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・ 「どうぞ」
差し出された缶コーヒーを見て、成美はびっくりして画面から顔を上げた。
「お疲れでしょう、少し休まれてはどうですか」
午後10時 行政管理課執務室。
有り得ない場所に現れた有り得ない人を見て、成美は席を立つことも声を発することもできず、ただ、目の前に立つ男を見上げていた。
「随分遅くまで、頑張られるんですね」
氷室天はそう言うと、成美の隣に置いてあるOAチェアに腰を下ろした。
シャツのこすれる音と、彼の香りが、ふいに成美の世界の全てになる。
「あの……答弁案、補佐から駄目出しが出て……期限、明日までですから」
「ああ、道路管理瑕疵会議ですか」
氷室はパソコン画面を覗き込んだ。端整な横顔。こんな時間なのに、わずかの乱れのないつややかな髪。
「あの……今日は、私、遅くなりますって……」
成美は言葉を途切らせた。
役所で定められている定時退庁日でもある金曜日。残業しているのは成美一人だった。
無機質な電子音だけが、ぶーんと室内に響いている。
画面を見つめている氷室の手が、パソコンの傍に置いてあるボールペンを手繰り、持ち上げた。
長い指、きれいな爪、形良い手首に煌く時計。関節の太さだけが、怖いくらい男らしい。
成美はぎこちなく目を逸らしていた。
仕事があるというのは本当だった。けれど、実際は もう、氷室に送ってもらうのはやめようと思っていた。
今日の昼間、ランチルームで見たあの光景が、まだ瞼に焼きついている。
たったあれだけのことなのに、午後の成美は全く仕事に身が入らなかった。
これ以上おかしな期待を持つようになる前に、氷室のきまぐれな親切を辞去したい。そうでなければ、いつか、今日以上に傷つく日が必ず来るような気がする。
「僕も残業だったんですよ」
成美が作った原稿を持ち上げて、それに眼を落としながら氷室は言った。
本当だろうか? と成美は内心思っている。
8時過ぎに道路管理課をのぞいたところ、執務室は電気が切れて真っ暗だったからだ。
とはいえ、今までもそういうことは何度かあった。勤務時間外、氷室が一体どこに行っているのか、成美には全く謎だったし、今も 聞き質せるような勇気はない。
「一人暮らしですからね。残ると決めたら、時間があまり気にならない性質なんです」
「……ずっと、お一人だったんですか」
座っていても長身の男を、身長の低い成美は見上げるような形になる。
「僕のことですか」
「はい」
氷室は書類から視線を上げずに答えた。
「こっちに来てからはそうです。僕の生まれは東京ですから」
「……じゃあ、東京では?」
「日高さんと同じで、僕も早々に親元から離れていましたよ」
勇気を振り絞った質問だったが、氷室はあっさりと答え、やはり顔を上げずに手元の書類をめくった。
彼がこの話題を切り上げたいと思っているのが、漠然と成美には判った。
以前も、少しだけ勇気を振るって、彼の東京時代の話を聞いたことがある。
その時も、彼は視線をあげず、どうとでも取れる返事をした。成美の質問には、それがどんなくだらない内容であっても丁寧に受け答えをしてくれる彼が、その時だけは冷たいと思えるほどに素っ気なかった。
触れて欲しくない そんな、無言の空気を感じた。
その時は、失礼なことを聞いたのかな、と逆に慌てもしたのだが、今は違う。
成美は、寂しい思いでいっぱいになって、うつむいた。
最初から判っていたことなのに、どうして今まで忘れていたんだろう。
自分と氷室は、しょせん、彼が灰谷市にいる間だけのつきあいなのだ。彼は自分の住処を別に持っていて、やがてはそこへ帰っていく人なのだ……。
「ここは、文章の繋がりがまずいですよ」
その氷室の声で、成美ははっと我に返った。
彼はボールペンを片手に、手にした原稿に何か書き入れている。
「柏原さんは、文章に煩い人ですからね。句読点のつけ方にも厳しいでしょう」
「あ、は、はい」
ドキッとしていた。
よくよく考えれば、食堂での一件を、 成美の不自然な態度を、氷室が気付いていないはずがない。
しかも、その直後に電話をして、今日は一人で帰りますとまで言ってしまったのだ。
どれだけ鈍い男であっても、そこに潜む複雑な女心は感じ取れたはずだ。
今、氷室が来てくれたことだけでも驚きだったのに、こうもあっさりと いってみれば無神経に、柏原の名前を出してくるとは 。
「あの人は、新人にはきついように見えるかもしれませんが、傍にいると、勉強になることばかりですよ。しっかり教えてもらいなさい」
「………」
「少し前になりますけど、……彼女、怒られていたでしょう、藤家局長に」
書き込みをしながら、氷室はよどみない口調で続けた。
「朝のヒアリングのことを尾崎課長に伝えなかったということでね。僕はあの後、藤家さんと話をしましたけど、藤家さんは、それが尾崎課長の詭弁だと見抜いておられましたよ」
「えっ……」
あの朝のことだ 随分前になるけれど、激怒した藤家局長が、柏原補佐の頭を叩いたあの朝のこと。
それはすぐに判ったものの、氷室の言う言葉の意味が理解できなかった。
藤家局長が見抜いていた ?
尾崎課長の……詭弁?
「あの場で、柏原補佐が謝罪しなかったら藤家さんも怒りの矛先を納められなかった そう仰っておられましたよ。尾崎さんは卑怯な言い訳をされましたが、それを承知ですぐに謝った柏原補佐には、僕は素直に感服しましたね」
「………」
「彼女はああいう人なんです」
そこで初めて氷室は顔をあげ、成美に眼をやった。優しい 何か、大切なものを語るときのような眼差しをしていた。
「柏原さんは、ああ見えて、実は隙だらけの間が抜けた人なんです。冷たい顔をしているから誤解されやすいですけどね。だからあなただけでも、彼女の助けになってあげてください」
「………」
この人は、何をしにここに来たのだろう。
成美はうつむいたまま、ざわめきはじめた感情を噛み締めた。
柏原補佐を好きだと、それを私に言いに来たのだろうか。私に親切にしてくれたのは、全部、私が 。
もしかして、柏原補佐の部下だから……?
「帰りましょう。10時過ぎの残業は、禁止されていますよ」
肩を軽く叩かれ、成美は弾かれたように顔を上げた。
「どうしました? 下で待っているから、支度していらっしゃい」
氷室は、一瞬不思議そうな顔をして、そして笑った。
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「……どうかしましたか」
別に と、成美は前を見たままで答えた。
気まずい沈黙が車内に落ちている。
氷室は、何か言いた気な素振りをしたものの、すぐに黙って運転に集中した。
成美も無言で、窓の外に視線を向ける。
自分の態度が、ひどく失礼でわがままなものだとは判っていた。
こうして送ってくれるのは、彼の善意以外のなにものでもなくて、それに感謝こそすれ、恨んだりひがんだりする理由は何もないのに 。
判っているのに……。
夜の暗さが、車内の二人の表情を影で覆っている。それだけが救いだった。
氷室の口から出る巧みな話題も、横顔に浮かぶ魅力的な笑顔も、今夜は何もかもが空しかった。
多分、それが自分だけに向けられたものではないと判ってしまったから。
それだけではなく、彼の優しさの理由の根幹に、柏原補佐がいると判ってしまったから 。
ふっと張りつめていたものが緩んで、泣きそうになっていた。
昼から夜にかけての自分の子供じみた振る舞いは、氷室を完全に呆れさせてしまっただろう。
馬鹿だ、私。
ずっと憧れていた人と、夢みたいに親しくなれたのに。毎日30分一緒にいられるだけで、それだけで十分幸せだったはずなのに。
それでも それが判っていても、ここでも自分の前に、あの完璧な女性が立ちふさがっていると思うだけでたまらない。
この、どうにもならない感情だけは、絶対に氷室には理解できないだろう。
胸の底奥深くに、今まで想像もしていなったほどの、暗く濁った感情がある。
自分が今、すごく嫌な、生の感情をむき出しにした女になってしまっているのがよく判る 。
「……何を、考えているんですか」
赤信号で、車が緩やかに停止する。沈黙を破ってくれたのは氷室の方だった。
「私、自分が、もっと頭がよくて、美人だったらいいと思ってました」
氷室がいぶかしげな顔をしたのが、気配で判った。
同時に成美も、何を言っているんだろうと思っていた。
最初、口を聞くのさえ憚られた男に、何を甘えたようなことを言っているんだろう。
なのに、いったん堰を切った感情は止まらない。
「もっと、はきはき色んなことを喋れて、社交的で、都会的だったら……どんなにいいだろうって思っていました」
「あなたがそんな人だったら」
氷室が成美を遮り、車が再び走り出した。
ステアリングを握る男の、表情も感情も、成美には掴みきれない。
「そんな人だったら、僕は、あなたを隣に乗せたりはしなかったでしょうね」
「どういう意味ですか」
むっとした感情が、そのまま声に出てしまっている。けれど氷室の横顔は穏やかなままだった。
再び車内に沈黙が満ちる。
「……私、わかりません、どうして」
自分の声が上ずっている。
成美は男から目を逸らした。
「どうして氷室課長は 私を、毎晩送ってくださるんですか」
「家が近くだからですよ」
相当の勇気を振り絞って口にした質問だが、返ってきたのは、からかうような声だった。
「この沿線にバスの本数が少ないのはよく知っていますからね。僕も赴任した頃は、随分不便を感じましたから」
息を詰めて彼の返事を待っていた成美は、自分が完全に子供扱いされたことを、知った。
なんだろう、その言い方。
私が何を聞きたいか、この人は、ちゃんと判っているはずなのに。
昼間の不自然な態度も、一緒に帰るのを断った意味も、今、我儘な態度を取っている理由も、本当は全部 見抜いているはずなのに。
……一体、何を考えているの……。
突然、成美は、この曖昧な関係が耐えられなくなった。何もかもはっきりさせて、もし、この関係が恋と呼べるようなものでなければ、全てなかったものとして精算したい。そんな投げやりでやけっぱちな気持ちになりかけていた。
「だったら、もっと近い人をいくらでも乗せてあげればいいじゃないですか。私なんかと喋っても、面白くもなんともないでしょう」
成美の剣幕に、氷室が少し驚いたのが判った。
「もっと、氷室さんに似合う人が、他にもいっぱいいるじゃないですか」
「…………」
心臓が停まってしまいそうなほどの、重苦しい沈黙が車内に落ちた。
判ったのは、これで何もかも終わってしまうということだった。2人の関係も、一日で一番楽しい時間も 何もかも。
やがて、氷室が微かに嘆息する気配がした。
「はきはきして、社交的で、都会的 そういう女性があなたの理想ですか? それでいつもあなたは、背伸びしたメイクや似合わない服ばかりを着ているのですか」
え?
さっと頭の中が白くなった。
氷室が何を言ったのか、何が言いたいのか 判らなかった。
「あなたにはあなたの良さがあるのに、僕は、それを残念に思いますよ」
「…………」
見開いたままの瞳が、わずかに震えた。
莫迦なことを言って嫌われた そのことより、彼が放った余りに辛辣な皮肉に、泥で胸が塞がれたようだった。
そんな言葉を、まさか憧れていた氷室課長の口から聞くなんて。
この人だけは、私のことを、理解してくれていると思ったのに。
この人だけは、私の味方だって……。
何時の間にか車が定位置で止まっていた。いつも、氷室が「じゃあ、明日」という場所で。
成美は動けなかった。全身が石のように固まって、後部座席に置いたバックを取ることさえ出来なかった。
氷室が、大きく嘆息する。
「失礼なことを言ったのなら謝ります。あなたが、ご自身に劣等感を覚えておられるのは知っています。僕はそれを、常々残念に思っていたので 余計なことを言いました」
「いえ……」
成美は、懸命に自分を建て直そうとした。
決して否定されたわけじゃない。彼は私の地の部分を、もっと大切にしろと言ってくれているのだ。
それでも判っているのは、二度と、彼の助手席には乗らないだろうということだった。
彼の気持ちはよく判った。微かに抱いていた甘い期待は、ものの見事に、いっそ木端微塵と言っていいほど粉々に打ち砕かれた。
もう二度と 二度と、こんな惨めな思いはしたくない。
「それから」
後部座席のバックを取ろうと、強張った身体の向きを変えかけた時だった。
それを遮るように、氷室が口を開いた。
「僕があなたを送るのは、あなたと一緒にいるのが楽しいからです。あなたが好きだからです。そうはっきり打ち明ければ満足ですか。僕は、言葉がなくても、どこかで理解してもらえていると自惚れていました」
「…………」
え……?
「あなたが僕を好きでないなら、このまま車を降りてください。もう二度とあなたを強引に誘ったりしないと約束します。こんなに急ぐつもりはなかった。でも あなたが、今夜僕にそう言わせるしかないように仕向けたんです。違いますか?」
性急な 初めて聞くような、怒りのこもった口調に、成美は言葉を失ったまま、瞬きだけを繰り返していた。
頭の中は真っ白なのに、車を降りられないことだけは判っていた。
というより、彼の言った言葉の意味が、まるで理解できなかった。
私のことが好き……?
今、本当にそう言ったの?
「……こんな言い方を、するつもりではありませんでした」
成美の沈黙をどう解釈したのか、氷室は再び苦しげに息を吐くと、身体の向きを変えて後部シートに腕を伸ばした。
「僕の自惚れの鼻は、見事にへし折られたようです。お帰りなさい。それから今夜のことは忘れてください」
差し出されたバック。柄を掴んでいる氷室の手。 彼が誤解しているのが判っても、言葉は喉に張り付いたようになって出てこない。
どうしていいか判らないまま、成美は衝動的に、男の手に自分の手を重ねていた。
氷室が眉をひそめて成美を見る。
同時に成美も驚いていた。初めて触れた氷室の肌は、ひどく冷たくて、まるで水に触れたような違和感を覚えたからだ。
冷たい手 彼という人の本性は、この手の通りの冷たさなのだろうか。それとも逆に温かいのだろうか。
「……まるで」
氷室がようやく呟いた。
「熱でもあるみたいに、熱いんですね」
それは、あなたの手が冷た過ぎるから 。
温度の異なる指を重ねたまま、2人はしばらく無言だった。
闇に包まれた狭い車内、彼の顔は暗く翳り、表情は影で覆われている。
この沈黙が、氷室の逡巡を意味しているのは判った。それでも数秒後には、そっと唇が重ねられていた。
キス 。
眼を閉じた成美には、唇の温かさだけが全てだった。
心臓の音が、煩いくらい鳴っている。
氷室の大きな手が、両肩にかぶさるように触れる。
少し身体を固くしたものの、成美はその動きに任せ、逆らわなかった。
薄いブラウスを通して伝わる彼の温度。彼の手はやはり冷たかった。一瞬背筋を震わせた成美は、自分の体温が彼の冷たさを吸い取ってしまったような錯覚を感じた。
手のひらはゆっくり肩をすべり、背中に回されてそっと抱き寄せられる。
唇を合わせるだけのキス。夢を見ているような気持ちだった。あの氷室課長に。いつも遠いデスクに座り、憧れることしかできなかった人に。 今、私は。
仄かな柑橘系の香り。髪の香り 氷室の香り。
そのフレグランスに包まれて、頭の芯が痺れたようにぼうっとなる。
「また、……明日」
唇を離して、氷室が低く囁いた。
いつもより艶を帯びた声だったが、それでもその口調は冷静で穏やかだった。
成美は返事も出来ないまま、ただ、頬を撫でる彼の指の冷たさを感じていた。
この冷たい指が、熱を帯びる日が来るのだろうか ?
何故か、そんな日は永遠にこないような気がして、咄嗟に彼の手を自分の掌で押さえていた。
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