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19
「日高さん、悪いけど受け付け手伝ってくれないかな」
「は、はい」
沢村烈士にそう言われ、ロビー隅のソファに腰掛けていた成美は、大慌てで立ち上がった。
南区海岸町にある埋め立て地、そこを造成して作られたリゾート型のアミューズメントシティ。
政令指定都市道路管理瑕疵担当者会議は、そこに建てられた国際観光型ホテル<GENESIS・灰谷>の会議室を借りて行われることになっていた。
会議場のある二階のロビーは、灰谷市役所の道路管理課と総務課の職員、そして全国から集まってきた各都市の担当者たちで溢れ返っている。
沢村の後を追うようにして、受付台の傍に歩み寄ると、そこは、さながら戦場のような忙しさだった。人手不足なのか、局長秘書の御崎菖蒲(あやめ)が一人で記帳から集金までをこなしている。
次期市長候補ナンバー1と呼ばれる美貌の女性である。柔らかそうな髪は耳元で短く切りそろえられ、黒目勝ちの大きな眼と、口角が上向いた唇が特長的な美人である。
「手伝い、つれてきたから」
沢村が横から声を掛けると、御崎は笑顔で顔をあげ、ちらっと横目で成美を見た。
成美は思わずドキッとしていた。
目礼は交わしても、直接話をしたことはない。成美から見れば、御崎菖蒲もまた、雲の上の存在で 憧れのような人だったから。
それに。
今は、屈託なく御崎菖蒲の顔を見ることができない。
この人は 氷室さんと。
( 彼女ね、今年の春まで氷室課長と付き合ってたらしいよ。なんでも秘書室でレイプまがいにやられちゃったのが始まりで、でも結局は二ヶ月くらいで捨てられたって)
理不尽な嫉妬。それは判っている。それでも想像しただけで、胸が切り裂かれてしまいそうだった。
彼女の唇に、氷室はどんなキスをしたのだろう。どんな声で、何を囁いたのだろう 。
「沢村さん、何考えてるの」
けれど御崎は、凛とした視線を沢村に戻すと、驚くほど厳しい口調で言った。
丁度受付前の、人の流れが絶えた時だった。
「日高さんは行政管理課の人でしょう。私たちはホストで、彼女はゲスト。こちらからお願いして来ていただいているのよ。あなたは、日高さんが柏原補佐でも同じことを頼んでいた?」
沢村の大きな背中が、一瞬むっとしたように押し黙るのが判る。
「他の人を探してきて。それから、日高さんを控え室にご案内して。あなたはお茶でも出しなさい」
その時、受付前に新しい顔が現れる。
御崎は別人のような優しい笑顔になると、「こちらにご記帳お願いします」と柔らかな口調で言った。
「お疲れ様でした」
午後四時。
長かった会議がようやく終わる。
成美が会議室から外に出ると、人がごったがえすロビーで、にこやかに笑んでくれたのは御崎菖蒲だった。
彼女は会議室の扉の外に立ち、会議の出席者一人一人にあいさつをしているようだった。
室内から最後に出たのは成美で、そのせいか、御崎の笑顔もどこか砕けて、いっそう親しみやすいものになっている。
「すごい、びっくりしたわ、日高さん。会議の様子は聞こえてきたけれど、他の政令市の人たちも驚いていたわよ。あなたの見事な受け答えには」
肩を優しく叩かれる。
成美は驚いて、呆然と顔を上げていた。
正直、疲労困憊していた。緊張に次ぐ緊張で、手のひらも額も汗だらけだった。
何をどう受け答えしたものか ただ、必死に、柏原補佐の作った答弁をもとに頭に叩き込んだ判例を引用して それでなんとか乗り切った、という感じだ。
御崎は、そのまま室内に入り、机の上に散乱している書類をてきぱきと片付け始める。
成美も慌てて、それに習った。
「柏原補佐が目を掛けておられるだけあるのね。正直妬ましかった。私たち秘書の仕事なんて、所詮媚びうって可愛がられてなんぼ、みたいなところがあるから」
成美は、手を止めていた。
妬ましい?
柏原補佐に、眼を掛けられている ?
「氷室課長もずっと今日のことを気に掛けておられたようだけど、ふふ、あの人に見せてあげたかったわ。今日の日高さん。日高さんを推薦したのは、氷室課長と柏原補佐なんですってね」
え………。
御崎の言った言葉の意味が、成美には判らなかった。
「あら、聞いてないの? 柏原補佐が氷室課長に相談をもち掛けて、課長が直々に行政管理課の尾崎課長に話をしたらしいわよ。尾崎さんは昔から女性に重要な仕事を回さないって評判の人だから、柏原さんも、随分苦労されているみたいだけど」
「…………」
成美はただ、呆然としていた。
柏原補佐の 完璧な美貌も、冷たい眼も、いまは、どこか儚げに思い出される。
数日前、通路で寂しげに自分を見下ろした女上司の眼差しと言葉。
( あなたにはもっと多くのことを勉強する機会も時間も必要で、この会議はいい経験になると思う、私が言いたいのはそれだけだから)
「氷室課長も、柏原補佐も、本当に立派で素敵な人たちだから。あなたは今、彼らの下にいるチャンスを無駄にしちゃだめよ」
御崎は最後にそう言って、晴れやかに笑うと、そのまま会議室を出て行った。
20
私 今まで、何を見てきたんだろう。
用意された酒席につきながら、成美はぼんやりと泡の消えたビールのコップを見つめていた。
午後7時 ホテル<Genesis・灰谷>の16階に設けられた会場で、今日の会議の出席者を囲む懇親会が行われていた。
成美の席は、道路局長や、来賓として参加した国土交通省の補佐らと並ぶ上席だった。
ひっきりなしにビールを注ぎに来られ、そして、自分も気忙しく注いで回った。
「いいのよ、あなたはそんなことしなくても。行政管理課の課長代理として、どーんと座ってなさい」
と、御崎に笑顔で言われ、ようやく落ち着いて箸を持ったものの、食欲はまるで湧いてこなかった。むしろ、緊張の余波で胃がきりきりと痛むほどだ。
私……とんでもない誤解をしてたんだな。
氷室課長のことを語る時の御崎の表情で、成美には判った。
彼女に、氷室に対する遺恨や憤りは微塵もない。あるのは純粋な尊敬と もしかすると、恋なのだろうか。そんな風にさえ思えるような、強い好意。
少なくとも、氷室にレイプされて捨てられたなどとは、どう邪推しても考えられない。
そもそも、何故そんな酷い噂が出回ったのか 冷静になってみれば最初から判っていたはずなのに、やはり成美は、自分の目が恋でくらんでいたと、自覚する他なかった。
理由は、嫉妬と羨望だ。
御崎菖蒲にしても、柏原暁凛にしても<自分>というものをちゃんと持っている。そして、それは彼女たちの美貌や学歴で得たものではない。
絶間ない向上心と、おそれずに飛び込んだ経験と、おそらくは血の滲むような努力で掴んだ。
他の 彼女たちが持っているものを持つことの出来ない女性からみれば、羨ましくて妬ましくてどうしようもない存在なのだ。
「どうぞ、もう一杯、飲まれませんか」
声をかけられ、成美は驚いて顔を上げていた。
どこか氷室に似た口調に、思わず心臓が高鳴ったが、すぐに現実に立ち返る。
成美の前でビール瓶を傾けているのは、本省 霞ヶ関国土交通省から招かれてやってきた、兼崎有人という男だった。
この会議の一番の主賓で、さきほどから道路局長が上へも置かない接待ぶりを発揮していたのもこの男である。
年は、氷室と同じくらいだろうか。痩身で、浅黒く日焼けした肌と切れ長の眼を持っている。優しい顔立ちだが、それはどこか軽薄気で、偏見かもしれないが遊び慣れている感じがした。
ピンストライプのダークなスーツが、男の顔色をさらに暗くみせている。
それよりもなお濃い、闇のような髪色 ふと、成美は、自分が以前この男に会ったことがあるような不思議な感覚に囚われていた。
「どうしました?」
その男が、再度ビール瓶を差し向ける。成美は慌てて我に返っていた。
「あ、すみません。私、注ぎます」
「いいんです、僕は飲めませんので」
白い歯を見せた男は、やや強引に成美の前にビール瓶を突きだした。
正直、飲みたくはなかった。けれどここで断れるような相手ではない。
成美は自分のコップに残った温いビールを一口飲み干し、それを兼崎の前に差し出した。
「今、局長から聞きました、君は、氷室の秘蔵っ子だそうで」
「え……」
氷室さんの?
意味が判らず、成美が呆けたように黙っていると、男は苦い笑みを口許に浮かべた。
「僕は氷室とは同期でね。互いの結婚式でスピーチまでした仲なのですが、今日は残念でした。身内に不幸があったらしいですね」
あっと、成美は、ようやく男に感じた既視感の正体に気づいていた。
いつだったか、昼休憩に 休憩室で、氷室課長と立ち話をしていた男の人。霞ヶ関から訪ねてきた友人だと沢村が言った、あの人だ。
遠目から見たその男の髪は、妙なほど黒々としていて 。
「あの、もしかして、以前氷室課長を訪ねてこられた方ですか」
「ああ、聞いていましたか。それだったら話が早いな」
男は屈託のない笑顔になった。
「氷室の話をすると、たちまち君の目は輝くんですね。僕が氷室の友人なら、君とも親しくなれますか?」
「いえ、そんな……」
男の社交辞令をうつむしてやりすごしながら、成美は、あの時、妙に険しく見えた氷室の横顔を思い出していた。
本当に、氷室課長の友人……?
が、それよりもなお、この兼崎という男は、今気になることを言った。
結婚式で、互いにスピーチまでした仲。
それほど親しいのに、では、この人は知らないのだろうか。
その時結婚した彼の奥さんが、三日前に亡くなられたことを。
「……氷室課長の奥様って、どんな方だったんですか」
冷静を装いながら成美は訊いた。少し、声が上ずっていた。
兼崎はわずかに眉を上げる。
「そりゃあ、評判の美人でね。ミスなんとかにも選ばれたくらいの人で、当時はみんながうらやましがりましたけど」
そこで、男は、ふと何かを思い出すような目になった。
「ここに、柏原さんという女性がいるでしょう。氷室と同じ本省派遣の。僕も何度かお目にかかっていますが、ああいう感じの人ですよ。背が高くて、ちょっととりつくしまのないような美人」
「………」
胸に、暗い感情がよぎるのが判った。
あの日、食堂で見た あまりにもお似合いだった二人の姿。柏原の笑顔と、氷室の楽しそうな横顔。
「彼女も今日は、来られていないんですね……」
男の目が会場を一巡りする。そして、ふっと何かを含むような笑顔になった。
「問題さえ起こさなければ、氷室はいずれ、本省に戻って上に行ける男ですが、柏原さんは、実質左遷ですからね。市役所での待遇もおのずと違っているでしょう。優秀な女性なのに、気の毒に思いますよ」
え。
成美は驚いて顔を上げていた。
男は、くすり、と白い歯を見せて笑った。
「何か、二人に思い入れがあるようですね、あなたは」
「い、いえ、そんな」
慌てて否定する。でも、聞きたかった。氷室のことも、柏原のことも。
補佐が左遷 ? 何故だろう。本当だろうか、あの、誰よりも勤勉で優秀な人が……。
「君に、もう一度聞きますが」
「え……?」
成美が顔をあげると、兼崎の意味深な目が見下ろしていた。
「君は本当に、氷室とは何の関係もないんですか」
……?
なんだろう、その質問。
不快というよりは不気味になって、成美は眉を寄せている。そんな成美を安心させるように、兼崎は人好きのする笑顔になった。
「いきなり失礼な質問をしてしまったかな。すみません。僕はこれでも、氷室の親友のつもりなので、少しばかり心配になったんですよ」
「何が、でしょうか」
「ああいう奴ですから」
兼崎は、意味ありげに苦笑した。
「ここからの話はオフレコですよ。ずばり、奴は女関係のトラブルで本省から出されたんです。不倫が過ぎて、それが局内で問題になりましてね。頭を冷やさせるために少しばかり地方巡りをさせようと言う話になった」
そこで言葉を切った兼崎は、不思議に挑発的な目で成美を見下ろした。
「灰谷市でも、また不倫……という話になれば、大問題でしょう。それで余計な心配をしてしまったんですよ。君が奴の新しい恋の相手ではないかと」
成美は即座に「まさか」と笑ったが、自分でもそれと判るくらい、ぎこちない、下手な笑い方になっていた。
頭の中は、今聞いた話の衝撃で、無様なほど揺れていた。
それは、本当の話だろうか。不倫 ? やはり彼の本性は軽薄な人 ? いや、それよりも。
改めて成美は、柏原補佐の警告を思い返していた。
あれは 成美のためを思ってのことでもあり、同時に氷室の昇進を慮ったものだったのだ。そうでなければ、あの冷淡な人が、わざわざ部下の恋愛沙汰に干渉してくるはずがない。
「あの、私……」
「先日会った時」
楽しそうに、兼崎は続けた。
「氷室の雰囲気が、以前とは随分変わったように見えましたのでね。ま、僕の気にしすぎならいいんですよ」
成美は蒼白になっていた。どうしてこの人は、こうも私を意味深な目で見るのだろう。もしかして、氷室さんが私のことを、何か話しているのだろうか?
それとも私の態度が、この人に何かの誤解を与えた、とか。
だとしたら、今、きっぱりと否定しておかないと、大変なことになる。
が、兼崎は成美を遮るように、再びビール瓶を差し出した。
「氷室の結婚は、最初、誰もがうらやむ完璧なものでしたが、すぐにそれは同情に変わりました。何故だか判りますか」
え……?
周囲の喧騒が煩くて、男の声がよく聞き取れない。
男は浅黒く焼けた顔を、成美の耳元に近づけた。
「今夜、僕はこのホテルに一泊するのですが、あなたに予定はありますか」
「はい……?」
「ここじゃ煩くて落ち着いて話せない。続きは場所を変えて話しませんか? いやだな、そんな顔をしなくても。ラウンジで一杯つきあってもらうだけですよ。八時に、僕の部屋を尋ねていらっしゃい」
「兼崎補佐、おビールが駄目でいらっしゃるなら、何か別のお飲み物をお持ちしましょうか」
御崎菖蒲の爽やかな声が割り込んできて、男との会話はそこまでとなった。
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