1


     緊張するなぁ。
 書類をめくる指が、何度も同じ箇所でひっかかる。
「日高さん……?」
 隣に座る上司が、訝しく名前を呼んだ。
 柏原暁凛(かしわばらあかり)    日高成美が配属された、総務局行政管理課法規係の係長で、課長補佐も兼ねている美貌の女上司である。
「すみません、すぐ」
 成美はドキドキしながら、作業に集中しようと試みた。けれど、気持ちばかりが逸り、やはり分厚い資料の、同じ箇所で指を滑らせてしまう。
「す、すみませ……」
「日高さん、会議で使う所には、事前に付箋をつけておくように」
 上司の声に、わずかな苛立ちが滲んでいる。
 普段寡黙な柏原補佐に、叱責や小言を言われたことは一度もないが、灰谷市役所で一番目立つこの眉目秀麗な女性は、今日は朝からいつになく機嫌が悪いようだった。
「すみません」
 そんなことしか言えない自分が情けなく、成美は頬を赤くした。
 灰谷市役所    市役所と言えども、都心に程近い、人口百万を誇る政令指定都市である。市内の中心部に十五階建ての都会的な庁舎を有し、市内に八つの区役所を有する。
 成美が配属された本庁舎は不夜城と呼ばれ、市内屈指のオフィス街にあって、深夜残業の明かりが耐えないことで知られていた。
 就職難の時勢も手伝ってか、近年、政令市の行政職に採用される者は、ほとんどが国立大学か有名私立大学出身の者と決まっている。
 成美もそこそこ名の知れた大学を出ているが    それでも、まさか自分が、採用早々に市役所のエリート集団が集まる総務局行政管理課に配属されるとは、夢にも思っていなかった。
「いい、私がやる」
 取り付くしまがないほど美しい女上司は、そう言って、成美が手にしていた幅十五センチもあろうかと思われる令規類集を取上げた。
 柏原暁凛    そのエリートたちの中で、実質トップに立つ女。
 まだ二十七歳という若さで課長補佐職についているのには理由がある。彼女は昨年度、本省    霞ヶ関の総務省から派遣された国家一種採用のキャリア組なのである。
 成美も市役所に入って初めて知ったのだが、国家行政    いわゆる霞ヶ関と地方行政との間では、こうした人事交流は頻繁に行われているらしい。
 キャリア組を市役所の重要なポジションに配置させることによって、本省は地方行政を影から掌握し、そして地方は本省のキャリアを受け入れることによって、本省とのパイプを厚くし、地方交付税や補助金を得やすい環境を作っているのである。
 通常課長補佐職につく平均年齢は四十五から五十という灰谷市役所で、二十七歳という若さで    しかも女性で、それをこなしている柏原暁凛は、役所に数人いる「霞ヶ関組」の中でも、ことさら目立つ存在だった。
「すみません……」
 成美は同じ言葉を繰り返し、そんな言葉しか思いつかない自分と、今ここにいる所在なさにますます頬を赤くした。
 本庁舎8階南側に位置する行政管理課執務室。その奥にパーティションで仕切られた会議用のスペースがあり、四人掛けの応接セットに、今、柏原補佐と成美、そして道路局道路管理課の課長と担当職員、その四人で、道路管理瑕疵事故に関する会議を始めたばかりだった。
「氷室課長、過去の判例をあたってみたのですが、どうもこの件は、うちに分がないようですね。市の監督責任を否定するのは難しいと思います」
 柏原補佐はいつもの    淡々とした抑揚のない口調で説明を始める。美人だが人形のようで魅力がない、そんな陰口を叩かれているその通りの、感情の欠片も見せない冷たい横顔。
     私……なんのために、ここにいるのかなぁ……。
 成美はそっとため息をついた。
 行政管理課法規係。市が関係する法律全般についての、運用窓口となる係。
 市は、財政、環境、交通、生活、福祉など様々な分野にわたり、市民と密接な関連を持つ仕事を有している。そして、それら全ては、法律、条例、規則により法制化されているのである。
 法律は行政の基本であり指針である。行政管理課は、条例制定、改変、法律相談、訴訟の一切を管理する    まさに役所のブレインとも言える課であった。
 日高成美が、この灰谷市役所行政管理課に新規採用で配属されてから、四ヶ月が過ぎていた。彼女の担当は道路局    つまり、道路局関係で起きた法律絡みの事務のサポートと法規作成だが、実質この四ヶ月、成美に代わって全てを対応してきたのが、直属の上司である柏原暁凛だった。
「柏原補佐、ただ、僕の方も色々調べてみたのですが、これを見てもらえますか」
 そう言って、資料を配りだしたのは、道路局道路管理課の主事、沢村烈士だった。
 元々スポーツでもしていたのか、見上げるほど高い身長と威圧的な体格を有している。視線が鋭く、どこか野性的な目鼻立ちで、綺麗な顔なのに大抵の女子職員から敬遠されているのは彼の雰囲気が持つ恐さのせいだろう。
「千早建設は、うちに無断で下請け業者に受注していますからね。こういう場合の判例は少し微妙だと思うんですよ」
「もっと詳しい情報がないと、何とも言えないな」
 男のような口調で柏原補佐が呟きを返す。
 大抵の職員は、彼女の威圧的な雰囲気に気圧されて舞い上がってしまうのだが、沢村という男は見かけどおり強心なのか、なんでもない顔で頷いた。
「それじゃあ、僕の方で把握している経緯を説明しますよ。つまりですね」
 沢村の    掠れ気味のハスキーな声が、朗々と事件の経緯を説明している。
 成美も何度も聞いている。市が発注した道路工事、夜間通行止めの標識がなんらかの原因によって外れ、そこに侵入した車が陥没に落下、車両が損傷し、運転者が怪我をしたという事件である。
 市が受注した業者が下請けに受注し    それがさらに、下請けに無断で再受注するという複雑さに加え、被害車両の運転者が飲酒していたという要素も絡まる事例であった。
 成美はその事例の経緯書を何度も読んだし、当事者の答弁調書や陳情なども記憶するまで読み込んでいる。過去の判例を徹夜で調べ上げ、裁判の判決要旨も繰り返し読んだ。    そして、市には行政責任はないと判断した。けれど、
「どの程度、市に責任があるかというのは、過去の判例で一律に括れない、もっと細かい事情を道路管理課から聞いてみなさい」
 切り捨てるように柏原補佐に言われ、再度道路管理課と協議を持つことが決ったのは昨日のことだった。
     私なんて、……柏原補佐からみたら、半人前ですらないんだろうな。
 成美の存在など無視したように、次々と話をすすめていく上司を見ながら、成美はぼんやりと空を見つめた。
    いいじゃない、どうせ成美はプールなんだから。適当に笑って美味しいコーヒーでも淹れてりゃいいのよ)
 同期入庁で、総務局長秘書をやっている長瀬可南子の言葉が、鈍い痛みとなって蘇る。
     どうせ、プールか……。
「日高さん」
 はっと、上司の声で我に返った。
「あ、……は、はい」
「昨日言った資料を出して」
「え……」
 どきん、とした。何だろう。昨日    昨日って。
「昭和六十二年の横浜市で起きた道路管理瑕疵事件の公判資料、……コピーしておくように言っておいたわよね」
「……………」
 成美は黙った。記憶に    ない。本当に。
 昨日は、この件で再協議することになったと聞かされただけで    それ以上のことは。
 いたたまれないような沈黙の後、美貌の上司は疲れたようにため息をついた。
「もういい、あなたは席に戻っていなさい。いつまで新人気分でいるつもりなのかは知らないが、やる気がないならここにいても仕方がない!」
 初めて聞く、柏原補佐の叱責だった。
 しん    と空気が凍りつく。
 成美は、立つことも目を逸らすことも出来ず、こみあげる動揺に耐えていた。
 叱られたことより、憧れていた人に呆れられたことの方がたまらないショックだった。
 誰も何も言わない。柏原補佐の横顔は動かない。まるで    無言で成美の退席を待っているようだ。
 どうすればいいんだろう   
 恐ろしい沈黙の中、成美は、自分の膝が細かく震えだすのを感じた。
 このまま立ち上がって、言われたように席にもどるべきなのだろうか。それとも……。
「その事件の公判記録なら、僕もコピーを持っているよ」
 穏やかな声が、張詰めた空気を遮った。
     え……。
 成美は、強張った首をおずおずと動かした。
「柏原君、話を続けよう。横浜の公判のことなら、僕も記憶しています。確かにうちの事例と似た事件でしたが、僕の観点から言うと、あまり参考になりそうもない」
 そう続けてくれたのは、道路管理課長の氷室天(ひむろたかし)だった。低音の、穏やかで優しい声。
 成美は思わず、はす向かいに座る氷室の顔を見上げていた。
 成美と視線が合うと、男は薄い縁なし眼鏡の下の目をわずかに細め、微かに口許を緩ませる。
 それはまるで、落ち着きなさい    と言っているかのように思えた。
     あ……。
 沸騰していた湯が急速に冷めていくように    成美はようやく、自分を取り戻していくのを感じた。
 そして、即座に立ち上がっていた。
「す、すみません。その資料ならすぐにご用意できます。最高裁で補足として付け加えられた反対意見が参考になると思いますので、すぐコピーしてきます」
 急いできびすを返し、上司の返事も待たずにパーティションを出て、自席に戻った。
 心臓がドキドキしていた。
 道路管理課長の氷室天。
 今年三十二歳になる男は、課長職としては異例の若さである。    それもそのはず、氷室天も柏原補佐と同じく「霞ヶ関」組だからだ。
 国土交通省からの派遣。柏原と同じく一種採用のキャリアである。
 185センチの長身に、バランスの取れた長い手足。きりっとした怜悧な眼差しに、女性のように繊細で、形良い目鼻立ち。いつも品のよいスーツを着こなし、磨きこまれた靴を履いている。
 本庁勤務の女性の大半が    憧れている男。
 物静かで滅多に口を開かないが、喋り口は穏やかで優しい。そして、どんな目下の者にも丁寧な言葉使いを崩さない。
「コピー、手伝おうか」
 執務室の机で資料を取り出していると、不意に背後から声を掛けられた。
 振り返ると、先ほどまで協議机で一緒だった、沢村烈士が立っている。
 こうして近くに立たれると、正直後ずさりしたくなるほど、迫力がある。肩幅も広く、胸板も厚そうで、加えて目つきが鋭いから、相当な威圧感があるのだ。まだ若そうに見えるが、彼の実年齢までは成美も知らない。
「い、いいです。すぐに終りますから」
 成美は慌てて、資料が入ったフォルダを胸元に引き寄せた。
「さっきの、君を助けたんだと思う? それとも、柏原補佐を助けたのかな」
「え……?」
 沢村は、厚い唇に不思議な笑みを浮かべたまま、じっと成美を見下ろしていた。
「氷室課長、横浜の資料なんて持ってないよ。頭のいい人だから、どこかで目にして記憶くらいはしてるのかもしれないけど」
「…………」
「おたくの課長補佐、今日は随分ぴりぴりしてるみたいだね」
「………別に……」
 成美が言いよどむと、沢村は不意に相好を崩して肩をすくめた。
「ま、氷室課長と柏原補佐は、霞ヶ関では恋人同士だったって噂もあるし、やっぱり、さっきのは補佐を庇ったんだろうな。あのままだと、補佐も引っ込みがつかなくなりそうだったから」
    失礼します」
 成美は彼の脇をすり抜け、そそくさとコピールームに向かった。
 沢村が口にした噂なら、成美も耳にしたことがある。共に霞ヶ関出身、派遣された時期が一年違いで、若くて目立つ美貌の持ち主ゆえに囁かれた根拠のない噂だろうが    。それでも、そこそこショックを受けた記憶があった。
 氷室天。
 他の女子職員同様、成美もひそかに憧れを抱いていた。彼の年齢や経歴などをよく記憶しているのはそのせいだ。
 でも、同期の長瀬可南子の言葉で、ある時期から、もしかして嫌な人なのかも……と、微妙な感情を抱くようになっていた。
    彼ね、誠実そうに見えるけど、意外と女癖が悪いそうよ)
    前の奥さんとも、浮気が原因で離婚したんですって。人ってわからないものね)
 最初に憧れていただけに、その言葉は衝撃だった。
 以来    成美は、氷室天を見ると、嫌悪とも憧憬ともつかない、不思議な感情を抱くようになっていたのである。



 






 >next  >back  >top
Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。