12
 
 
「あの   
 その夜も、いつものように氷室が「じゃあ、明日」と言った直後のことだった。
「よろしかったら、部屋に寄っていかれませんか」
 成美がいつにない勇気を振り絞ったのは、間違いなく昼間見た光景が原因だった。
 役所の中で、訪ねてきた昔の友人と言い争いをしていた氷室。
 なのに、今夜の彼の態度は、普段と全く遜色がなく、本省から友人が訪ねてきたことなど、話題の端にさえ登らなかった。
 それが    どうしようもなく寂しくて、今夜だけは、このまま別れたくなかったのだ。
「あの……お茶でも」
 氷室が黙っているので、成美は、この試みが少しも彼を喜ばせないどころか、返って引かれたのではないかと思った。
 赤くなってうつむきながら、成美は続けた。
「ご、ごめんなさい。いつも送って下さるのに、何のお礼もできないから……。迷惑だったら、忘れてください」
「迷惑ではないですよ」
 氷室が、優しく笑うのが気配でわかった。
 今夜の彼は、ある意味いつも以上に屈託がなく、それがますます成美の心を不安にさせている。
 彼は    詰まるところ、自分が抱えるものを成美と共有するつもりはないのだろう。
「でも、遠慮しておきます。何の準備もしていないので」
「あ……はい」
 準備って何だろう。と思ったが、それよりも婉曲な断り方をされたショックの方が大きかった。
 やっぱり、そうか。
 そうだよね……。本当に私といたいなら、彼の方から誘っていてくれたはずだろう。
「判りました。ごめんなさい。じゃあ、またの機会に、ぜひ寄ってくださいね」
 取りつくろった笑顔で言いながら、不意に成美の胸に、初めて触れた夜の彼の手の冷たさが蘇った。
 今思えば、それは氷室という人の印象そのものだったのかもしれない。穏やかで優しくて紳士的    いかにも人柄が良さそうなのに、実際は自分の周囲に冷たい壁を張り巡らせている。
 他者の干渉を一切受け付けないような、冷たい体温   
「じゃあ……、降りますね。ありがとうございました」
 自分を励ますように明るく言いながら、成美はますます不安が募っていくのを感じていた。
 私たちって、本当につきあってるのかな……。
 そもそもこの人は、本当に私のこと……。
「もう少し、ドライブでもしてから帰りましょうか」
「え?」
「遅くなってもいいですか。もう九時を過ぎていますが……」
 見上げた氷室は、自身の腕時計に視線を落としている。
 夢かと思った。でも夢じゃない。何度か瞬きしてから、成美は力一杯頷いた。
「は、はい、大丈夫ですっ」
「そうですか」
 苦笑した氷室が、再び車のアクセルを踏み込んだ。
 嘘、まさか、こんな風になるなんて   
 成美は嬉しさと動悸をもてあましながら、運転席の氷室をそっと見上げた。
「やっと笑った」
「え?」
 成美は驚いていた。彼の口からそのセリフを聞いたのは、これで二度目だ。
「今夜は、ずっと難しい顔をしていましたね」
「え、そ……そうでしたか?」
「何か、悩み事でもありますか」
 そんなことは……。
 成美は口ごもっていた。
 難しい顔    私が。無自覚だったが、確かに彼の言う通りなのかもしれない。
 今夜は、ずっと氷室の反応や表情ばかりを、無意識に窺っていた。多分、すごく不安な目で彼を見ていた。
 そして、ようやく成美は気がついていた。だから今夜、いつも以上に、氷室が屈託ないように見えたのだ。彼があえて、明るい話題ばかり振ってくれたから
   
「僕は、そんなにあなたを不安にさせていたのかな。年が十も違うと難しいものですね。僕には、あなたのような若い人とお付き合いをした経験がないから」
「いえ、それは、……その」
 また見抜かれていた恥かしさから、成美は真っ赤になったが、おずおずと言った。
「……確かに不安でした。だから、……今は、すごく嬉しいです」
「そうですか」
 返って来た彼の声は、楽しそうだった。
 
 
                 13
 
 
「ありがとうございます」
 成美は、氷室が買ってきてくれた紙コップのコーヒーを受け取った。
「すごく夜景が素敵ですね」
「灰谷市の、デートスポットだと聞きました」
 運転席の扉を閉めた氷室は、自身もコーヒーに唇をつけながら言った。
 盛夏の頃、夜とはいえ、外はまだ蒸し暑かった。逆に車内の冷房は、効きすぎなほどに効いている。
「僕は、こちらの土地のことはあまりよく知らないから」
 外の景色を見ながら、氷室は呟いた。
「たまたま耳にした話を覚えておいてよかったな。六月に大雨が降ったでしょう。守秘義務違反には当たらないと思いますが、実は、この先の市道で冠水事故があったんですよ」
「まさか、それで、この場所をご存じだったんですか?」
 成美は眉を上げ、氷室は笑った。
「幸い訴訟には至りませんでした。ただ、来月から道路工事に入る予定なので、夜間は通行止めになりますよ」
 フロントガラスの向こうには、灰谷市の夜の景色が広がっていた。
 高台から見下ろす夜景は、眼下に星を撒いたような美しさだった。空には三日月が薄くかかり、遠方には海が広がっている。
 すごくロマンチック……。夢みたい。
 幼い頃から灰谷市で育った成美には、決して珍しい光景ではなかった。この場所にも来たことがあるし、学生時代など、ベタな場所だとさえ思っていた。なのに今は    目の前の全てが、まるで幻想世界に沈んでしまったかのような錯覚さえ感じている。
 成美は、そっと氷室を見上げたが、カップに唇をつける彼の横顔は、さほどの感動を浮かべてはいなかった。
     そっか。……こんなデート、当然氷室さんは慣れっこなんだろうな。
 自慢話にもならないが、成美の男性経験は一人だけだ。
 学生時代、憧れていたゼミの先輩と、彼の卒業を機に両思いになり、四回生の春から夏頃まで付き合った。
 社会人になったばかりの彼はいつも忙しなく、週末のデートは愚痴と悪口とため息ばかり    成美は彼の苛立ちが最後まで理解できず、気づけば自然に消滅していた。
 ロマンチックなデートなんて経験がない。氷室にも、そういう意味ではあまり期待していなかった。なのに、こんな風に、2人で夜景を見られるなんて……。
「あまり、遅くならない方がいいな。明日はまだ木曜ですしね」
 氷室が、場違いに冷静なのだけは不満だったが、それに文句を言うのは、罰あたりというものだろう。
 ふと、成美は気付いて自身のコーヒーを車内のホルダーに置いた。
 氷室さんの指   
 ステアリングに添えられた彼の指に触れると、氷室は初めて驚いたように顔を向けた。
「なんですか」
「……いえ」
 やっぱり、今日も冷えている。
「ひょっとして、冷え症ですか」
「はい?」
 しまった、咄嗟とはいえ馬鹿なことを……。
 なんとなく、今夜だけは彼の体温が上がっていればいいと思った。それだけのことだった。
 少しばかり気まずい沈黙が落ち、成美は戸惑って視線を下げた。
 彼の奥さんって、どんな人だったんだろう。
 初めて成美は、氷室の見えない過去を生々しく想像していた。
 結婚して、離婚した。子供は    、彼に子供はいたのだろうか。
 まだ成美には遠すぎて、想像さえできない世界。
 彼が、おそらくこの先も、決して見せてくれないだろう世界……。
 気づけば、彼の顔がひどく近くにあった。いつの間にか眼鏡を外している。はっとした成美は咄嗟に目を閉じていた。
 窓側の肩を抱かれ、大きな影に覆われた。キス    胸が締め付けられるような動悸を感じながら、成美は両手を、そっと彼の胸に預けていた。
 唇を通して伝わるコーヒーの苦みと香り。
 いつもより長いキスだった。そして、いつもの唇を合わせるだけのキスではなかった。
 成美は半ばぼうっとしながら、離れた唇を見つめていた。彼の顎と、カラーで覆われた男らしい喉。愛しさが胸にこみあげ、指でそっと顎に触れると、もう一度、唇が重なった。
 唇の表皮をなぞるような優しいキスはすぐに離れて、代わりに額が押し当てられた。氷室の指の関節が、成美の頬を愛おしむように、撫でた。
     氷室さん……。
 不意に押し寄せた切なさで、成美は、胸が一杯になっていた。
 こんなにも、この人を好きになってしまった。好きという感情に段階があるのなら、彼に憧れていた頃の自分は、恋のままごとをしていたようなものだった。
 あの頃は、遠くで見ているだけで満足だった。でも今は、彼の何もかもを、冷たい指の底にあるものまで全て、自分のものにしたいと思っている。切ないほど    思っている。
 そして、成美はふと思っていた。
 今の状態は、傍目から見れば幸福な両思いなのかもしれない。でも、彼の心を完全に自分のものに出来ない以上、いつになっても、この恋は……片思いの延長なのではないだろうか。
「……あの、遅くなっても、……私なら、大丈夫ですから」
 氷室の胸に手を置いたまま、成美は小さく囁いていた。
「一人暮らしですし、それに……多少寝不足でも、体力がありますから」
 だから、明日が平日だなんて、そんな素っ気ないことを言わないで。
 もう少しこのまま、一緒にいて……。
 答えの代わりに、氷室は黙って、片腕を成美の背に回してくれた。
 抱き寄せられて、溶けそうなほどの幸せを感じた。もう少し一緒にいたい。もう少し    彼の熱を感じていたい。
 そっと、広い肩に頭を預ける。氷室の手が髪を撫でた。こちらに身体を傾けている彼が窮屈になってはいけないので、できるだけ運転席側に身を寄せて、彼の胸に体重を預ける。
 暖かな体温と確かな鼓動を感じながら、成美は夢見心地で目を閉じた。もう少し……このままでいたい……。
「今夜は、随分と挑発するんですね」
「……え?」
 氷室の声の暗さに、成美は少し驚いて顔を上げた。
 見上げた彼の眼差しは、声同様、ひどく暗く翳って見えた。
 心臓が、不意に鋭く収縮した途端、影になった唇が被さってきた。
 思わぬ彼の強引さに、成美はただ驚いていた。さらに強く抱きすくめられ、角度を変えた唇は、いっそう深くなっていく。
     ……氷室、さん?
 それまでの淡泊さが嘘のような、熱っぽく、荒々しく、性急なキス。
 彼の匂いと、厚みを帯びた肉体の感触にやがて成美は何も考えられなくなって、気づけば、氷室の誘うままに、彼の膝の上に抱きかかえられていた。
 幸福と、しびれるような高揚感。冷やかな外見からは想像もつかないほどの氷室の情熱に、成美の思考は半ば溶けかけている。
 が   

「あの、氷室さん」
 冷たい手が、成美の脇腹に滑りこんだとき、成美は初めて我に返って彼の手を押さえていた。
 彼が不思議そうに成美を見下ろす。成美は、耳まで赤くなった。
「ご、ごめんなさい。嫌とかじゃないんですけど、場所が……。誰かに見られたら恥ずかしいですし」
「すごく、熱いな……」
 成美の言葉が聞こえたのか、聞こえていないのか、低く呟いた氷室の手は、制止を無視して動きだした。
「氷室さん、駄目ですよ」
 彼の腕を懸命に止めながら、成美は控え目に抵抗した。が、言葉は再び被さってきたキスで遮られる。
 氷室の手は    まるで成美の熱全部を吸い取っていくようだった。優しく、そして情熱的に、素肌をあますところなく撫でていく。
 唇が耳に触れ、首筋に落ちてくる。
 もう成美に、抵抗する余裕はなくなっていた。
 微かに乱れた息遣いか聞こえる。彼の    ? 自分の    ? もう、それさえも成美には判らない。
 何もかもが溶けそうなほどに熱いのに、肌を撫でる彼の手だけが、怖いほど冷たい。
 その冷たさも、やがて成美の体温の中に溶け込んでいく。
「……日高さん」
 不意に氷室が掠れた声で囁いた。その、深みのある響きに、ぞくりと背筋に震えが走った。
     いけない。
 突然、不安が渦を巻いた。
 このままだと、きっとどこまでも流されてしまう。
 自分の格好や乱れた衣服、そして彼の手が触れている場所    冷静になってみれば、全てが予想を超えている。
「氷室さん。もう……やめて」
 自分の曖昧な態度を悔いて、成美は本気で抗ったが、氷室はむしろ楽しそうに、その抵抗をひとつひとつ封じ込めた。
     氷室さん……?
 両腕を拘束され、それを後ろに回される。
「いやっ……」
 彼の強引さが、成美には信じられなかった。
 なのに、抗って逃げれば逃げるほど、彼の手も唇も、ますます大胆になっていく。
「氷室さん、お願い」
 すでに衣服は半ば解け、白い肌に夜の闇が落ちている。
 ヘッドライトを煌めかせた車がすぐ隣を通過した時、たまりかねた成美は、初めて泣き声をあげていた。
「いやっ、いやです。お願いだからもうやめてください」
「本当に……?」
 彼はなお笑っていた。
 それもひどく冷たい、ゆえに息を飲むほど魅力的な微笑だった。
 ようやく成美は理解した。
 成美の、必死の抵抗や反応を、氷室は間違いなく楽しんでいるのだ。
     嘘でしょう?
 この人が、本当に氷室さん……?
 再び成美が屈してしまうと、氷室はますます満足そうな冷笑を浮かべた。
「本当にあなたは、可愛いな」
 掠れた、興奮を隠せない声に、成美は彼の隠れた本性みたいなものを初めて知った気がした。
 彼は私の思うような人ではなかった。
 物足りないほど紳士的で、優しい人だと思っていたけど、本当の彼は、そうではなかった……?
 が、次の刹那、予想もしなかった場所から、彼の指の冷たさと関節の太さを感じたとき   
 
 いつか見た、ボールぺンを握っていた形良い長い指を思い出し、成美は初めて声をあげ、彼の背に両腕を回していた。
     やだ、私……。
 氷室のシャツを握り締めたまま身体を震わせた成美は、いっそ、このまま消えてしまいたいと思っていた。
 そんなつもりは全然なかったのに、こんなに簡単に……。
 彼はどう思ったろう。私のことを、すごく簡単な女だと思っただろうか。
 彼の肩に顔を伏せたまま、成美はしばらく動けなかった。恥かしさと悔しさで、涙が滲むほどだった。
 そんなつもりじゃなかったのに    が、今夜、彼をそそのかしたのは成美で、成美はそういう意味では、彼を全く男として見くびっていたのだ。
 その時、車内のどこかで、携帯電話のバイプレーターが震える音がした。
「……氷室さん……」
「気にしないで」
 氷室の携帯が鳴っている。
「あの、出なくても……」
「黙って」
 ようやく穏やかな目になった氷室は、成美の額に、瞼に、何度も優しいキスを繰り返し    力強く抱き締めてくれた。
 携帯のバイブ音が途切れる。
「すごく、可愛かったですよ」
「…………」
 声は、いつもの氷室だった。
 どう応えていいか分からず、思わず双眸を潤ませると、氷室の表情に優しさだけが広がっていった。
「僕の方が、今夜は君の虜になったのかな。    怖い思いをさせましたか」
 成美は大急ぎで首を横に振って、彼の首に両腕を回した。
 氷室の優しさと温もりを全身に感じながら、成美は初めて、安堵にも似た幸福を感じていた。
     これで……私、本当にこの人の恋人になれたのかな……。
 明日のことは判らない。でも今だけは、そう信じてもいいような気がした。
 
 
 
 
 >next  >back  >top
Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。