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「どうぞ」
 内側から、扉がゆっくりと開かれる。
 黒のBMWだった。成美の人生で、今まで一度も乗ったことのない高級車。
「……失礼します」
 なるべく氷室の顔を見ないようにうつむきながら、成美はぎこちなく助手席に収まった。
 顔は、直す間さえなかった。いくらなんでも、成美にとっては雲の上の存在であるこの男を待たせるわけにはいかない。どろどろになったメイクは塗り直すよりは落とした方がまだマシなくらいで    結局、更衣室で、成美は携帯していたクレンジングコットンでファンデもアイメイクも全部落としてしまった。
 口紅だけは塗り直したものの、実質すっぴんも同様である。
     実は童顔だってバレたらどうしよう……。
 ドキドキしたが、そもそも氷室が、自分の顔の造形まではっきり記憶してくれているとは思えない。
 今回の仕事まで、口を聞くことはおろか、すれ違っても目礼しか交わしたことのない相手である。
 成美は……4月以来、色んな意味で意識していたが、氷室にしてみれば存在さえ認識することのなかった相手だろう。
 前を向いたままの氷室が、緩やかに車を発進させる。
 やはり、上着は着ていない。少し緩めたネクタイが妙に新鮮で、その横顔がいつになく若く見えた。
「一人暮らしですか」
 仕事のことや役所のことで何か言われると覚悟していた成美は、その言葉に少しほっとして頷いた。
「大学の時から……一人です」
「ご両親は」
「……父の定年を機に、田舎暮らしを始めたので」
 運転の合間、途切れ途切れではあるが、氷室は優しい口調で、成美の大学のことや、好きな音楽の話などを聞いてくれた。
 意識してそうしてくれているのか、仕事の話は全く出てこなかった。
 最初は警戒して男の質問に答えていた成美も、やがて自分から質問する余裕さえ出てくるようになっていた。実際、氷室は話し上手で、それ以上に聞き上手な男だった。
 成美が口にするどんなつまらない受け答えも、彼にかかればいくらでも面白くなり、尽きることなく話の裾が広がっていく。    そんな感じだ。
「知らなかったです。氷室課長って、お話好きな方だったんですね」
 ついに感嘆して、成美は言った。
「普段、あまりお話しにならないから……    もしかすると、口べたな方なのかと思っていました」
「よく言われます」
 氷室は楽しそうに微笑した。
「実際役所では、極めて物静かにしていますからね。人によっては、気取っているように思われるかもしれません」
「そんな……」
 確かに彼の寡黙さは、悪くすればお高くとまっているとも取られるだろうが、  普段から態度が丁寧で慇懃なので、そんな風に思う者はあまりいないだろう。
 今夜の氷室は饒舌とまではいかずとも、無口というイメージには程遠かった。むしろ、会話をリードし慣れている風格さえ感じられる。
「役所では、僕のイメージを壊さないように心がけているんですよ」
 氷室はステアリングを回しながら、微かに笑った。
「部下より若いというハンデを負っていますからね。黙っているにこしたことはない」
「どうしてですか」
 意味が判らず、きょとんとして成美は訊いた。
「こっちが黙ると、相手が慌てて言葉を繋げてくれるんです。だから、僕の方はボロがでなくてすむ」
「ボロなんて……冗談ばっかり」
「本当ですよ。昔から、僕は雰囲気で得をしているとよく言われますから」
 自宅までの三十分足らずで、成美はこの男に対する偏見や気後れを、不思議なくらい感じなくなっていた。
「課長みたいな方でも、ご自身のイメージを気になさるんですね。少し意外でした」
 笑顔で隣に座る男を見上げた時、車が静かに停車した。
 成美はようやく、そこが自分のマンションの前だということに気がついた。
「やっと、笑いましたね」
 氷室ははじめて、ステアリングから手を下ろし、成美を見つめた。
 成美は、はっと赤くなってうつむいた。
 すっかり    忘れていた。今、自分がどんなにみっともない顔をしているか。
「若いというのは、いいものですね。あなたは、素顔の方がとても可愛いですよ」
「えっ……そん、な」
 この状況で、なんてことを言う人だろう。
 お世辞だろうけど、全然お世辞になってないっていうか……。
 ぎこちなくバッグを引き寄せながら、成美は自分の心臓が激しく高鳴るのを感じていた。
 まさか    もしかして、口説かれてるとか?
    ああ見えて、女癖が悪いらしいよ)
 いやいや違う。いくらなんでも、私相手にそれはない。
 いい気になっちゃだめ。
 勘違いしちゃだめだ。
 私があんまり惨めそうに見えたんで、慰めてくれただけに決まっている。
「では、また明日」
 氷室はすっと片手を上げる。
 成美は、ほっとしたのか拍子抜けしたのか判らないまま、ぎこちなく車を降りた。
「ありがとうございました」
 笑顔で頭を下げた成美は、はっとその笑顔を強張らせていた。
 明日    でも、もう成美に、この人に会う口実はない。
 もう、道路管理の仕事からは外されてしまったのだから   
 
 
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 翌日、成美は少し早めに自宅を出たが、いつにない渋滞で、結局役所についたのは就業時間ぎりぎりだった。
    ついてないなぁ……)
 昨日、あんなことがあったから    今日だけは早く出勤し、昨日のことなど気にしていないという振りを装いたかったのに。
 交通事故でもあったのか、成美と同じ沿線で通勤してきた者たちは、のきなみ遅れ気味だった。混雑しているエレベーターの中で、行政管理課長、尾崎正剛の姿を見つけ、成美は慌てて一礼した。
 今年で五十になる強面の課長は、成美の姿を認めても眉一筋動かさない。時間を気にしているのか、しきりに腕時計に視線を落としている。
 8階でエレベーターが止まると、尾崎は振り返りもせずに駆け出していく。普段緩慢にさえ見える上司の慌しい姿に、成美も不安をかきたてられ、その後を追うようにして駆け出していた。
「何をやっている、尾崎!」
 執務室に入った早々、そんな怒声が朝の空気を震わせた。
 目の前で、尾崎課長の背中が硬直している。
 行政管理課の課長席の前で、赤黒い顔に白髪頭、肩幅の広い大柄な男が鋭い眼差しを向けていた。成美もはっと緊張した。
     総務局長、藤家広兼。
 行政管理課を含む、総務局のトップに立つ男。
 次期助役候補とも言われ、市の生え抜き職員では、一番の出世頭。そして、いったん怒り出すと手がつけられないことでも知られている。
 成美の同期、長瀬可南子が秘書としてついているのは、この気難しい初老の男だった。
「申し訳ありません」
 尾崎は足早に藤家の前に歩み寄り、直立不動のままそう答える。
「早朝ヒアに、課長の貴様が来なくてどうする!」
 藤家は手にしていた書類を振り上げ、それを尾崎の横っ面に振り下ろした。
     わっ。
 成美は咄嗟に目を閉じている。
 鋭い音がして、ようやく目を開けた時には、直立不動の尾崎の足元に、書類が幾枚も散乱していた。
 始業ベルが鳴ったのはその時だが、執務室の誰もが息を呑んだきり言葉ひとつ発しない。
 この藤家の所業はいつものことで、決して珍しい光景ではないが、いつ見ても慣れないことだけは確かだった。
「申し訳ありません。柏原補佐から電話を受けたのが、家を出た直後だったものですから」 
 動かないままの、尾崎の背中がそう言った。
 藤家のほとんど背後に立っていた柏原暁凛が、ふと眉を寄せるのが成美には見えた。
「本当かね、柏原君、君に知らせたのは昨日の夜だったはずだが」
 藤家の鋭い眼差しが、背後に立つ長身の女に向けられる。
「申し訳ありませんでした」
 柏原は即座に頭を下げる。「私の、連絡ミスだと思います」
「何をやっとるんだ、何を」
 赤鬼とあだ名される藤家は、苛立った声をあげ、いきなり柏原の頭を叩いた。ぐらっと肩がゆれたものの、柏原は低頭姿勢のままだった。
「この課には使える者はおらんのか。全く、どいつもこいつも、口ばかりで、役にたたん!」
 独り言のように声を荒げ、そのまま藤家は、行政管理課のカウンターをすり抜けて出て行った。このフロアの西側奥に、総務局があり、総務局長室はそのさらに奥にあるのだ。
 鬼局長が去ると、執務室には何事もなかったかのような    いつものざわめきが戻ってきた。
 あれほど激しく叱責された尾崎も柏原も、平然とした顔で自分の席についている。
     信じられない……。
 成美は、自分も慌てて席につきながらそう思った。
 あんなに大勢の前で、あんな叱られ方をして、私なら    ―どうなるだろう。
 きっと、数分後にはトイレに駆け込んで泣いているだろう。でも、柏原補佐は
   
 怜悧な顔で、書類に目を落としている女を見ながら、成美はますます自分に自信がなくなっていくのを感じた。
     私には真似できない。やっぱりこの人は完璧で、私なんかが逆立ちしたって敵わない人なんだ……。
「日高さん」
 上席から声がかかる。課長    尾崎の声だった。
 滅多に声を掛けられたことのない課長からいきなり呼ばれ、成美は驚いて飛び上がった。
「は、はいっ」
 どきまぎしながら課長席の前に立つ。
 分厚い眼鏡の底の作り物のように小さな目。尾崎はその目で成美を見つめ、そして言った。
「急な話で悪いが、実は、来月、政令指定都市道路管理瑕疵会議が行われる。政令市の持ち回りで、今年は灰谷市が主催と決っているものだ」
 そこで、尾崎は喉を鳴らすようにして痰を切った。
「道路局の道路管理課が担当課として準備に当たっている。毎年、主催都市の法務担当課からアドバイザーとして一名参加することになっている。で    日高さん、今年は、君に出席してもらおうと思っている」
「………は」
「柏原補佐にお願いしていたのだが、彼女はいくつも訴訟を抱えているし、藤家局長からも色々やっかいな仕事を頼まれている。どうもスケジュール的に無理そうなのでね。大丈夫かね」
 なんと言っていいか判らなかった。とはいえ、はい、と頷く以外に、どんな答えがあるのだろう。
     私が、そんな大きな会議に?
     この行政管理課を代表して……?
「心配しなくても、議題は事前に決っている。詳しいことは、道路管理課の氷室さんに聞きなさい」
     え。
 ドキン、と胸が高鳴っていた。
 氷室さん、に。
「今回の会議は、氷室さんが中心になって準備しているからね。まぁ、いずれは本省に帰って、えらくなる人なんだから、くれぐれも粗相のないように」
 
 
 



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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。