20
 
 
 懇親会が終わり、一人、エレベーターに乗り込みながら、成美は改めて兼崎の言葉を思い出していた。
    柏原さんは、実質左遷ですからね。市役所での待遇もおのずと違っているでしょう)
 確かにその通りだった。
 氷室には慇懃な態度を崩さない尾崎課長は、何故か柏原には冷淡だった。
 自分のミスを平然と柏原に押し付けたことさえあった。
     私……馬鹿だった。
 ずっと柏原補佐が妬ましかった。自分にないものを全部持っていて、運がいい人なんだ、と思っていた。    彼女が必死に努力して得たものだということさえ気づかずに。
 そしてそれは、氷室にしても同じなのではなかったのか。
 初めて車で送ってもらった時、確かに彼は、冗談まじりにこう言ったのだ。
    部下より若いというハンデを負ってますからね。黙っているにこしたことはない)
    こっちが黙ると、相手が慌てて言葉を繋げてくれるんです。だから、僕の方はボロがでなくてすみます)
 氷室は    おそらく市の課長級の中では一番若い。生え抜きの職員なら係長にさえなれない、32歳という若さなのだ。
 氷室にしても、柏原にしても、住み慣れた東京を一人後にして、誰一人味方のいない職場で必死に戦ってきた。
     私は……
 そんなことさえ、判ろうとしなかった。
 自分にとって不利なことには目をつむり、言い訳になりそうなことだけを頑迷に信じ込んできた。
     もう一度、氷室さんと向き合ってみよう。
 もう一度……彼の過去から目を逸らさずに、もう手遅れかもしれないけど、本当の彼を探してみよう。

 20階の6号室。それが兼崎が宿泊している部屋だった。
 静まり返った廊下に立ち、少しためらってから、成美は扉をノックした。
 帰るつもりだったが、意を決して引き戻してきた。
 とはいえ、もう、時刻は8時を大きく回っている。
     本当に、おられるのかしら……?
 懇親会の参加者は、道路管理課の職員に連れられて、二次会の席に行ってしまったはずだった。主賓の兼崎も、当然それに招かれているはずである。
 からかわれただけかもしれない。
 もう一度ノックして、それでも返事がなければ踵を返そうとした時だった。
「やぁ、来ましたか」
 声と共に、軽快に扉が開いた。
 出てきた男は気さくな笑みを浮かべると、両手を広げて、成美に中に入るように促した。
「もう来られないかと思って、ネクタイを外してしまいました。少し待っていたいただけますか」
「あ、じゃあ、ここで」
 そう言おうとしたが、すんなりと肩を押され、後ろで扉が閉められる。
 少し不安になったが、扉の前に立つ成美を残したまま、兼崎は背を向け、クローゼットのある方まで歩いていった。
 普通のビジネスホテルとは違う    広めの、高級感が漂う室内。
 大きなベッドが中央にあり、その上に、男が脱いだらしいスーツの上着が投げられている。
「で、どちらの話が聞きたいですか。柏原さんと、氷室の」
 楽しげな声が、クローゼットの影から響く。
 なんと答えて言いか判らずに、成美は躊躇いながらうつむいた。
「あの……ごめんさない。実は、お断りにあがったんです。私、門限が厳しくて、もう帰らないといけないので」
「ほう」
 楽しそうな声だけが返される。 
「それで……誤解のないように言っておきますが、私、別に氷室課長と、何かあるわけじゃないんです」
「ええ? まさか、その言い訳をするためだけに寄られたわけじゃないんでしょう?」
 笑うような声だった。成美はぐっと詰まっている。その通りだったから   
「なんだか兼崎さんが誤解を持たれたような気がして。おかしな噂をたてられたら、私にも迷惑ですから」
 成美はきっばりと言っていた。
「じゃ、失礼します。今夜はありがとうございました」
「柏原さんは、総務省でも異例の出世でね。有名な人でしたよ。頭がきれる上に、あれだけの美人ですから、上からは相当可愛がられていたようで」
 成美は足を止めていた。
 振り返ると、兼崎はベッド脇でネクタイを締めている。
「それが    何をとち狂ったか、飲みの席で上司を拳骨で殴ったらしい。それで出世コースからアウトですよ。おそらく、二度と戻されることはないでしょう」
「殴った、ですか」
 成美は耳を疑いながら訊き返した。
「ええ、パーじゃないですよ。グーでやっちゃったみたいです」
 楽しそうに兼崎は答える。
 まさか……。
 成美は、ぽかんと口を開けていた。
 あの冷静沈着で、滅多に感情を表に出さない    あの柏原補佐が?
「噂ですからね、僕も詳しいことまでは知りません。なんでも高卒の彼氏のことを、飲みの席で侮辱されたとかなんとか」
     え……。
「あの、……今、なんて」
 言葉の意味がすぐに頭に入ってこなかった。
「すみません、そこの上着をとってもらえますか」
「え、あ、はい」
 慌てて、ベッドの傍まで歩み寄って、上着を手にする。
     高卒の、彼氏。
 確かにそう聞こえた。
 あの    柏原補佐に、……彼が、いた……?
 振り返ろうとした途端、いきなり被さってきた重みに押され、成美は尻もちをついていた。背後はベッドで、驚いた時には上から男の影に覆われている。
「な   
 一瞬、何が起きたのか判らなかった。
「何するんですかっ」
 判った時には、覆い被さる男は、すでに薄く笑っている。
「本当に馬鹿みたいに無防備な人ですね。それとも期待してここまで来たのかな」
「や……やめて、ください」
 ようやく成美は追い詰められた自分を理解した。
 見下ろす兼崎の顔に、先ほどまでの紳士的な穏やかさはない。初見で感じた遊び慣れた男    その印象だけが、今の兼崎の全てになっている。
「氷室が好きですか、さっきからそんな顔をしている」
「いやっ」
 馬乗りになられた重みで息が詰まる。
 苦しさに顔を背けた途端、慣れた手で上着のボタンが外された。
 恐怖にかられ、成美は全身の力で抗った。けれど、男の手は容赦なくブラウスをボタンごと剥ぎとっていく。
 乳房を下着ごと乱暴にねじられ、恐さと    気が遠くなるような絶望で、成美は身体が硬直するのを感じた。
「氷室の奥さんはね、結婚前から妊娠してたんだろうってもっぱらの噂でしたよ」
 怯える成美を、獲物を追い詰めた獣のような目で見下ろしながら、男は楽しそうに続けた。
「生まれた子供が本当に氷室の子だったのか、    陳腐な話ですが、そんなことで揉めたんでしょうね。半年もたたずに別居して、あとはずっと彼女は親元で過ごしていたんじゃないですかね。当時の氷室は気の毒なくらい憔悴していましたが」
 男の手の生ぬるさが我慢できずに、成美は悲鳴のような声を上げた。
「どうぞ、お好きなだけ声を上げてください。間違っても誰も尋ねてはきませんから」
 成美の抵抗を、男は楽しそうに押さえこむ。
「氷室は、彼女に心底惚れ抜いていましたから、それはショックだったんでしょう。何年も別居して、いいかげん離婚に応じてやればいいのに、未練たらしい男ですよ」
 冷水を    背筋に流されたような気持ちだった。
 一瞬忘我した成美は、その刹那、抵抗することさえ忘れていた。
 その変化を察したのか、身体を拘束している男の力が少し弱まり、そのまま腕が腰に回される。
 頭上で、耳障りな電子音が鳴ったのはその時だった。
 ベッド脇のテーブルの上で、携帯電話が震えている。
 成美の下着に手を掛けていた兼崎は、しつこく鳴る着信音に、ちっと舌打ちして半身を起こした。
 成美も同時に、ようやく我に返っていた。
 その    目の前にある、男のみぞおちあたりに、もうそこがどこだか、考える余裕さえなかったのだが、思い切り肩をぶつけて、押しのけた。
 呻いた男が、一瞬ひるんで、身をのけぞらす。
 その間隙にベッドから飛び降り、成美は逃げるように扉に走った。
「おいっ、待て!」
 すぐ背後に追ってくる男の気配。肩を掴まれた刹那、扉を開けて、外に足を踏み出していた。扉を挟んで膠着する。成美も必死だったが、兼崎の目も血走っていた。
「馬鹿か、お前は、そんな格好でどこへ行く気だ」
「離してくださいっ」
 男の力は想像以上に強かった。
「きゃ    っっ」
 切羽詰まった成美は大きな声を張り上げた。ここなら、声はどこにだって響く。騒げば、困るのは間違いなくこの男だ。
「……くそっ」
 案の定腕を離した男が、いまいましげに扉に手をかけた時だった。
    日高さん!」
 背後で    夢のような声がした。
 成美は振り返った。狭い通路の向こう、エレベーターホールから駆けてくる人影があった。
     氷室さん?
 彼は、携帯電話を片手に持っていた。次の瞬間、室内から聞こえていた着信音が切れた。
 嘘、どうして   
 舌打ちをした兼崎が扉を閉めるのと、息をきらした氷室に腕を掴まれたのが同時だった。
 
 
 
 
 
 
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。