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 定時間際、机の上を片付けていた時、成美はようやく、デスクシートの間にはさみ込まれている付箋に気がついた。
     これ……。
 几帳面な柏原の字で、「昭和62年横浜市道路管理瑕疵事件の公判資料、4部コピー」と記されている。
 気づかなかった。成美のデスクシートの間には、様々な付箋がたくさん挟みこまれている。明日の予定、来週の予定、成美は大抵メモを記してシートに挟んでおくからだ。
     このこと、だったんだ……。
 この場合、口頭で伝えなかった柏原に落ち度があるという見方もできる。逆の立場だったらメモ紙だけで指示を残すやり方は許されないからだ。
 けれど、柏原は多忙な上司であり、成美は彼女に助けられるだけの無能な部下だった。
 しばらく逡巡した後、成美は末席から立ち上がり、柏原暁凛の課長補佐席に歩み寄った。
 今日は課長が休みのせいか、補佐席には代理決裁が山のように積まれている。そのひとつひとつに視線を落としながら、柏原暁凛は時折疲れたようにこめかみを押さえていた。
「あの……補佐」
「なに」
 目も上げずに声だけが返ってくる。
 いつも彼女が身に付けている白いディオールのシャツに黒のパンツ。男性と違うのはネクタイがないことくらいで    けれど、その飾り気のないシンプルな姿は、美貌の上司にぴったりと似合っていた。
「今日はすみませんでした。ふ、付箋……気がつかなくて、ご迷惑をおかけしました」
 緊張しながらも、成美はなんとか謝罪の言葉を口にした。
 決裁欄に判を押している柏原は、やはり顔をあげないままで言った。
「あのね、日高さん」
「は、はい」
「今の仕事、自分には向いていないと思っているでしょう」
「……いえ、あの……」
 ドキンとした。
 その通りだったからだ。
 同期の女子職員は、大半が秘書や庶務担当、もしくは区役所の窓口業務に回されている。成美の若さや実績のなさで、こんな    市の中枢とも言える仕事をするのは、そもそも無理なのだと    それは成美自身が痛感していることでもあった。
 法規係に相談に来る他局の職員は、成美の姿を見ると、大抵「大丈夫なのか、こんな子で」という顔になる。そして、いつも成美を素通りして柏原補佐に話を持っていく。それを受けた補佐も、成美を通すことなく相手に返答する。
 市の顧問弁護士と協議していても、気がつけば成美は蚊帳の外に置かれている。柏原補佐と共に弁護士事務所に行って、自分にだけコーヒーが出されなかったことなど何度もある。
 柏原補佐の鞄持ち    それが、他人から見た自分の評価そのものなのだ。いつしか成美はそう思うようになっていた。
「まだ……経験もないし、……少し、荷が重いというのは、ありますけど」
 柏原が黙っているので、成美は途切れ途切れにそう言った。何か言わないと、席に戻れないような威圧感があった。
「もう少し……経験を重ねてから、こういう所に来てみたかった、です」
 そこまで言ったところで、不意に柏原が煩げに手を振った。もういい、とでも言うかのような態度だった。
「自分でそう思うのなら、私に言うことは何もない。今回の道路課の事件は間違いなく訴訟になるけど、あなたはもう、何もしなくていいから」
 立ったまま、成美は凍りついていた。
 最後通告のような    上司の言葉。
 成美の背後では、訴訟係の係長、宮迫一が聞き耳を立てている。宮迫だけではない、行政管理課の二つ係、訴訟係、法規係、その全員が、静まりかえってこの会話に耳をそばだてている。
 もともと口を開くのがはばかられるくらいの静かな職場だったが、今日ほどこの静けさが恨めしかったことはない。
「し、……失礼します」
 懸命に冷静を装っても、手足がどうしようもなく震えていた。
「柏原さんが、ああも怒るなんて珍しいよな」
「ま、新人に指示したことを忘れられたら、そりゃ誰だってカチンとくるでしょ」
 同寮の囁きが、なお鋭く胸に刺さる。
「補佐も忙しいんだからさ。自分の仕事くらい自分でできるようになれよ」
 とどめのように筆頭主査の雪村という男性職員に冷たく言われ、成美は取り繕った笑顔で頷きながら、自分が暗い奈落の底に落ちて行くような気持ちになっていた。
     私が忘れたんじゃない。補佐が、メモしか残さなかったから……。
     補佐に任せきりにしてるんじゃない。あの人が、私の仕事を全部取っているから……。
     私だって、補佐みたいに頭がよくて、本省から来たっていう実績があれば……。
 抑えても抑えても、頭に溢れかえるマイナスの感情。
 たった五歳しか年が違わない同性上司への、無意味な対抗意識と劣等感。
 定時のチャイムが鳴ると、成美は「食事に行ってきます」と、笑顔で言い置いて席を立った。
 エレベーターではなく階段を使って上がり、いつの間にか駆け足になっていた。
 人気のない十四階の会議室専用フロアに辿り着くと、脇目も振らずにエレベーターホール脇の女子トイレに駆け込む。
 半日抑えていた感情は、階段の途中から既に壊れかけていた。
 両手で顔を覆い、歯を食いしばるようにして、成美はトイレの壁に背を預けた。
 糸が切れた激情は、あとからあとから溢れ出て、もう、出しきるしか止める術はなかった。
     馬鹿みたい、いい年して、子供みたいに泣くなんて。
     こんな情けない姿、絶対に補佐にだけは見られたくない。
 この四ヶ月、成美はいつもこの場所で泣いていた。
 悲しいのではない、たまらなく悔しくて    あまりにも完璧な上司の存在が悔しくて、何も出来ない自分が悔しくて。
 いつも    ここで、気持ちが休まるまで泣き続けていた。
 
 
                  3
 
 
     鼻……痛い……。
 どのくらいたったろう。
 廊下の電気だけが、暗いトイレの中にいる成美の所にまでほんのりと届いている。
 座りっばなしの膝はしびれ、すでに腰の感覚はなくなっていた。
     最長記録……。
 ここまで長くトイレに居座ってしまったのは初めてだ。
 激情がやんでも、今日だけはどうしても階下に降りる気にはなれず、成美は鼻をかみ、時折思い出したように流れる涙を拭いながら、いつまでもトイレの隅にしゃがみこんでいた。
     やめようかな。
 そんなことを考えながら天井を見上げ    すぐに、そんな情けない真似はできない、と思い直す。
 収入のことを考えても、一人で自立して生きて行くことを考えても、今、役所を、しかも逃げるためだけに辞めることなんて考えられない。
 結局はどこにも逃げ場がない。    そう思うと、再び瞳の奥が潤みだす。
 ぼんやりと空を見つめたまま、成美は、掌をそっと自分の頬に当ててみた。
     あったかい……。
 特段の取り得もない、平凡を絵に描いたような自分だが、ひとつだけ、人と変わっていることがあった。
 多分、基礎体温が他人と比べて高めなのだろう。友達も昔の彼も、成美の手に触れると必ず少し驚いてこう言うのだ。
    君の手は温かいね)
 いつだったか、もう忘れてしまったけれど、遠い記憶の彼方で、誰かに言われたことがある。
(大切にしなさい。それは人の心を幸せにする手だから)
 が、その手は、今は自分一人さえ幸せにしてくれない。
 それでも、ようやくトイレを出ても大丈夫だろうという気持ちになって、成美は鼻をすすりながら立ち上がっていた。
 扉を開けて外に出て、照明のスイッチを入れる。    と、目の前の鏡に、いきなり自分の顔が映し出された。
    !」
 自分の顔ながら、成美はぎょっとして後ずさっていた。
 剥げて滲んだアイメイク。目の周りがどす黒くなっている。
 思えば、ここまで泣いたのも初めてだし、こんなにひどい顔を見たのも初めてだった。直そうにも、化粧も何もかも、まだ執務室横の更衣室に残したままになっている。
 腕時計を見る    午後八時少し前。この時間なら、もう誰も残ってはいないだろう。
 行政管理課は、議会前になると徹夜続きも当たり前なほどに忙しくなるが、今の時期はさほどでもなく、六時前には、ほとんどの職員が帰宅する。
 基本、一人で仕事を抱えこんでいる法規係の職員は、他人に干渉することが余りなく、成美が席を空けていようとどこに行こうと、気にされることはないはずだった。
 目周りのマスカラだけを簡単に拭って、成美は薄暗い廊下に足を踏み出した。
 この時間、誰も使っていないはずの会議室専用フロアである。照明は警備用に最低限しかついておらず、トイレを出てすぐの場所にあるエレベーターホールにも    いつもなら、誰もいるはずはなかった。
     えっ?
 成美は、驚いて立ちすくんでいた。
 薄暗い照明の下、長身の人影が所在なげにエレベーターを待っている。彼の前にあるエレベーターが、階下から序々に上昇して来るのがランプで判る。
 成美の気配に気がついたのか、その影がゆっくりと振り返った。
「……ああ、君ですか」
 低音の、穏やかで優しい声。
 一瞬不思議そうに見開かれた目は、すぐに柔和なものになった。
「驚いたな。どうしました、こんな時間に」
 驚いたな、と言いながら、その声は落ち着き払っている。
 息が止まるほど驚いたのは、むしろ成美の方だった。
「……あ、あの、ちょっと」
 男は道路管理課長の氷室天だった。
 すらりとした長身に、薄い縁無し眼鏡。シャツにネクタイだけを締め、上着は着ていない。そのせいか、綺麗に締まった腰のラインがいつに増してはっきりと判る。
「……お仕事ですか?」
「え、はい、はい、そうです」
 成美は、トイレの傍の壁に張り付いたまま、慌てて頷いた。
 近づけば、泣いていたことがばれてしまう。いや、それ以前に、こんなみっともない顔を、この人に見られたくない。
 チン、という音がして、停止したエレベーターが静かに開いた。
 エレベーター内部の照明が、一瞬眩しく男の姿を照らし出す。
「降りられますか?」
 先に乗り込んだ氷室が、優しい声で成美を誘う。成美は、即座に首を振って断った。
「あの、私、上に行くんで、はい」
「上……?」
 最上階には、食堂と休憩室しかない。
「あ、あの……休憩室で本借りて帰るんです。だから、……失礼します、お疲れ様でした!」
 成美は、大慌てで頭を下げた。
 訝しそうな目をしたものの、男もすぐに目礼を返し、ようやくエレベーターの扉が閉まる。
 階下に異動していくランプを見ながら、成美はほっと胸を撫で下ろしていた。
 氷室課長    もし泣いていたことが、今の男に知られてしまえば、万が一にも柏原補佐の耳に入る恐れがある。
 あの、男よりさっぱりとした合理的な女性は、そんな女々しい部下の正体を知ったら、ますます呆れてしまうだろう。
    あなたはもう、何もしなくていいから)
     明日から……どうすれば、いいのかな。
 柏原補佐の言葉を思い出し、再び憂鬱なものを感じた成美は、ぼんやりとエレベーターのボタンを押した。
 泣くだけ泣いてすっきりしたものの、それでも、補佐の横顔を思い出すだけで、気持ちのどこかが、ぎゅっと収縮してしまっている。
 もう何もしなくていいと言われた。とはいえ、何もしなくていいはずはない。言葉どおり何もしなければ、本当に課に居場所はなくなってしまう。
 でも、一体何をすればいいんだろう。
 補佐を介さなければ、何一つ仕事が回って来ない今の状況で   
 先ほど下に降りたエレベーターが、同じ速度で上昇してくる。
 扉が開いて、眩しい光が視界を遮った。
「……あ…」
 成美は息を引いていた。
 一瞬、幻覚を見ているのではないか、と思った。
 中で腕を組み、少し困ったような顔で立っていたのは下に降りたはずの氷室だった。
「この時間、エレベーターは一台しか動かないんですよ」
「………」
「たった一階上に上がるのに、エレベーターを使いますか? これは下行きのようですが」
「………」
 成美が動けないでいると、すっと歩み寄って来た氷室に、そのまま腕を捕まれていた。
「乗りなさい、みっともない。泣くだけが、あなたの解決方法ですか」
 さっと、頬が熱くなった。
 思わず足がすくんだ所を引き寄せられ、パンプスが扉の隙間に引っかかる。
 バランスが崩れた身体を、氷室は静かに支えてくれた。
「す、……すみません」
 恥ずかしさと情けなさで、涙が再び出てきそうだった。
 エレベーターの中で、成美は氷室から逃げるように、ぎりぎり端で身をちぢこめた。
     最悪だ。
 何もかもばれていたどころか、変な意地を張ったことまで見抜かれていた。
 どうしよう。もし、今夜のことが柏原補佐に知られてしまったら   
「家は、どの方角ですか」
 閉まったエレベーターの中で、しばらく無言だった男はそう言った。
「家、ですか」
     なんで……?
 ここで沈黙ほど気づまりなものはない。
 うつむきながら、成美は仕方なく、自分の住む賃貸マンションの場所を言った。
 エレベーターが、8階で止まる。
 ボタンを押して、成美に出るように促しながら、氷室は穏やかな声で言った。
「南玄関で待っていなさい。同じ方角ですから、車で送りましょう」
「えっ、あの」
「5分で下に行きます。じゃあ」
 それだけ言ってエレベーターを降りると、形良い背中は、道路管理課のあるスペースに消えていく。
「え……え?」
 意味がすぐに飲み込めず、茫然としていたのは一瞬で    すぐに成美は、5分というタイムリミットに驚愕した。
 冗談じゃない。
 こんな    こんな顔で、氷室課長に送ってもらうなんて。
 迷う間もなければ、躊躇う間さえなかった。成美は大慌てで荷物を残したままの執務室に飛び込んだ。




 






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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。