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 氷室との距離は、その夜を境に近づいたように見えて、その実何も変わらないように成美には思えた。
 それからも、2人は帰途の30分を共に過ごし、別れ際、彼は人目を憚るような控え目なキスをしてくれたが、それだけだった。
 唇を合わせるだけの軽いキス。
 それだけを儀式のように済ませると、氷室はいつもの穏やかな笑顔で「じゃあ、明日」と冷静に別れを告げるのだ。
     こういう場合、女の私から誘うのは……あまりよくないんだろうな。
 物足りない、というか、以前と比べてますます不安だけが募る関係は、成美には全く謎だった。
 2人の会話も、相変わらず恋愛とは無関係の話題ばかりで、以前はそれで十分満足だったのに、今の成美はそれだけでは物足りなくてたまらなくなっている。
 もう一度、彼の口から本当の気持ちを聞きたいのに、そんな気配すら見せてくれない。
 穿ちすぎかもしれないが、まるで、あえてその話題を避けているようにさえ見える。
     30代の男の人って、皆、彼みたいに落ち着いているものなのかな。
     一度好きって言ってしまえば、それまでなのかな。それとも……まだ、私に本気じゃないから   
 そんなことをぼんやり考えながら、食堂を出ようとした時だった。
 昼    市役所本庁舎。可南子が仕事で出られないので、成美は一人で食事を済ませたばかりだった。
「よ、一人?」
 その声に、振り返った成美は表情を強張らせていた。
 道路管理課の沢村烈士。
 見上げるほどの長身で強面の男が、例によって馴れ馴れしい微笑を浮かべて歩み寄ってくる。
「いつも美人の友達と一緒だから。あの子、総務の子? 今度紹介してくんないかな」
「話してみますね」
 なるべく他人行儀に言って、成美はそそくさと歩き出した。
 どうもこの男は苦手だ    理由は判らないけれど、目元の鋭さとか、女性を見る目に何か暗いものを感じずにはいられない。
 それ以上に、沢村には自身の意味不明な態度を見られている。氷室とのことで、何か勘付かれているのではないかという不安もある。
「あれ、氷室さんだ」
 が、その沢村の言葉で、成美は足を止めていた。
 振り返ると、沢村が意味深な目で笑っている。
 からかわれた   
 かっとした成美は、再び歩き出そうとした。背後から沢村が追ってくる。
「本当だよ。ほら、あっち。午前に、霞ヶ関の友達が訪ねてきたから、昔話に花が咲いてるんじゃない?」
     霞ヶ関の友達……?
 警戒しながら、沢村が示すほうに視線を向けると、食堂横の休憩スペースに、確かに氷室の姿があった。
 彼は窓際に立ったまま、こちらに横顔を見せていた。
 その隣に、彼と似たような体格の男が立っている。見えたのは後ろ姿だけだった。
 いかにもビジネスマンめいたスーツ。襟足の長い髪が、遠目にも異様に黒々としている。
 並び立つ2人以外、周辺に人はいない。氷室の横顔が    初めて見るような険しさを漂わせているのが、成美には判った。
「本当に、お友達ですか……?」
「らしいね。ただ、課長は迷惑そうだったから、相手が一方的に友達だって言い張っているのかもしれないけど」
「本当に?」
「それとも劣等感……。形はどうあれ、課長って飛ばされた人でしょ。本省のエリートコースから外れた人」
 沢村の言葉は、辛辣な皮肉に満ちていた。
「本省の友人が上目線で訪ねてきたら、そりゃ、プライドが傷つくんじゃないの? ああ、おたくの柏原さんも、似たような立場だよね」
 成美は沢村の言葉を無視するように歩き出した。
 霞ヶ関の人が、市役所に派遣される理由は色々あって、沢村の言うとおり、それが左遷の意味を持っている場合もあるには違いなかった。
 それにしても、ひどすぎる。
 氷室さんのことを言われたのもそうだが、柏原補佐のことまで   
 エレベーターホールに向かいながら、成美は再度、氷室のいる方を振り返った。
 そして、はっとして目を逸らしていた。
 彼は明らかに怒っていた。声までは聞こえなかったが、口調を荒げて相手に何かを言っているのが、はっきりと判るほどだった。
     なんだろう……。
 あの冷静な氷室さんに、一体、何があったんだろう。
 エレベーターを待ちながら、改めて成美は、自分が彼のことを何一つ知らないことに気がついていた。
 私は、彼のことを何も知らない   
 彼の過去に何があって、どうして市役所に来たのかさえ。
 そして、それを自分から訊く勇気さえ持てないのだ。
     私、……こんなことで、本当に氷室さんの恋人だって言えるんだろうか?
 そもそも氷室さんは私のことを、本当に恋人だと思っている……?
 成美は眉を寄せたまま、その場から動けなくなっていた。 
 
 
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「こことここ、根拠がない。理由も曖昧で説得力がない。やり直して」
 いつも以上に容赦ないダメ出しに、成美はうなだれて、突き返された書類を受け取った。
「柏原さん、最近妙に苛々してるな」
「俺、決裁持って行くのが、マジ怖くてさ」
 自席に戻る最中、そんな同寮の囁きが聞こえた。
 総務局行政管理課の執務室    午後、例に寄って室内は静まり返っている。
 成美も、今だけは同寮の意見に同感だった。もともと冷たい人だったが、最近は余裕がないのが傍からみても判るほどになっている。    柏原補佐。
     会議の答弁……もう何日も返って来ないけど……。
 成美はちらっと上席の上司を見たが、柏原は眉間に皺を寄せるようにして、手元の書類を睨みつけていた。とても、そんなことを聞き質せる雰囲気ではない。
 どの職場もそうだが、優秀な人のところには、自然に仕事が集中するようになっている。
 柏原補佐も例外ではなく、課長や次長、挙句は局長から直に頼まれた仕事が、日々山積みになっている。それでも残業時間は成美より遥かに少ないのだから、彼女の有能さが窺い知れるようでもある。
「もしかしてさ、日高さんが、氷室課長と親しいからじゃない?」
 斜め前の男性職員が、珍しくからかうような口調で言った。
「女の嫉妬……。そういや、日高さんへの風当たり、最近厳しくなったもんな」
 もう一人の男性職員も笑うような口調で同意を示した。
 成美は、むしろ蒼白になって上席に目をやったが、柏原補佐は席を立って、課長席の方に向かっているようだった。
「まさか、補佐に限ってそんなことあるはずがないじゃないですか」
 成美は冗談めかして言い返したが、実は思い当たる節がないではなかった。
 一度だけ、氷室と待ち合わせの場所に行く前に、エレベーターホールで柏原補佐と鉢合わせになったことがある。
 迂闊にも成美は、うきうきと時計を見ており、柏原の姿を認めた途端、はっと表情を強張らせていた。
 その時、柏原は何か言いたげな表情になった。
 何か    それが、あまりいい言葉ではないことを、女の直感で成美は悟った。
 それ以来、柏原の前では、務めて氷室への態度を冷淡にしているが、沢村以上に頭のいい彼女が、2人の間に流れる空気に気付かないはずはない。
     まさか、補佐が私に嫉妬……?
 怖いというより、それはむしろ誇らしい気持ちだった。
 そんなことがあるはずがないと思う反面、女としての嫌らしい感情が、ささやかな勝利を喜んでいる。
 成美は、そんな自分を愚かだと思ったが、それでも、何をしても敵わない上司に、こんな所で優位に立てるのは    嬉しくないと言えば嘘になった。
 
 
 
 
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。