18
 
 
 氷室は成美に背を向けて、目的の書籍を探しているようだった。
 成美が書庫に足を踏み入れると、その背中が不意に言った。
「……何か、言いたいようですね」
 成美は黙って、彼の背を見上げる。
「急なことで、僕もあなたになんと説明していいか判りませんでした。気持ちの整理がついてから、きちんとお話するつもりだったのですが」
 彼は、どんな顔をしているのだろう、と成美は思った。
 そして自分は、今どんな顔をしているのだろう。
「……今日、お葬式だったんですか」
 ようやく出た第一声が、それだった。自分でもびっくりするほど冷め切った声だった。
「いえ、葬儀は明日の11時からです。今日は通夜で、……僕は仕事の関係で、申し訳ないですが、抜けさせてもらいました」
 平然と答える背中。
 目の前が暗くなる    信じていたものが、あっけなく崩れていく感覚。
「冷たいんですね」
 ようやく、それだけが言えていた。
「奥さんが、可哀相です。私、」
 氷室が手を止めて、振り返るのが判る。
 成美は咄嗟にうつむいていた。
「私……氷室さんが、そんな残酷で冷たい人だなんて、思ってもみなかったです。み、……見損ない、ました」
 氷室が一歩前に出る。
 成美は思わず後ずさっていた。
「……何を、聞きましたか」
 その声が、優しいのか怖いのか、もう成美には判らない。
 怖いのと、愛しいのと、悔しいのと悲しいのと。
 もう、説明できない感情がごっちゃになって、成美はただ混乱している。
 なのに、混乱しながら訊いていた。
「……奥さんの病気、なんだったんですか」
「癌です、五年前から患っていました」
 さらりと答える声。
 成美は、かっと頬が熱くなるのを感じた。
「あなたって、最低ですね。病気の奥さんがいるのに    色んな人と」
「………」
「か、柏原補佐とか、道路総務の御崎さんとか、色んな噂を聞いています。それで、次が私なんですか」
 もう    駄目だと思った。
 まだ恋愛ともはっきり言えない関係だった。でも、この瞬間、もう全ては終わったのだ。
 震えながらうつむいた視界が、影に覆われる。
 はっとして顔を上げた刹那、大きな身体に抱き締められていた。
「や……、いやっ」
 黒い肩先。沁み込んだ    別の人の匂い。
 乱暴なまでの力で抱きすくめる腕は、成美が抗ってもびくともしない。
 こんなの、氷室さんじゃない。昨日までの、自分が好きだった人じゃない。
「嫌ですっ、氷室……課長っ」
 返事はない。そのまま、本棚に押し付けられる。
「離してっ、卑怯者、いやっ、誰か」
 両手首を拘束され、叫び声は唇で奪われた。
「……んっ」
 成美は渾身の力で顔を背け、さらに追ってきた氷室の唇に思い切り噛み付いた。
 それでも、男のキスはひるまない。
「や……いや……」
 血の味が滲んだ荒い口づけ。昨夜覚えたばかりの眩暈のような陶酔が    しだいに嫌悪感を押し流していく。
 凶暴なまでの激しさは、成美の抵抗が止むと同時に、潮が引くように収まっていった。
 優しく、そしてついばむように動く唇。氷室の巧みすぎるキスは    やがて、心ごと溶かすような甘いものに変わっていく。
 書庫に背を預けた成美は、もう立っているのもやっとだった。
「だめ、いや……お願い」
 キスを続けながら、氷室の手の冷たさが、成美の肌に直に触れた。
「いや……っ、離して」
 泣きながら、成美は力なく首を振った。
 このままだと、昨日と同じことになる。
 翻弄されて    流されて。彼の思い通りにされてしまう。
「声を出せば、巡回している警備員に聞こえますよ」
 耳元で、氷室が低く囁いた。
「卑怯……です」
 成美は、弱々しく抗議した。
 喪服に包まれた大きな肩、長い腕。
 彼の冷たさに、今は成美が飲み込まれている。
 もう    自分が、何処で何をしているのか判らない。 
「いやです、課長……、お願い……やめて」
「声を、出さないで」
 やがて成美は、小さく呼吸を乱しながら、唇を噛むようにして、氷室の肩にしがみついた。
 そんな自分にたまらない嫌悪を感じ、再び新しい涙が頬を濡らす。
 なのに、彼の指の冷たさを、また、先夜と同じ場所に感じた時、成美は溜まらずに声を高めてしまっていた。
 不意に、部屋の明度が落ちたのはその時だった。
 何が起きたのか判らない成美の口に、氷室の手が被さってくる。
 大きな掌からは、微かに氷室の香りがした。
     何……?
 落ちたのは、書庫の外    執務室の照明だった。今、二人が入っている書庫には、薄い蛍光灯が頼りなく灯されている。
 外の薄闇に、懐中電灯の灯りがちらほらしているのが、すりガラス越しに垣間見えた。
 警備員が見回りに来たのだ。成美はようやく理解した。
 電気を消したのも警備員だ。執務室にはもう誰もいなかったから、電気の消し忘れだと勘違いされたに違いない。
     どうしよう。
 緊張と羞恥で身がすくむ。男女2人が、密室の中に閉じこもっている。しかも成美の衣服は、明らかに乱れていた。もし、こんな現場に踏み込まれてしまったら。
 が   

 成美は声を出せないままに、深い衝撃を感じていた。
 成美の口を塞いだまま、氷室が再び先ほどの行為の続きを始めたからだ。
「やっ……」
「しっ、静かに」
 彼の声は、完全に今の状況を面白がっていた。何故   
 成美はただ、混乱している。
 一体、今夜の氷室さんは何者だろう。こんな人じゃなかった。こんな状況で、こんなふざけた真似が出来るような人じゃなかった。なのに   
 足音が近づく。殆ど扉の間近まで。成美は凍りついていた。片や、氷室は平然としている。
「そこに、誰かおられますか」
 扉の向こうから声が響いた。
「はい、ここで仕事をしています。戸締りはして出ますので」
 顔を上げた氷室が、当たり前のようにそう答える。
 扉に鍵はかかっていない。もし    開けられたら、こんな場面を見られたら。
 背筋が凍りつくようだった。氷室さんは    この人は何を考えているのだろう。見られてしまえば、何もかも終わりだ。彼の立場も、成美の立場も同時になくなる。
 妻を亡くしたばかりの人と、    いや、亡くす前から、最早、言い訳できない関係だった。不義、不倫、どう責められても言い逃れはできないだろう。
 なのに、片手で口を塞いだまま、氷室は一層、成美を深い所にまで追い詰めて行く。
「電気、点けておきましょうか」
「いいえ、このままで結構ですよ」
 平然とした声。
 ただ成美一人が、玩具みたいに翻弄されている。
 塞がれた口と視野。唯一見えているのは、彼の肩を覆う漆黒の喪の衣装だけだ。成美のまるで知らない匂い    そこに、わずかに混じる焼香の残り香。
 理由の判らない衝動に衝かれたように、成美は彼の身体に両手を回して抱きしめていた。
 彼の首に頬を押しつけ、自分から強く抱き寄せていた。
「では、失礼します」    警備員の声がした。
「お疲れ様でした」
 そう答え、見下ろした氷室の目が笑っている。
 それは彼が勝利したことを意味していた。上手く言いくるめた警備員に、そして、彼の腕の中で籠絡してしまった女に   
 氷室の手が離れると、成美はよろめいて壁にすがった。
 今、自分は何をしていたんだろう。何を考えていたんだろう。   

「……日高さん」
 かがみこんだ氷室が、成美に向けて手を伸ばす。ひやりとした感触が指先に触れた時、成美は全身を強張らせ、次の瞬間、思い切りそれを払いのけていた。
 氷室が、驚いたように後退する。成美の目に、溜まりかねた涙があふれた。
 悔しい。
 自分が情けない。
 こんな状況で、この人のなすがままに翻弄されて、逆らうこともできなくて。
 なのに   
「……っ、…うっ…っ」 
 成美は両手で顔を覆い、かがみ込むようにして嗚咽を漏らした。
 氷室は無言のまま、そんな成美を見下ろしているようだった。
「課長は……卑怯、です」
 泣きながら成美は言った。
「汚いです、最低、……奥さんのお葬式の前にこんなことをして、恥ずかしくないんですか!」
 返って来る返事はない。
 顔を背けたまま、成美は溢れる涙を拭った。
「もう、こんな真似は二度としないでください。もう    あなたとは、二度と、2人で会いません」
 氷室は黙っている。
 立ったままの男が、どんな表情をしてどんな感情を抱いているのか、成美には想像さえできない。
「……今、あなたを泣かせているのは、僕なんでしょうね」
 独り言のような声だけが聞こえた。
 その、別人のような寂しげな声に、成美ははっと胸を突かれる。
 彼は静かに背を向けた。
「……送ります……と言っても、嫌でしょうね。それに、僕は、まだ残らなければなりませんから」
「汚いです」
 感情の持って行き場が判らないまま、成美はうわ言のように繰り返した。
「卑怯です、最低です」
「ええ、その通りです」
 どこまでも、彼の口調は静かだった。
「いずれ、判ることでした。……僕は、最低の人間です。そして今夜ほど、僕の正体を明かすに相応しい夜もなかったでしょう」
     どういう意味……?
 が、それ以上氷室は何も言わず、成美も何も訊けなかった。
 しばらく無言で扉の前に立っていた男は、やがて静かに退室した。
 静まり返った室内に遠ざかる足音だけが虚ろに響く。
     汚い……。
 成美は、新しい涙を拭いながら唇を噛み締めた。
 涙は後から後から溢れ、感情も同じ量だけ溢れ落ちた。
 ずるい、汚い、サイテー。
 騙されたも同然なのに。
 嫌いなはずなのに。
 なのに   
 自分が苦しいくらい恋をしていることを、今ほど思い知らされた時もなかった。
 汚いのも卑怯なのも最低なのも、氷室にではない、全部自分に向けて言った言葉だった。
 喪服姿の彼を見た時の、なんとも言えない嫌悪感    胸がざわめくような嫌な感情。
 彼の身体に沁みついた焼香を感じた刹那、成美は、彼の背後に立っていた見えない妻に嫉妬したのだ。
 悲しみよりも憐憫よりも、彼の不道徳を責める気持ちよりも、氷室を自分だけのものにしたいという思いの方が勝っている。
 最後に、彼の指が触れた時。
 それでもその冷たさを、愛おしいと思ってしまった。
 自分の指で、彼を温めてあげたいとさえ思ってしまった。
 たとえあの人が、どんなに冷酷で残忍な人でも    それでも……。
 
 
 
 
 
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。