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「……失礼します……」
 他課のカウンターをくぐるのは、いつものことながら緊張する。
 仕事柄、行政管理課は常に受け身で、こちらから他課に出向くことなど滅多にないからなおさらだ。
 成美は、道路管理課の執務室におずおずと入った。
 2係を有する道路管理課。
 皆出払っているのか、職員の数はまばらで、成美が入っても誰も顔を上げる者はいない。
 その代わり、向かって右隣りの道路局総務課の女性がふと立ち上がり、訝しげに成美を見た。
 成美は大慌てで一礼した。
 道路局長秘書の御崎菖蒲(みさき あやめ)。
 成美より二年先輩だが、役所内でも有名な美人である。
 役所に数多ある局の局長秘書は、絶対顔で選んでいるとしか思えないほどの美女揃いで、よく気がつく、頭の回転が速い、しかも人当たりがいいなどの好条件が全て揃っている。
 当然、一女性しても引手数多で、若い独身男性の羨望の的でもある    御崎菖蒲は、その美女軍団の中でも、群を抜いて人気がある女性職員だった。
 案の定、感じがいいとしかいいようのない微笑を返してくれた菖蒲は、きびきびとした態度で局長室の方に消えて行った。
 なんだかますます居心地が悪くなる。出鼻をくじかれた感になった成美の背後から、いきなり聞き慣れた声がかけられた。
「あれ、日高さん、どうしたの」
 ファイルを抱えた沢村烈士である。振り返った成美は、やはりその威圧感に気圧されていた。
「そっちから来るなんて珍しいじゃん。何か変わったことでもあった?」
 たとえ年が近くても、よほど親しくない限り役所内ではお互い敬語で接するのがマナーである。が、この沢村という男は元来図々しいのか、そのあたりの感覚がフランクなのか    仕事を離れれば、いつも友達口調で接してくる。
「あの、氷室課長に、……ちょっと」
 おずおずと成美は言った。
「課長?」
 意外そうに、沢村は鋭い目を上げて課長席の方を見た。
「今、局長室で協議中……。何か伝えとこうか?」
「あ、いいです。それはホントに」
 会議に出ることになった挨拶と、ついでに    実はそっちがメインなのだが、昨日のお礼をするつもりだった。
 いずれにしても、とても、沢村のような得体の知れない男に伝言を頼めるような内容ではない。
「あの、また出直します。失礼しました」
 急いでカウンターの外に出た途端、「じゃあ、氷室君、その件はよろしく頼むよ」という声が聞こえた。
     氷室さん……。
 つられるように、成美は足を止めていた。
 丁度局長室の扉が開き、氷室と道路局長が出てくるところだった。彼らの背後からは、先ほどの御崎菖蒲の姿も見えた。
 氷室は、いつもの物静かな横顔を見せ、局長に向かって頷いている。
 黒っぽいスーツに身を包んだ彼の姿に、成美は何故かドキッとしていた。
 均整の取れた長身に、ギリシャ彫像を思わせる端正な容貌。
 いつも遠くから見るだけで、決して近寄ることができなかった人。
 嘘みたいだ。昨夜、その人に、助手席に乗せてもらって家まで送ってもらったなんて   
 まだ夢を見ているようだし、過ぎてしまえば、実際に夢だったのではないかとさえ思えてしまう。
「判らないことがあれば、うちの秘書を使いたまえ。彼女は、慣れているからね」
 再び、道路局長の声がした。
「課長、私でよければ、フォローさせていただきます」
 そう言った御崎菖蒲が、隣立つ氷室を笑顔で見上げる。
 何故か成美は、その刹那鈍い痛みを感じた。
 そして、痛みの意味を深く考える前に、急ぎ足できびすを返していた。
「あれ、日高さん。課長出てきたけど、いいの?」
 沢村の声は、聞こえないふりでやりすごした。
 速足で執務室に戻りながら、今の自分の態度の不自然さに、成美は心底情けないものを感じていた。
 私……何を馬鹿みたいに一人で意識して、一人で勝手に傷ついているんだろう。
 もし、昨夜のことで、何かわずかでも期待しているなら、愚かだとしか言いようがない。
 あれはたまたま偶然で    いきがかりで   
 氷室課長は、年上という立場から、ああして慰めてくれただけに違いないのに。
 なんとも情けない、やるせない気持ちで席についた途端、電話を受けていた隣席の職員が、「日高さん、電話」と、素っ気なく受話器を渡してくれた。
「はい、日高です」
 私用で席を空けていた後ろめたさも伴って、成美は急いで電話に出た。
「やあ」
 優しい、穏やかな低音の声がした。
「僕に用だった? もしかして、会議の件なら、こちらから電話しようと思っていました」
 砕けた口調と、他人行儀な丁寧さが、なんとも言えないバランスで共存している。
 成美がものも言えないでいると、氷室は、穏やかな声で続けた。
「会議は来月です。忙しい折に仕事が増えて大変でしょうが、どうかよろしくお願いします」
 成美は    多分、傍目にも判るほど真っ赤になっていた。
「は、はい、こちらこそ……。ふつつか者ですが!」
「はい?」
 いけない、言い方を間違えた。これじゃ、まるで私がお嫁に行くみたいな   
「あの、…………未熟者ですが」
 おずおずと言い添えると、電話の向こうで、わずかな笑い声が聞こえた。
「道を覚えたので、よろしければまたお誘いしますよ。……では」
     え?
 受話器を呆けたように見つめたまま、成美はただ呆然としていた。
 今のどういう意味?
 どういう意味   
 
 
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「それで? 会議の準備は順調に進んでるんだ?」
 長瀬可南子はくすり、と笑うと、手元のフォークでパスタを器用に絡め取った。
「てか、本当にそんな大層な会議に出て大丈夫なの? 成美が人前で喋るなんて、なんだか心配」
「うん……最初は恐かったんだけど」
 成美は、自分もサンドイッチを口に運んだ。
 庁舎十五階にある職員食堂。
 昼休憩、一般の客も紛れていることから、安さが売りの食堂はいつも大混雑している。
「議題は決まってるし、答弁を事前に用意しておけばいいだけなの。あとは、本番でそれを読むだけで……」
「ふぅん」
「その答弁案の期限が昨日まででね。ようやく決裁を回したところ」
「ふぅん」
 可南子は興味なさげに、長い髪を後ろに払った。
「人手が足りないんだねぇ、行政管理課も。何も成美みたいな新人を、そんなところに当てなくてもいいのに」
「……うん…」
「失敗だけはしないようにね。下手なことして、区役所なんかに飛ばされたら元も子もないんだから」
 どうせプールなんだから。
 どうせ、一年で異動なんだから。
 可南子の目がそう言っているように見えて、成美は思わずうつむいていた。
 長瀬可南子は、成美などよりはるかに偏差値の高い有名大学出身である。スタイルのいい和風美人で、同期の中では一番人気の女性でもあった。
 新規採用早々、気難しいと評判の藤家総務局長の秘書に抜擢されたのもそのせいだろう。
 そして、総務課という職場柄、成美の知らない人事の秘密なども耳に入ってくるらしく、折に触れそっと教えてくれる。
 氷室の身長や年齢、バツ一で子供がいる    ということを教えてくれたのは可南子だった。
 そして、成美が行政管理課に配属された理由    それを教えてくれたのも可南子だった。
「うん、でも大丈夫だと思う。……氷室さんがフォローしてくれるって言ってるし」
「氷室、さんね」
「あ、氷室課長」
 可南子のからかうような口調に、成美は思わず赤面してしまっていた。
「随分親しくなったみたいね。氷室課長のこと喋ってる時の成美、なんだかいきいきして楽しそう」
「そ、そんなこと」
「服だってメイクだって、最近の気合いの入れ方、半端ないじゃない。随分大人っぽい雰囲気で固めてるし、年上狙いなのが見え見え」
 そんなことない……。
 反論の言葉は、もごもごと唇の中で消えていく。
「ま、ハードル高そうだから、くれぐれも無理しないようにね。成美は素直だから、すぐに騙されそうで、心配だよ」
「うん……」
 一番仲のいい可南子にも、これだけは言えなかった。
 あの    エレベーターホールで会った夜から、氷室は毎日にように成美を家まで送ってくれるようになったのだ。
 最初は頑なに固辞したものの、氷室がひるむことなく誘い続けてくれるので、今では当然のように、待ち合わせの場所で落ち合い、車に同乗するわずか三十分の間の会話を楽しむようになっていた。
 ただ、そこにセクシャルな空気はみじんもない。
 氷室はまるで、大学の先輩のようだった。兄のようでもあり、父のようでもあり、友人のようでもある。どんな話題にも造詣が深く、その上成美の話にも真剣に耳を傾けてくれる。
 家までの三十分があっという間で、むしろ短く感じるほどだった。
 このまま、食事にでも誘ってくれないかなぁ、と、大胆なことを思う夜も何度もあったが、成美のマンションの前につくと、氷室は必ず「じゃあ、明日」と言って片手を上げる。
 自分の彼に対する感情が曖昧なように、彼の自分に対する感情も、どこか曖昧で掴みきれない。それでも、一緒にいるだけで楽しい。そんな関係が、ここ数日の間、ずっと続いているのだ……。
「成美はお人好しだからなぁ」
 空になった皿を押し下げ、可南子は薄い唇ですうっと笑った。
「氷室課長とどんな話をしているのか知らないけど、あの人が浮気者で、離婚暦があるってこと、忘れちゃだめだよ」
「別に……そんなこと、仕事とは関係ないから」
「ほら、あんたの上司の柏原サン、あの人との浮気が原因で奥さんと離婚したって話もあるんだから。くれぐれも気を許さないようににね」
「うん……」
 その話も、何度も可南子から聞かされている。そして、これは可南子が発祥源ではない、役所の中では公然と囁かれている噂である。
 氷室と柏原。
 共に追随を許さないエリートで、双方とも人目を引くほどの美貌を兼ね備えている。「霞ヶ関組」    市の職員とは別次元の存在で、やがて古巣へ帰っていく人たち。
 そういったやっかみから出た根拠のない噂だとは判っていても、それでも可南子の口から語られた今の話に、成美は改めて傷ついていた。
「あら、……噂をすれば、なんとやら」
 可南子が皮肉めいた笑みを浮かべ、目線だけで成美を促した。
 成美は振り返る。
 休憩時間が終わりに近づいているせいか、食堂の混雑は大分緩和されていた。セルフサービスのカウンターから、トレーを持った背の高い男女が二人、楽しそうに談笑しながら近づいてくるところだった。
 周囲の者が、それとなく視線を向けている。
 スレンダーな長身、目を射るほどに白いシャツ。グレーのパンツにバケットを締めた柏原暁凛と   
 その隣で、やはりトレーを持っているのは、氷室天だった。身長が百七十近くもある柏原と並んでも全く遜色のない長身に、端整な横顔。
「課長もお忙しいのに、申し訳ありません。最近は昼しか時間が取れないものですから」
「いえいえ、柏原さんのお誘いなら喜んで」
 笑顔を交わし合った2人の視線が、同時に成美の座る方に向けられた。
 成美は、咄嗟に視線を下げていた。
 気付かれたか、気付かれなかったか微妙なタイミングだったが、気付かれているなら不自然な態度には違いなかった。
 心臓が、嫌な風に高鳴っている。
「向こうに行きましょうか」
 うつむいた頭上から、柏原補佐の声だけが聞こえた。
 後ろ姿でさえまるでモデルのように美しい二人は、そのまま食堂の隅のテーブルに向かい合って腰を下ろした。
「……へぇ、大胆なこと、するんだねぇ」
 可南子はふぅっと吐息を吐く。その指先が、所在なさげにテーブルを叩いている。成美は、その指の動きだけをぼんやりと目で追っていた。
 執務室では絶対に見ることのない柏原補佐の笑顔と    それよりなお、楽しそうだった氷室の横顔。
 私だけに向けられていると、どこかで自惚れていた笑顔。
 密かに信じていたものが、あっけなく崩れてしまった気分だった。
「成美、判ってるでしょ。所詮私たちとあの人たちは違うんだから    間違っても、甘い夢なんかみたら駄目だからね」
 可南子の声が追い討ちをかける。
「別に……」
「それにしても、柏原補佐って完璧な美人よね。恋も仕事も、全て手に入れているパーフェクトな人か、……同性としては、なんとか弱味を掴んで足をひっぱってやりたいとこだけどな」
 ふふ、と可南子はどこか投げやりな笑い方をした。

 
 
 



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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。