうに振り返っていく。
「わっ、有木さん、何やってんだよ」
「大問題だぞ、法規の職員にセクハラなんてやらかしたら」
 と、冗談半分にからかいながら、ようやく有木の異変に気付いた同寮たちが引き起こしにかかる。
 重みと酒臭さから解放された成美は、よろめきながら後退した。有木は完全につぶれている。一体どうやって家まで帰るつもりなのだろう。
 なんだか少しだけ切なくなった。
 過去の後悔をいつまでも引きずっている有木    今夜、彼が陽気な気持ちで酒を飲んでいたとはどうしても思えない。
「日高さん、タクシーで次の店に行くけど、どうする?」
「あ、私はもう……」
 と、成美が顔を上げた時だった。
 店内から、ぞろぞろと華やかな女性の一団が降りてくる。
 先頭が、倉田真帆だった。嫌な所で……と思った時には、もう駆け寄って来た真帆に手を取られていた。
「成美ー? いたんだ」
 いましたよ。最初から……それくらい知っていたでしょう。
 肩を大胆に出した白のカットソーと、薄桃色のフレアスカート。
 今夜の真帆は、いつも以上に美しく輝いて見えた。
「今、上から見てたよ……ラブシーン。うふふ、隅に置けないね。有木さんみたいなエリートをゲットするなんて!」
     は?
 誰にもはっきり判るほど大きな声でそう言うと、真帆は成美の反論を待たずに振り返った。
「氷室さん、次の店行きましょ。ここから歩いて一分くらいの場所ですから」
 成美は顔を上げていた。
 丁度氷室が、店内の階段を下りてくるところだった。
 彼は普段とまるで変わらない顔をして、成美を見ると、微かに笑って目礼した。
 それだけだった。
「パパのお気に入りの店で、ボトルもいいのがキープしてあるんです。ねっ、少しくらいはいいでしょう?」
 甘えたように氷室を見上げる真帆に目をやり、彼は優しい、とろけるほど魅力的な笑みを浮かべた。
「そうですね。行きましょうか」
「わー、嬉しい。今夜は最後までご一緒してくださいねー」
 駆け寄った真帆が、氷室の腕に自分の腕を巻きつける。
 彼は、それを当然のことのように受け止め、成美に目もくれずに歩き出した。
 なにそれ。
 呆然とする成美の前を、やや冷やかし気味の目をした沢村が通りすぎた。
 なにそれ、なにそれ。
 今の、どういう態度なのよ。氷室さん   
 
 
 絶対に誤解された。
 あそこで、倉田さんがへんなことを大声で言うから   
 てゆっか、それでもおかしいのは氷室さんの態度だ。
 飲み会の帰りで、何かトラブルがあったことくらい、簡単に想像がつくはずなのに。
 どうしてあの程度で怒るわけ?
 私を完全に無視するわけ? 
 二股だかなんだか知らないけど、浮気といっていいのかどうかも知らないけど、好き勝手なことしているのは間違いなく氷室さんの方なのに   
 家に向かうタクシーの中で、成美は衝動的に携帯電話から氷室の番号を選びだしていた。
 一体どうしてこんなことになったのか判らないけど、今夜こそ、はっきりさせなくちゃ。
 いきおいだけで掛けた電話。コールが始まった途端、不意に成美は不安になった。
 もし、冷たく突き放されたらどうしよう。
 彼が本当は軽薄な人で、遊ばれているだけだと判ったら?
 以前は、それでもいいと思った。それでも、彼の傍にいたいと思った。
 でも今は   
 冷たさの裡に潜む情熱を、知ってしまった今は   
 コールが四回鳴った所で、ようやく通話に切り替わる。
「あっ、あの」
 心の準備はできていたはずなのに、その刹那、成美は上ずった声を上げていた。
「今日は、私   
 プツッと、いきなり電話が切れた。
 え……?
 成美は凍りついていた。
 電話、切った、なんで……?
 もう、言い訳さえ聞きたくないって、そういうこと……?
 成美はぼんやりと、切れた携帯を見つめていた。
 
 
「……誰?」
 倉田真帆は、眉をひそめながら、携帯電話を持ち上げた。
 着信履歴に刻まれた文字。
 イプセン 10時43分。
 なんの暗号だろう。イプセン……? 
 てっきり日高さんからかかってくると思ったけど、はっきり確認すべきだったな。飲み屋の子? 源氏名にしてはセンスないけど……。
 よく判らないけど、履歴ごと消しといたほうが無難だよね。
 簡単な操作を済ますと、真帆は、薄い携帯電話を、そっと氷室の上着に滑らせた。
 思いのほかガードの固い携帯電話は、アドレスもメールも全てブロックされていた。前は自宅だったから、こっそり電源を切っておくという荒技もできたが、今回はそうもいかない。
 まぁ、これだけ待ってもかかってこないなら    大丈夫かな。
 上着を抱えてサニタリーを出た真帆は、泣きべそをかいてみせた。
「ごめんなさい。氷室さん……、もしかしたら染みが残るかもしれません」
「いいですよ。安物ですから」
「だって、私の不注意でカクテルを零してしまって……」
「本当に、気にされなくてもよかったのに」
 微笑して上着を受け取った氷室が、即座に携帯をチェックしているのを見て、真帆は内心、小さく舌を出していた。
 ばれてしまっても、どうとでも言い訳できる。うっかり出てしまったんです。なんだか叱られそうで怖くて……ごめんなさい。
 モデルみたいに素敵な人だけど、しょせん、十も年上のアラサー親父だ。なんだかんだ言って若い子のいいなり……何をしたって怒らない。
 案外、楽勝でゲットできる簡単な男かも。
「やるじゃん」
 隣のスツールに座っている男が、低い声で囁いた。
「え? なんの話ですか」
 とぼけて男を見上げた真帆だったが、最初からこの男だけは警戒していた。第一管理係の沢村烈士   
「最初から判ってたんでしょ。……ポケットの中の携帯……、氷室さん、困ってたよ。有無を言わせない勢いで、あんたが上着ひっつかんで女子トイレに駆け込んだから」
「ええ? 意味わかんないんですけど」
「飲み会のバッティングも偶然じゃないんでしょ。日高さんと課長、そういや一時噂になってたしね。住宅計画のお友達に、有木君と日高さんの噂を故意に流させたのはなんのため? あの弱気な日高さんに戦意喪失させるためなら、それは成功したんじゃないの?」
 真帆は黙って、ストローを持ち上げる。  
「次の手はなに? アルマーニのスーツでもプレゼントすんの? いっとくけど、氷室さんって俺でも底が見えない人だから、そんなに簡単には落ちないと思うよ」
 ふぅん……。結構判りやすい男だと思うけどな。
「えー、マジで意味わかんないですー」
 真帆が困惑したようにストローを指で回すと、沢村は冷めた目で微かに笑った。
「紳士の革を被った悪魔    俺が女だったら、あんな人絶対にごめんだけどね。ま、せいぜい地雷を踏まないように気をつけな」

 
 
 
 
 
 
 
 
 
                            
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。