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 嘘だ。
 そんなの、信じない。そんなの    嘘だ。
「成美?」
 長瀬可南子の声で、成美ははっと我に返った。
「どうしたの……全然食べてないみたいだけど」
「べ、別に……」
 目の前で、サラダランチだけが取り残されている。
 すでに持参した弁当を食べ終えていた可南子は、けげんそうに形良い眉をひそめている。
 成美はうつむいた。
 頭の中は、氷室のことと    そして、柏原補佐が言った言葉でいっぱいだった。
 氷室が離婚していない   
 入院中の奥さんが    亡くなられた……?
「ひ、氷室課長のことだけど」
 そもそも、氷室がバツ一だと教えてくれたのは可南子だった。成美は思い切って口を開いた。
「あの人が離婚してるって、どうして可南子、知ってたの」
「国土交通省に行った大学の先輩から聞いたの。まぁ、色々噂がある人だから何が本当かわからないけど、結婚してたってことだけは間違いないみたい」
「………………」
「なんでもすごい美人の奥さんで、結婚してすぐに子供が生まれたとか。つまりバツイチ子持ちってことよ」
 すごい美人。
 と言う箇所で、無意識に傷ついてしまう自分がいた。
 どんな人だったのだろうか。柏原補佐のような    完璧な人だったのだろうか。
「いつ頃……離婚したのかな」
「さぁ? 今は昔と違って、職員の履歴なんて簡単に見られないし、本当のところは判んないけど……それがどうしたの?」
     長期で入院しておられる奥さんが、
     今朝方、亡くなられて   
 扶養ではないのに    離婚していない。
 どういうことなのだろう。そこに、何があるのだろうか。
 けれど、判っていることはひとつだった。
 成美は何一つ聞かされてはいなかった。彼が東京に戻る際、言葉ひとつ、電話ひとつ寄越してはもらえなかった。
 あんなことがあったのに    あんな風に、心が溶け合うくらい深い口づけを交わしたのに。
 なのに、柏原補佐は知っていた。
 おそらく道路管理課の職員も詳しいことは知らされていないに違いない。けれど、    柏原補佐だけは知っていた。それは、氷室課長が    直接、補佐に事情を話した、ということなのだろう。
「氷室課長はやめときなさいって言ったのに、物分りの悪い子ねぇ、成美は」
 可南子は楽しげにくすくすと笑った。
「昨日聞いた噂だけど、道路局の局長秘書の御崎さん、知ってる?」
「う、うん……」
 何故だか、直観のように嫌な予感がして、成美は眉をひそめていた。
「彼女ね、今年の春まで氷室課長と付き合ってたらしいよ。なんでも局長室でレイプまがいにやられちゃったのが始まりで、その後は女の方が夢中……。成美も、同じパターンだったりして」
 可南子の目が、成美をからかうように見る。
「結局は二ヶ月くらいで捨てられたんだって。ああ見えて、結構強引で鬼畜系の人なのかもね」
「…………」
「成美は莫迦で初心だから、あっさりひっかかってやられちゃいそうで心配だよ。ああいう男に、隙なんかみせちゃ駄目だからね」
 なんと言っていいか判らなかった。
 氷室の笑顔も、優しい声も、情熱的で溶けてしまいそうなキスも    今は、何もかも遠い幻のようだった。
 
 
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「じゃあ、日高君、あまり遅くならないように」
 庶務係長が退室して、8階の行政管理課のフロアに取り残されたのは成美だけになっていた。
 総務課の灯りは消えている。多分、8階南側のフロアにはもう成美だけしか残っていない。
 午後十時少し前。
     後は、家でやろうかな。
 成美は、机の上に広げた判例集や六法全書を片付け始めた。
 実際    冷静になって柏原補佐の作り上げた答弁書を見ると、その完成度の高さは成美が作ったものとは比べ物にならなかった。
 ここは、こういう解釈なんだ。そっか、こういう判例を引用すればよかったん
   
 読み返せば読み返すほど、新しい発見だらけで、その要点をまとめるだけでも、相当な時間がかかったし、引用されている判例の数も半端ではない。
 それをいちいち判例ロムから検索してプリントアウトし、読み込むだけでもかなりの手間だった。
 成美はあらためて、柏原の言った言葉の意味を噛み締めていた。
    あなたには、あの答弁を一言一句記憶して    理解して、それを会議で発表するという仕事がある。会議でどんな質問が出るか判らない、フォローしてくれる氷室課長もいない。私も出席できない。その意味が判っている?)
    あなたは、もっと経験を積んでここに来たいと言った。でも、本当の意味で経験を積んだ人間などどこにもいない。今が何かの準備期間だと思うのはやめなさい、今この瞬間が、常にあなたの本番なんだから)
 少なくとも    柏原補佐は仕事に私情を持ち込むような人ではない。それだけは確かだと思った。それなのに    それなのに、自分は。
 恋に狂っていたのだろうか。何も見えなくなっていたのだろうか。なんて    なんて愚かなことを言ってしまったのだろう。
 両手に抱えきれないほどの書籍を持って、成美は席から立ち上がった。
 執務室の奥に書庫がある。そこに、過去何年にも渡る国内の判例集と法律書、法律雑誌、地方自治体の条例集等がぎっしりと貯蔵されている。
 今、成美が持っている本も、その書庫から持ち出したもので、使用後は所定の場所に戻しておかなければならなかった。
 背後から、忙しない足音がしたのはその時だった。
 思わず振り返った成美は、手にした書籍を数冊床に落としていた。
「……日高さん?」
 開け放されていた執務室の扉の向こうから、早足で駆け込むようにして入ってきたのは、氷室天だった。
 細身のブラックスーツに、黒のネクタイ。
 成美は息を引いていた。
 彼の姿は、明らかに葬儀帰りの人の服装だったから   
「よかった。誰も残っていなかったらどうしようかと思いました」
 そう言って、氷室はすぐに微笑した。それは、昨日の帰り際、「じゃあ、また明日」そう言った男と同じ口調、同じ優しさ、同じ眼差しだった。
     なに、……この人……。
 成美は、恐くなってあとずさった。
 今、この人は奥さんの葬儀から帰ってきたのだ    多分。
 なのに、どうしてこんな顔ができるのだろう。どうしてこんな目で、私を見ることができるのだろう。
「書庫を開けてもらえますか。どうしても用意しておきたい判例がありまして……明日、局長ヒアがあるんです。朝一で、僕はまた東京へ戻らなければならないので」
 成美が黙って立ち尽くしていると、氷室は不思議そうな顔になったが、そのままこちらに歩み寄ってきた。
「これは、書庫の本ですか」
 綺麗な手が、すうっと伸びて、成美の足元に散乱した本を拾い上げてくれた。
 黒いスーツに沁み込んだ、いつもの    氷室のそれではない、まるで他人のような香り。
「……書庫は開いているんですね。本を何冊か持ち出しますが、いいですか」
 成美は黙っていた。何を言っていいのか、強張った唇は、何も言葉を繋ぐことができなかった。
 黒い服、喪服。成美のまるで知らない匂い。彼の    生まれた街の匂い。
 成美の落とした本を片手に抱え、氷室はさっさと書庫の中に消えていく。
 一冊だけ、椅子の下に転がっていた小型の判例ブックを拾い上げ、成美もようやく    弾かれたように、彼の後を追って駆けだした。
 聞かなきゃ。
 そう思っていた。
 聞かなきゃ、本当のことを。そしてもう、あなたとは。
 あなたとは、二度と会わないって、そうはっきり伝えなきゃ   
 
 
 
 
 
 
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。