21
 
 
「すぐに……御崎さんが、服を用意して戻るそうですから」
 電話を切った氷室は、少し硬い口調で言って、ため息をついた。
 怒っている    それも、ものすごく。
 彼の気持ちが判るだけに、成美は何も言えなかった。
 彼の目は、部屋に入って一度も成美を見ようとしない。
 ホテル<GENESIS>の一室。ここは、道路管理課の担当職員が寝泊りするために借りた部屋らしかった。明日は市内視察の予定が入っているため、担当者が一人、このホテルで待機することになっていると    先ほど氷室から聞かされたばかりだった。
 上階にあった兼崎の部屋とは対照的な、何の飾り気もないビジネスタイプの部屋である。狭い室内に、ベッドを挟んで向かい合い、成美は息が詰まりそうなくらいの気まずさを感じていた。
 氷室は、ダークグレーのスーツを着て、ブラックのタイを締めていた。そのせいか、まだ    どこか、喪中の人という感じがする。
「……どうして、来られたんですか」
 窓際に背を預けて立っている氷室が何も言わないので、苦しくなって成美は聞いた。
 彼は横顔をあげようともせずに言った。
「局長に呼ばれて二次会に顔を出す予定でした。タクシーに乗っていた時、御崎さんが携帯に電話をくれたんです。……兼崎さんが、日高さんを誘っているように見えたから気をつけた方がいいかもしれない、と」
 冷たい声に、成美は黙ってうなだれた。ボタンのとれたブラウス、今日のために新調したものだった。それをぎゅっと合わせながら、惨めさで涙がこぼれそうになった。
「兼崎さんには、前科があるんです。    以前も、御崎さんが同じような目にあいました。恥ずかしながら同期なので、事前に釘を刺しましたがね。ああいう男には、何を言っても無駄なんです。こちらが警戒するしかない」
 氷室の口調に、はっきりとした苛立ちが滲んだ。
「あなたが、そんなに馬鹿な人だとは思いませんでした。なんのつもりで、あの男の誘いに応じたんですか」
「………」
「こんな時間に一人で部屋に尋ねていけば、合意と言われてもなんの反論もできませんよ。仮にも法規担当職員で、それくらいのことが判りませんか」
 うつむいたまなじりに涙がたまり、それはあっけなく零れ落ちた。
「………だって」
 だって。
「私のせいで……」
 溢れ出すものを堪えながら、成美はようやくそれだけ言った。
 私のせいで、もし氷室さんが本省に戻る道が閉ざされたら。
 それだけは    それだけは絶対に嫌だったから。
「………僕のことで、奴が何か言いましたか」
 成美は黙っていた。何も答えるつもりはなかったが、その沈黙が、おそらく氷室には答えだった。
「馬鹿だな……。あの男は、僕のことなど何一つ知りやしませんよ」
 彼が微かな嘆息をするのが判ったが、それは最初ほど苛立ってはいなかった。
「何も   
 成美は、勇気を振り絞るようにして言っていた。
「何も、信じてはいません。あの人の言ったことは、何も」
 氷室が黙る。彼の視線が自分に注がれているのを感じながら、成美はうつむいて言葉を継いだ。
「私、……氷室さんのことは、氷室さんの口から聞くつもりでした。全部……迷惑に思われても、ちゃんと聞こうと思っていました」
「…………」
「奥さん、のことも……お子さんの……ことも……」
 涙が零れて胸元を濡らした。成美は慌てて手の甲で目を拭った。
「私一人で、色々悩んで、……一人でいっぱい、好きになって、馬鹿みたいですけど、……でも……知りたかったから」
 恐いような沈黙の後、氷室が近づいてくるのが気配で判った。
「……好きだというのは、僕のことですか」
 深みのある声は、今の成美には少しだけ怖かった。
 その怖さの理由が判らないまま、涙を拭って顔を上げた。
「好きです。    氷室さんが、私のことを本当の意味で好きじゃなくても」
 思い切って言った直後、足がすくんで動けなくなった。静かに見つめられて、呼吸さえ止まった気がした。
 視線を逸らしながら、成美は続けた。
「勝手な想像でものを言ってごめんなさい。私……私はきっと、氷室さんの奥様とは、全く違うタイプなんですね。奥様を憎んでおられるんですか? だから、全然違う私を、気にとめてくださったんですか」
 大きな手、冷たい指が頬に触れて、成美はびくっと首をすくめた。
 怒られる   
 が、氷室は無言で、成美も何も言えなかった。
 もう    自分の心臓の音しか聞こえない。
 そして、彼の手の冷たさしか感じられない。
「でも……私」
 成美は、溢れる涙を歯を食いしばるようにして拭った。
「でも私、それでも全然構わないんです。笑わないで下さい。……それでも……それでも、課長のことが好きだから」
 この人が好きで。
 もう    苦しいくらい大好きで。
 後から後から零れる涙を、気づけば氷室の指が拭ってくれていた。
 冷たい指。
 決して温かくならない手。
 そんな手を持つ彼が愛しくて、切ないくらい大切に思える。
「……僕はひどい男です」
「知っています」
「それでも、僕を好きだと言ってくれますか」
「もう……言いました」
 泣き続ける成美を、氷室は肩を抱くようにして引き寄せてくれた。
 ぽんぽん、と頭を叩かれる。その思わぬ優しさに、成美はますます泣けてきて、氷室は成美の激情が収まるまで、そのままの姿勢でいてくれた。
 やがて泣きやんだ成美の髪を、彼は優しく撫でながら、言った。
「僕はね、昔から、好きな相手ほどいじめたくなるんです」
「……え?」
 訝しく見上げると、氷室の目はいたずらっぽい笑いを浮かべていた。
「やや病気じみているという自覚はあります。    泣いたり困ったり、挙句は追い詰められた顔を見るのが溜まらない。……僕自身の手で、とことん、追いこんでしまいたくなる」
 はい……?
 やや、ぞっとするものを感じながら、成美は氷室を見上げていた。
 彼は、成美の内心を読み切ったように、見惚れるほど魅力的な微笑を返してくれた。
「これでも随分我慢した方ですが、無駄でした。でもそれは、あなたが挑発したからですよ」
「………え」
 氷室の目は笑っている。
「僕が羊よりも優しい紳士を演じているのに、部屋にあがれと言ってみたり、ボディタッチを繰り返したり、挙句、遅くなってもいいとか、体力があるとか言われた日には、正直、我慢している自分が馬鹿馬鹿しく思えましたよ」
     ええっ?
 ようやく意味を解し、成美はみるみる赤くなった。
「ひ、氷室さん、それ、すごい誤解なんですけど」
「あの夜は、あなたがあまりに可愛くて、ちょっと飛ばしすぎてしまいました。でも、ちゃんとついてきてくれましたね」
 あの    、あの   
「僕らの相性は最高だと、僕はあの夜、確かな実感を得たんです。僕は冷たく……あなたは熱い。触れているだけで、ぞくぞくするほど興奮する」
「ひ、氷室さん、あなたって」
「言ったでしょう。僕は多少    他人とはずれた性癖を持っている。それでも、僕を好きだとまだ言ってくれますか」
 あの    あの   
 まさか、そんなカミングアウトが待っているとは夢にも思っていなかった。
 それでも、好きという以外に、どういう答えがあるのだろう。
 好き    。何もかもひっくるめて。
 あなたの指の冷たさも、その歪んだ性格も。
 けれど、もう一度見上げた氷室の目は、どこか寂しそうに見えた。
「ただ、最後の夜は    僕自身がひどく自棄になっていた。あれは、本当に申し訳なかったと思っています」
 最後の夜    行政管理課の書庫で2人で口論した時のこと。
 それは……。
 彼が自棄になった理由。それを想像するだけで、胸が重たいもので締めつけられる。
 成美はうつむいていた。
 あの夜、成美はどこかで彼の寂しさを察していたのかもしれない。彼の    屈折した悲しみを判っていたのかもしれない。
「もう、二度と許してもらえないと思ったな……」
 氷室の手が、指が、髪を優しく撫でてくれている。
 成美は黙って、彼の胸に寄り添った。
「何も言わずに、不安にさせて申し訳ありませんでした。あの夜、妻の訃報を耳にした時、僕には    まるでそれが、天罰のように思えたので」
     天罰……?
「僕自身が戒めを破ってしまった夜に、東京に引き戻される運命にあることが。    もう判ったでしょう。僕は、あなたに、告白できるような立場ではなかったんです」
「………」
「今でも後悔しています。焦る必要は何もなかったのに。……あなたを、結局は巻き込んでしまった」
 成美は顔を上げようとした。氷室の手が、それを胸元に引き戻す。
「僕は、入省してほどなく知己の娘さんと結婚しました。彼女は、様々な事情から……自由に結婚できる立場になかった。僕にもまた打算があり、決して純粋な愛から結婚を決めたわけでは、ありませんでした」
 低く、感情を無理に押し殺したような声だった。
 成美は息をつめたまま、頭上で響く彼の声に耳を傾けていた。
「結婚してすぐに、彼女は自分の過ちに気がついたんだと思います。僕らは本当に形だけの夫婦だった。    彼女の妊娠は、結婚する前から承知していましたが」
 そこで初めて、氷室は苦しそうに言葉を詰まらせた。
「……彼女には、いや、彼女の実家の者でさえ、その相手が僕でないことが判っていました」
     氷室さん……。
 成美は、氷室の広い背に手をまわし、そっと力を込めて抱き締めた。
「彼女の父親の意向もあり、子供のために、当面籍だけは残すことに決めました。……色々事情があって、その全部を今お話できないのは心苦しいですが」
「いえ、もう……いいです。わかりましたから」
 成美が言うと、氷室の冷えた手が頬にそっと添えられる。
 成美は何も言わず、彼の指の上に、自分の指を重ねた。
 翳っていた氷室の目に、ようやく優しい感情が戻ってくる。
「あなたの手は、本当に温かいですね」
「よく、言われます」
 成美は少し赤くなった。
「子供みたいな手だって……。もともと体温が高いんだと思います」
「僕は冷え症ですか? 考えたこともなかったけど」
「え? そ、そうなんでしょうか?」
 以前、そんな失礼な指摘をしてしまったのは成美である。氷室はくすりと笑った。
「そのせいかな。やたらあなたの温もりが恋しくなる。冬は重宝しそうですね」
「は、はぁ……」
 成美は赤くなってうつむいた。さっきまで深刻な話をしていたのに、一体何を言い出すんだろう。この人は。
「温めてください。僕は、寂しがり屋なので」
「…………」
 氷室は微笑していたが、その笑顔は何故かひどく儚く見えて、不意に成美は    胸が深いところで締めつけられるのを感じた。
 何故だろう。
 遠い人だった彼が、今、こんなにも身近に感じられる……。
「妻が死んで、戸籍の上だけとはいえ、いずれ役所の中にも僕が妻帯者だという話は伝わっていくと思います。僕ひとりが負うのなら構わない、でも    あなたをその醜聞に巻き込ませるわけにはいかない」
 成美は肩に置かれている彼の手を、自分の手のひらで包み込んだ。
「しばらく、距離を開けた方がいいでしょう。もう、一緒に帰らないほうがいい……僕の、身辺の整理がつくまでは」
 氷室が、そう言い出すことは判っていた。
 不倫の噂というのは、役所では必要以上にタブー扱いされている。
 何年か前、かつての市長秘書がその市長の息子と不倫をして、秘書課から飛ばされたという事件があった。
 以来、灰谷市役所では、女性の不倫は、知れてしまえば間違いなく左遷原因になると囁かれている。
 当時の市長が今も現役で、そういった醜聞を蛇蝎のこどく嫌っているからだというのだ。
 今年入庁したばかりの成美に、そのあたりの真偽は判らない。
 が、氷室が成美の立場を慮ってくれているのは明らかだったし、成美もそれ以上に、氷室の立場が気がかりだった。
 彼がもし、私のために元の場所に戻れなくなったら……。
 ひどく寂しいことだけど、彼の居場所はここではない。東京であり、中央官僚が棲む霞ヶ関なのだ。
「私なら大丈夫です。待ちます……氷室さんがいいと思う時まで」
 成美は氷室の手を強く握り、それを自分の唇に引き寄せて    その冷えた指先に口づけた。
「でも、忘れないでください。……私、……他に何もできないけど、いつでも、氷室さんの手を温めますから」
 愛しい手    愛しい指   
 愛しい……氷室さん。
 この指が、いつか私のために熱くなる日が来るのだろうか。
「じゃあ、今、温めてもらおうかな」
 はい?
 少しだけ翳った声に、成美は嫌な予感を覚えて顔をあげた。    今?
「あの、氷室さん、もうすぐ御崎さんがここに来るって」
「頭のいい人ですから、多少は気をきかせてくれますよ」
「いえ、そういう問題じゃなくてですね。きゃーっ」
 間違っても、そんな気の使われ方をされたくない。だいたい、今深刻な顔して言ったこととやっていることが全然違う。
 でも、どうやったら、これほど魅力的な人に逆らうことができるのだろうか? どうやったって、できそうもない。どうやったって   
 やがてベッドに仰向けに倒された成美の耳に、氷室はそっと唇を寄せた。
「あなたの熱で、僕の指を溶かしてください」
 この魔法みたいな囁きに、逆らえるはずがない   
 
 
              22
 
 
「あれ、誰かと思ったら」
 昼休憩。
 食堂で券売機の列に並んでいると、背後からそんな声がした。
 成美は振り返った。見下ろすほどの威圧的な長身、広い肩に逞しい胸。すぐ背後に立っていたのは道路管理課の沢村烈士だった。
「髪型変えたんだ、驚いたな、女って変わるもんだな」
 野性的で、恐いような眼差しが見下ろしている。
 けれど、不思議なほど、それに対して畏怖を覚えることがない。
「はい、いまどきの流行にしてみたんです」
「氷室さんの好み?」
 からかうような声で囁かれる。
 成美はわずかに微笑して、それには答えなかった。
「ま、前みたいな、ただ長いだけの髪よりは、似合ってるよ」
 沢村は肩をすくめる。
 優れて勘のいい男は、おそらく随分前から成美と氷室の関係に気付いている。が、折に触れて、氷室のことを引き合いに出してくるものの、彼がその件を口外する気配はまるでなかった。
「ま、実際あんたには感謝してるよ。俺にしてみれば、恋敵が一人減ったも同然だから」
 成美が食券機にコインを入れていると、再び背後から沢村の声がした。
「恋敵……?」
「おたくの課長補佐、柏原さん」
「………」
 思わず指を止めてしまっていた。すうっと腕を伸ばした沢村が、無言でサラダランチのスイッチを押してくれる。
「征服欲をそそられる女だよな、そうは思わない? どんな顔で男に抱かれるのかな、ああいうお高くとまったエリートさんは」
「………」
 なんだか薄気味悪くなって、そのまま背を向けようとして    顔を上げていた。
 こんな男に、柏原補佐がどうにかされるはずがない。
「柏原補佐には、恋人がいるみたいですよ」
「……恋人?」
 男の眉が寄せられる。
「よく知らないですけど、その人が原因で本省の人とケンカしたって言うほどですから、へんな期待するだけ無駄じゃないんですか」
 口にしてから、言いすぎたことに気づいた。
 役所の噂は、三日もすれば本庁舎全体に広がってしまう。
 けれど、沢村は、一瞬不思議そうな眼をしたものの、すぐにふっと息を吐くように苦笑した。
「なんだ、それは多分違うよ」
「違う……?」
「自衛隊でパイロットやってる人のことだろ。それって、補佐の妹のダンナのことだよ」
「妹?」
 今度は成美が驚く番だった。
「知らない? 彼女、双子なんだよ。すっげぇ、綺麗な妹がいるから」
 沢村は自分も食券を買うと、そのまま成美に背を向けた。
 訝しさを感じながら、成美はその大きな背を見送った。
 どうして同じ課の自分でさえ知らないことを    あの、怖い眼をした男が知っているのだろう、そんなことを考えてしまっていた。
 
 
「気にしすぎですよ」
 紙のコーヒーカップを手にした氷室は、即座にそう言って、優しげに笑う。
「でも」
 成美は不満げに頬を膨らました。
 15階の片隅に設けられた、セルフサービスの喫茶スペース。
 食事の後、氷室ここで過ごすことを知った成美は、時々自動販売機でジュースを買うふりをして、氷室にこっそり会いに行く。
 その日は、比較的早い時間というのもあって、二人のほかに、人影はいないようだった。
「柏原補佐が……隙だらけで間抜けな人だって、そんなこと言ったのは氷室課長じゃないですか」
「そんなこと言いましたっけ」
 ソファに座り、長い脚を組むその姿は、    この人が、本当に私の恋人なのかなぁ、と不安になるほど、かっこよくて、さまになっている。
「言いました。もういいです、私、補佐に直接言いますから」
 なんとなく    そんな氷室の姿を見るのが切なくなって、成美は立ち上がりかけていた。
 ホテルで、ようやく互いの思いを打ち明け合ってから、もう半月近くたっている。あの夜は幸か不幸か、「僕の指を、君の熱で溶かしてください」の直後に御崎菖蒲が戻って来た。
 結局は結ばれずじまい    以前より、心と心が近くなったという安心感はあるものの、実際の距離は、少しばかり離れてしまった2人だった。
 口約通り、以来、氷室は成美を帰りに誘わなくなった。2人きりで会えるのは、今のような昼食後のひとときくらいだ。それも、相当に人目を憚っている。
 確かに氷室の言うとおりで、彼に病気の妻がいた    という話は、すぐに庁内に広まった。
 もともと有名人の氷室の話題は口の端に上りやすい。もし、今、氷室と成美の関係が公になれば、面白おかしく噂が広がっていくのは明らかだった。
 判っていても、寂しい。
 理解していても、時に寂しくて不安になる。
「まぁまぁ、もう少しここにいなさい」
 冷たい指に手首を掴まれ、椅子に座るようにうながされる。
 そして、手を握ったまま、氷室は続けた。
「柏原さんなら大丈夫ですよ」
「……大丈夫って」
 触れている指が冷たい。また    私一人の体温が上がっている。
「彼女は本当の意味で強い人です。仮に何かあったとしても、……多分、僕らの力は必要ないでしょう」
「そんなものですか」
「そんなものです」
 氷室はにっこり笑う。
 エレベーターホールの方から、人の賑わいが聞こえてくる。
 手を    離さなきゃ。
 そう思うのに、なのに。
「今夜、お仕事の予定はありますか」
 前を見つめたまま、氷室は言った。
「実は、食事にご招待したいと思っているのですが、いいですか」
「………」
 成美も、前を見つめていた。視界に映るのは    磨かれた靴と、そして、自分の手首に添えられている氷室の手。
「僕の部屋ですが、……一人暮らしが長いので、味気ないものしか作れないかもしれませんが」
「………あの、」
「昨日、妻の実家から書類が届いて、何もかも終りました」
「………」
 なんと答えていいか判らなかった。
 黙ったままうつむく成美の唇に、被さるようにして、ふいに背をかがめた氷室の唇が、軽く触れた。
 人眼を避けるように、すぐに離れた素っ気無いキス。でも、胸が痛いほど嬉しくて    切なかった。
「私……、私が、作りたいです、あの、初めての食事なら、」
 しどろもどろになりながら、それだけしか言えなかった。
 ようやく成美は理解した。
 今日から    私は、この人の、本当の意味での恋人になるのだと。
 人の気配が、すぐ傍まで近づいてくる。
 氷室は笑顔で立ち上がった。
「いいんです、どうせ、あなたを最初にいただきますから」
「は……?」
「僕の食事は、そのお礼だとでも思ってください。相当飢えてますから、一度や二度じゃすまないと思いますけど」
「あ……あの……」
 ばっと、全身が熱くなる。もう    本当に、こんな人だとは思わなかった。
 普段は紳士的で優しいのに、時々人が変わったように意地悪になる。
「来てくれますか」
 見下ろされる眼差し。私だけの愛しい指。愛しいあなた。
 不覚にも、涙が滲みそうになっていた。
「はいっ」
 成美は力いっぱい頷いて、泣きそうな顔を笑顔に変えた。

 
 
 
 
 
 
                               第1話 (終)
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