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・ 「日高さん、早く」
翌日 総務局行政管理課。
冷たい声にせかされて、日高成美は慌てて、パーティションでしきられた会議スペースに入った。
応接ソファに座ろうとしたはずみに、手にした書類がぱらぱらと落ちる。
「あ、す、すみませ…」
慌てる成美に代わって、それを無言で拾い上げてくれたのは、冷たい声で成美をうながした柏原暁凛 係長兼課長補佐で、本省から派遣された美貌の女性上司だった。
顔を上げた成美の面前に、尾崎行政管理課長の渋面が映る。
「すみませんでした」
しどろもどろにそう言って、成美は柏原の隣に腰を下ろした。
「気分でも悪いのかね」
尾崎が、渋い顔のままで言った。
「今朝から、どうもぼんやりしているようだね」
「いえ、大丈夫です。すみません」
成美は慌てて頭を下げた。
まさか、寝不足ですとは絶対に言えない。
昨夜、氷室に家まで送ってもらって、12時には就寝体制に入ったものの、そこからが眠れなかった。
色んなことが思い出されて、色んな感情が交錯して 。
今も、昨夜の出来事を思い出すだけで、頬が火照りそうになる。
今日、これから行われる道路管理課との協議。正直言えば、自信はなかった。あんなことがあったばかりで、氷室を前にしても冷静なままでいられるだろうか。
「……あの、氷室課長、は」
会議スペースに集まった面子を見て、成美はおどおどと柏原補佐を仰ぎ見た。
四人掛けの応接セットに座っているのは、自分と柏原補佐、そして尾崎行政管理課長の三人だけ。もう一人出席する予定になっている氷室天 道路局道路管理課長の姿がない。
「氷室課長は今日、お休みされている」
柏原はそっけない口調で言って、資料を尾崎課長の前に差し出した。
今日は、三日後に迫った政令指定都市道路管理瑕疵担当者会議の議題に対する答弁を、課長に最終確認するための会議だった。
もともと道路管理課 氷室天が担当する会議である。その会議に、法務担当課として、行政管理課を代表して成美が出席することになっているのだ。
お休み……?
成美は眉をひそめていた。
彼と別れたのは、時間にすれば、たった十時間前のことだ。
別れ際、彼は確かに「じゃあ、明日」と言った。
その時は、今日、休みを取るようなことは何も言ってはいなかったはずなのに。
「どこか、お悪いんでしょうか」
成美の問いに返ってくる声はなかった。柏原はすでに、書類に冷たい眼を落としている。
「時間がないのではじめましょう。尾崎課長、議題の答弁について、何かありますか」
怜悧で そして抑揚のない声。
課長補佐、柏原暁凛。まだ二十七歳だというが、その落ち着きは三十過ぎのようにも見えるし、肌の輝きと美貌は、二十歳のようにも見える。
「氷室君は、いつまで休みだったかね」
尾崎課長の声もまた、機械のように無機質だった。蝋人形のようなこの男の笑った顔を、成美は一度も見たことがない。
行政管理課。市役所の法律を司る、まさに市の頭脳ともいえる職場。
ここに配属される職員は、たいていが有名国立大学の法学部出身で そして、その大半が司法試験脱落者でもある。
そのせいか、皆一様に学者気質で、滅多に感情を露にしない。執務時間は、咳をするのもはばかられるほど静かなのである。
「氷室課長は、……おそらく、今週いっぱいお休みでしょう。会議には出られないと、今朝連絡がありましたから」
柏原の声を聞き、さすがに成美は平静ではいられなくなった。
どういうこと……?
氷室さんに、……何か、あったの?
なんで、柏原補佐には連絡があって、私にはないの ?
「道路管理課に答弁の確認をする者はいないのか。うちはあくまで道路管理課の補佐役だろう」
「向こうの補佐とも話したのですが、基本的に私に一任するということでした。ですからご心配なく」
何があったの……?
どうして、なんで?
自分を無視して繰り広げられる二人の上司の会話も、成美の耳には虚ろだった。
昨日の、氷室課長の態度に、長期休暇を思わせるものは何ひとつなかったのに。
「日高さん、それをよく読んで」
柏原の冷たい声がする。
「あ、は、はい」
慌てて、柏原に手渡された書類に眼を落とす。
それは成美が、ここ数日、連日深夜までかけて作成し、決裁を回していたはずの 会議の答弁案だった。
成美は目を見開いていた。
「…………」
二枚目も、三枚目も。
ほとんど原文の面影もないほど、書き換えられている。
「まぁ、こんなものだろう、割とそつなくまとまっているね」
尾崎の鷹揚な声が虚ろに響く。
補佐が、やったんだ。
成美は顔もあげられないまま、指の震えを堪えていた。
補佐が直してくれたんだ。でも、私に一言もなく、全部書き換えるような真似をするなんて。
「これを、君一人で作ったのかね」
尾崎の声が自分に向けられる。
顔だけは上げたものの、成美は何を言っていいか判らなかった。
「氷室課長と、色々協議していたようですからね」
柏原が、平然と答える。
その声の冷淡さに、初めて成美は、怒りで頬が熱くなるのを感じた。
なに、その言い方。
他の人の言う通り、もしかして柏原補佐は、わざと私に意地悪をしているのだろうか?
なんで? もしかして私が氷室課長と親しくしているから?
そうとしか思えない。こんな……、私に、一言の確認も断りもなく 。
氷室のアドバイスをもらって、一日かかって考えた文案がばっさり落とされているのを見た成美は、指が震えだすのを感じた。
ひどい……。
「まぁ、この内容でいいだろう。柏原君、あとは君に任せたよ。何しろ日高さんは新人だからね。しっかり指導してやってくれ」
「柏原補佐、道路管理課からお電話です」
パーティションの向こうから響いたその声で、会議は成美一人の憤りを残して、あっけなく打ち切りとなった。
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「どういう、ことなんですか」
執務室を出たところで、柏原補佐に追いついた成美は、やっとの思いでそう言った。
「……どういうこととは?」
女上司は、けげんな顔で振り返る。
すらりとしたスレンダーの長身。ピンストライプのシャツに、チャコールブラックのパンツが、細く形良い腿にフィットしている。
肩先までの短い髪。人形のように綺麗な顔。
燃え盛るような憤りも、この圧倒的な美貌の前に立つと気後れに変わる。
「あ、あんなやり方……ひどいと、思います」
眼をそらしながら、成美は声を振り絞って言った。
「あんなやり方……?」
女は急いでいるのか、手元の時計に目を落としている。
「答弁案、あれは、……私だって、一生懸命作ったんです。何日も残業して、ずっとあればかりやっていて、それは……完全なものができるとは思ってなかったですけど」
返って来る返事はない。
高みから見下ろされる眼の冷たさに、成美は萎えかけた怒りが蘇るのを感じた。
「あんな風に、勝手に、私になんの承諾もなく直すなんて、ひどすぎます。あれは 私の仕事なんです」
「あなたの仕事だという自覚があるなら」
女の声は、残酷なほどに素っ気なかった。
「もう少し勉強して、まともなものを作りなさい。それから、努力と結果を混同しない。答弁はあなたのものであって、あなた個人の意見ではない。会議で発表した時点で、それは灰谷市としての方針になる」
「それは……」
ぐっと成美は詰まっていた。そんなことは判っている。そんなことは 判っている。私が言いたいのは、そんなことじゃなくて。
「何の意味もないプライドなら捨てなさい。あなたには、あの答弁を一言一句記憶して 理解し、それを会議で発表するという仕事がある。会議でどんな質問が出るか判らない、フォローしてくれる氷室課長もいない、私も出席できない。その意味が判っている?」
「そんなの、誰でもできるじゃないですか」
成美は声を張り上げていた。
柏原の口から氷室の名前が出た瞬間、気持ちの何かが壊れていた。
制御不能の感情が 四月からずっと隠していた感情が 今、表に暴れ出て、成美の何もかもを飲み込んでしまっている。
「補佐の作ったものを暗記するだけの仕事なら、そんなの 道路課の人でも、アルバイトさんでも誰でもできるじゃないですか。私なんて、いらないじゃないですか!」
「………」
女上司の目が険しくなる。
「私……何のために、会議に出るんですか」
そう言った瞬間、涙が散るように頬に零れた。
「どうせ私はプールで、……」
歯を食いしばるようにして、成美は続けた。
絶対に、自分の口からは、誰にも洩らすまいと思っていた本心だった。
「行き先がないから、行政管理課に拾ってもらっただけなんですよね? 私が、本来の職員とは違うことは知っています。でも、だからって、莫迦にしないでください。自分の仕事くらい、自分の手でやらせてください!」
耐えていた思いは、もう止めて置く事はできなかった。
( 成美はね、プールなのよ)
( 意味判る? つまりね、配属先が決らなくて、取りあえず行政管理課に置いてもらってるだけなの。成美のいる法規係、去年より一人増になってるでしょ。もともと一人少ないのが定員なのよ。だから、仕事なんて、真剣にやるだけ無駄ってこと)
その話を総務局長秘書の長瀬可南子 成美の同期でもあるやり手の女性に聞かされた時の、砂を噛むようななんとも言えない虚しさが、再び胸に広がっていく。
「ほ、補佐は、私が氷室課長と親しくしてるから、それが面白くないんでしょう? 他の何も補佐には敵わないけど、私、……氷室さんのことだけは、補佐には負けませんから」
我慢し続けていた涙が、堰を切ったように幾筋も頬を伝って零れ落ちた。
この人の前だけでは、絶対見せないと決めていた涙だった。
絶対に言うまいと決めていた、女々しくて情けない、女を剥き出しにしたセリフ。
口にしたところで、何の意味もないことは判っている。補佐に、本当の意味で悪意がないことも判っている。多分、成美など、相手にもされていないからだ。
どれだけ意識しても歯牙にすらかけてもらえない憤りが、多分、言いがかりとしか思えない、くだらない叫びになって表れた。
嫉妬、ひがみ、羨望、劣等感、 今まで隠しぬいていた黒い感情の全てが、自分の吐いた毒や涙に、嫌になるほど凝縮されている……。
しばらく黙っていた柏原が、かすかに嘆息するのが判った。
「あなたが、そこまで話の判らない人だとは思わなかった」
一欠片も感情のこもらない冷たい声に、成美は涙に濡れた顔を強張らせた。
「プールだかなんだか知らないけど、それが、仕事とどう関係しているのか、悪いけど私には判らない。しかも氷室課長がどうしてそこに出てくるのか、全く理解に苦しむけれど」
そこでもう一度、今度は疲れたようなため息が聞こえた。
「会議は三日後で、あなたの発言はそのまま市の法規担当課の意見として全国の記録に残される。あなたにはもっと多くのことを勉強する機会も時間も必要で、この会議はいい経験になると思う。私が言いたいのはそれだけだから」
何も言えなかった。相手にもされていない。突き離された悔しさで、視界が滲むようだった。
どうせ、この人には何をやったって敵わない。
どうせ、私には経験も実績もなくて 。
成美が黙っていると、そのまま背を向けるとばかり思っていた柏原もまた、同じ距離のまま、その場で待っていてくれた。
成美は、ようやく顔を上げた。
仰ぎ見た上司の顔は、いつになく悲しそうに見えて 思わず息を飲んでいた。
先に眼を逸らしたのは、柏原の方だった。
「あなたは、もっと経験を積んでここに来たいと言った。でも、本当の意味で経験を積んだ人間などどこにもいない。今が何かの準備期間だと思うのはやめなさい、今この瞬間が、常にあなたの本番なんだから」
「………」
「今、それが判らないなら、きっと何年たっても、ここへ戻ることはできないでしょう」
もう一度腕時計に視線を落とし、柏原は成美に背を向けた。けれどやはり歩き出さず、その場に立ち止まって動こうとしない。
「それから、……おせっかいだとは思うけど」
初めて聞くような、言いにくそうな口調だった。
「氷室課長はやめた方がいい。あの人は離婚していない、長期で入院しておられる奥さんが今朝亡くなられて、……課長は、葬儀のために東京に戻られたのだから」
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