「おはよう」
 いつも観る夢かと思って瞬きした成美は、すぐに今見ている光景が現実だと気がついた。
    お、おはようございます」
 へどもどと言って、胸元まで掛布を引き寄せる。
 今、隣で、自分を見下ろしている人……。
 昨夜、結ばれたばかりの恋人。
 10歳年上    職場の上司。
 4月から、色んな意味で意識して、密かに憧れを抱いていた人……。
「起きますか。シャワーを浴びたければ、どうぞ」
 今、同じベッドで、寄り添ってこちらを見下ろしている人が、まさかその人だなんて。
 カーテン越しの朝の日差しが、2人を柔らかく包んでいる。
「いえ……、あの、氷室さんからどうぞ」
 成美は赤くなりながら言って、ますます身を縮こませた。
 実のところ、その間に、急いで着替えとメイクを済ませてしまいたかった。なんとなれば、この部屋    氷室のマンションには、他に身を隠す場所がないからだ。
 今、2人がいる広い部屋は、寝室であると同時に、キッチンとリビングを兼ねている。
 南側にロータイプのベッドが置かれ、部屋の中央がリビング兼食堂だ。薄型テレビと、一人用のグラステーブル。革張のソファの上にはクッションが二つ……。昨夜成美は、彼と2人でこの卓で隣り合って食事をしたのだ。
 北側がキッチンになっており、壁にはクローゼットと全身鏡が嵌めこまれている。チャコールグレイで統一されたフローリングに、壁はあえてむき出しにしたコンクリート。絶妙な配置に置かれた鉢植えの観葉植物。
 部屋の持ち主同様、どこから見ても隙のない完璧な室内だった。
 最初、かなり広めのワンルームかと思った成美だったが、実はこの部屋には、6畳の洋室がもう一つあった。
「んー……見ても面白くないですよ」
「えー、そんなこと言われたら余計見たくなるじゃないですか」
 と、渋る氷室を説き伏せて、無理に開けさせたその部屋には、予想に反してドキドキするものは何ひとつ納められていなかった。
 いうなれば書斎    というより、膨大な蔵書が収められた書庫である。見上げるほど高い書棚には、洋書や和書の類がぎっしり詰まっており、まだ整理しきれていない本が、床にうずたかく積まれている。
「恥ずかしながら、書痴なんですよ」
 と、彼は心底、この    確かに一種異様ともいえる蒐集癖を恥じているようだったが、その書物の中で    およそ一冊たりとも読んだことのない成美のほうが、さらに恥かしい思いをした。
 とは、余談になるが、つまるところパスルーム以外に、彼の視線から逃げる場所はないということである。
 ベッドの上で、氷室はわずかに半身を起こしながら言った。
「僕はいいですよ。昨夜、寝る前に浴びましたから」
「そ、そうなんですか……」
 いつの間に?
 成美は表情には出さずに驚愕していた。
 だって、夕べ、そんな時間というか余裕は   
「あなたが、眠った後に」
 いきなり氷室がかがみこみ、頬に手が添えられた。
 彼は    現実的な言い方をすれば、単なる末端冷え性なのだろうが、ひどく冷たい手をしている。その朝も、やはり彼の指は冷えていて、成美は驚いて瞬きをした。
「そのまま寝てしまえば、どんなにか幸福だったのでしょうが、情事の後というのは色々」
「ちょっ」
 咄嗟に、成美は手を伸ばして彼の口を塞いでいた。
 氷室は笑いながら、成美の手首を絡め取る。
「何も、今さら恥ずかしがらなくても」
「いいですか。絶対に今みたいなことを    口に出して言わないでくださいよ」
「今みたいなこととは?」
「それは……」
 昨夜のことを思い出し、成美はみるみる赤くなった。
 食事をして……それから    その後、絶対に嫌だと言ったのに抱えられるようにバスルームに連れていかれて……それから    もう一度ベッドに入って……。
 きゃー………………。
 もう、穴があったら入りたいよ。どうして、あんな真似ができたんだろう。ていうか、この人の体力ってどうなってるの? 意地悪なのは覚悟していたけど、それ以前の持久力的なものが、もう自分のついていける範囲を超えているというか。
 しかも、私は疲れ果てて眠っちゃったけど、この人は冷静にシャワーを浴びて、着替えて眠って、そして朝、涼しげに微笑して私を起こすだけの余裕があるということで……。
「シャワーを浴びて、さっぱりしておいで」
 赤くなったまま縮こまっていると、額に軽く唇があてられた。
 その優しい声と仕草に、まるで魔法にかけられたように、成美はぼうっと身体の力を抜いている。
 腕が延ばされ、成美はごく自然に彼の胸に収まった。
 氷室の着ているシャツから、清潔なコットンの匂いがした。髪に、額に何度も唇が当てられる。
 成美は彼の背に両手を回し、いっそう身体を寄りそわせた。互いの素足が絡み合う。彼の脚から、想像もしなかった男性的な感触が伝わってきて、不意に胸が締めつけられた。
 落ちた前髪が新鮮だ。眼鏡がないと、実年齢にはとても見えない。もっと若々しく、二十代半ばの青年のように見える。
 愛しい人……。
 成美はそっと、彼の頬に触れた。
 私の、何もかもを知ってしまった人。
 今まで生きてきて、こんなに人を好きになったことがあっただろうか。
 絶対にないし、これからもない。
 指を絡め、額をあわせ、唇にそっと口づけた。    大好き……。
 が、朝の幸福なスキンシップは、男性と女性とでは受け止め方がまるで違うものである。
 彼の冷たい手が背中から腰に滑った時、「え、まさか」と思ったものの、逆らうにはもう遅すぎるタイミングだった。
 わずかに笑った氷室の目は、もう昨夜のぞくりとするような暗さを滲ませている。
「あの、私、やっぱりシャワー……」
「この後で」
「ちょ、あ、あのですね。朝は、通常起きるものです」
「そうですねぇ。困ったものです」
     は?
 やがて成美の中の現実の何もかもが甘く溶けて、気づけば小さな声をあげて氷室の熱を受け入れている。
 性急で忙しない、けれど、満ち足りた幸福の中    ふと成美は、先夜感じた微かな不安を思い出していた。
 氷室さんは、……どうして。
「……氷室さん」
「ん?」
 彼の目に顕れた優しさが、ますます成美の不安をかきたてた。
 今の幸せは、永遠のもの?
 氷室さんは、どうして私を選んでくれたの?
 言葉にできない代わりに、彼の背に両腕を回して抱きしめた。その力が場違いに強かったせいか、氷室がわずかに顎を引く。
「これで、物足りないと言われたら、僕は一体どうすればいいのか……」
「そっ、そういう意味の行為じゃないですよっ」
 まったくもう   
 やがて身体を離した二人は、半身を起して寄り添った。
 氷室の指が、成美の肩を撫でている。日はますます高くなり、観葉植物に鮮やかな光の陰を落とし始める。
 成美は、いつまでもこのままでいたいと思い、同時に    そんな風に思った自分が何故か恐ろしくなった。
「あの……私、もしかすると今週から、少し忙しくなるかもしれません」
「仕事ですか?」
 見下ろされた目に、頷きだけを成美は返した。
 昨夜まで、むしろ隠しておこうと思ったことを、何故今になって口走ってしまったのか    判らないままに、成美は続けた。
「議会が始まりますし    それから……まだはっきり言えないんですけど、担当局が増になるかもしれないので」
「それは……」
 見下ろす氷室の目が、数度瞬きをしてから優しくなった。
「よかったですね、と言ってもいいのかな。本音を言えば、少しばかり心配ではありますが」
「何がですか?」
「法規の仕事は」
 成美の肩を抱き寄せながら、氷室は続けた。
「実際、新人には荷が重すぎますからね。しかも、法規係は基本個人プレーが主体なので、新人を育てる土壌がないでしょう」
「そうなん、でしょうか」
 そのあたりのことは、他課を知らない成美には全く判らない。
「まぁ、僕でよければいつでも助けになりますよ。道路局のことなら多少はお役にたてると思いますし。というより、その分、日高さんの時間が欲しいですしね」
「もうっ……」
 からかわれて閉口しながら、成美は再び、得体の知れない仄かな不安を感じていた。
「……どうされましたか?」
「いえ   
 氷室課長は優しい。
 昨夜も今朝も、今までも、まるで包みこむように、私を大切に守ってくれた。    まぁ、時々、趣向なのかSっ気が過ぎる気もするけど、それは仕方ないとして。
 この手に、ブライベートだけでなく、仕事面でもすがってしまっていいのだろうか。
 それはすごく楽で、幸せなことだけど……。
「あの……」
 成美は少し考えてから言ってみた。
「私、なるべく一人で頑張ってみようと思います。もしかしたら、議会が終わるまで、あまりお会いできないかもしれませんけど、……いいでしょうか」
「そう思われるのなら、そうされたらいいですよ」
 氷室はあっさりと頷いた。
「僕も、なるべく邪魔をしないようにしましょう。でも、無理だけはしないように」
「あ、はい……」
 静かに笑う大人な彼に、今度は矛盾した寂しさを感じている。顔に出た表情を誤魔化すように、成美は視線を伏せていた。
 実は口にした端から、とんでもなく心細い、寂しい気持ちになっていた。
 なんて馬鹿なことを、しかも自分から言ってしまったんだろう。
 昨夜、彼に会う前は、これから忙しくなると言えば彼の方から会うのをやめようと言われる気がして    絶対に自分からは言うまいと決めていたのに。
「起きましょうか。今度は僕が、シャワーを浴びたくなりましたから」
 優しく言って、氷室は先立ってベッドを降りた。
 この人は寂しくないのだろうか。
 私は    今だって、この部屋を出て帰ることを考えただけで、すごく寂しくなっているのに。
 彼の背中を見送りながら、成美は再び、先ほどと同じ杞憂にとりつかれていた。
 どうして小説や映画の恋物語みたいに、現実の恋物語は、ここで終わりではないんだろう。
 いつかこの恋にも終わりがきて。
 この幸福な時間が、跡形もなく過ぎ去ってしまう日が来るのだろうか……?
 
 
 
 
第2話 「その性格、危険につき……?」
 
 
 
 
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 イプセン    履歴は今日も空白。

「氷室君、ちょっといいかね」
 道路局長墨田義孝(すみだ よしたか)の声で、唇に指をあてて沈思していた氷室は、居住いを正して立ち上がった。
    はい」
「考え事をされている時の氷室課長って、憂いを帯びた眉といい、悩ましい眼差しといい、ちょっと見惚れるくらい素敵ですよね!」
「いや、それ男が言うセリフじゃないような……。なんにしても、最近、時々考え込んでいるようだけど、やっかいな懸案でも抱えてるのかな」
 部下のひそひそ声を聞き流し、氷室は声のした方    道路局長室の扉を改めてノックした。
「失礼します」
「ああ、悪いね。議会前の忙しい時期に」
 そう、忙しい。
 それが一番の問題だ。
 鷹揚に立ちあがる道路局長、墨田の姿を視界の端に収めながら、氷室の頭は全く別のことを考えていた。
「こういう非常時に限って、市長が海外視察ときている。まぁ、予め決まっていた日程だから、仕方がないといえばそれまでだがねぇ……。ま、掛けたまえ」
「失礼します」
 なんだってこんな時期に、たかだか地方自治体の長が、なんの意味があってイギリスだ?
 行きたきゃ勝手に行けばいいが、通訳代わりにお気に入りの職員を引き抜いて同行させるなんて、身勝手にもほどがある。
 そのせいで、とんだとばっちりが。
「最近、疲れているようだね。やはり、料金改定の件かね」
 まるでお門違いの気遣いだったが、氷室は微かに微笑して視線を伏せた。
 人のいい墨田局長は、たちまち申し訳なさを丸出しにする。
「長年の案件が、君の代でこういうことになって気の毒にも思うし、同時に有難いとも思っているんだよ。なにしろ君は    役所で稀に見る秀才だ。上司として、本当に誇りに思っているよ」
「僕には、過ぎた賛辞です」
 控え目に言い、氷室は促されるままに席についた。
 料金改定も議会も市長もどうでもいいが、問題は    イプセンだ。
「実はだね。この忙しい時期に、君には災難としかいいようがない話なのだが……」
「……?」
 初めて氷室は、目の前の初老の人を見た。
「市議会議員の倉田さんを知っているかね。実は、市のOBを通じて内々に話があったのだか……」
 
 
 
 
 
 
 
 
                             
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。