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明け方、まどろみの中で目覚めたら、寄り添っている人はすでに目を覚まし、最初の夜と同じ目で明凛を見下ろしていた。
最初の夜――灰谷市で、初めて結ばれたあの夜と同じように。
「……起きてたの?」
「……あんま眠れなくて」
苦笑した沢村の目が、以前と変わらない寂しさを潜めているように見えたので、明凛は忘れていた不安を再び思い出した。
そっと手を重ねると、緩く握り返される。
「少し早いけど――起きる?」
「ん? ……そうっすね」
どちらともなく唇を寄せ合い、キスはすぐに深くなった。沢村の身体が上になり、吐く息が荒くなる。
ホテル添えつけの薄い寝間着の紐が解かれ、素肌に暖かな手が触れた。
「や……沢村さん……」
「明凛……」
何度も愛された余韻が生々しく残る身体は、すぐに沢村の熱を飲み込んだ。
「あ……、あ……」
突き動かされる振動で声は途切れ、明凛はそれを堪えようと唇に指をあてる。
やがて至福の時間は過ぎ去り、けだるい幸福の中、二人はただ黙って手を繋ぎ続けていた。
沢村がまだ、それでも迷っていることを明凛はどこかで知っていた。
最初の夜と、何もかも同じだ。
このかりそめの住処を出たら、明凛にも沢村にも厳しい現実が待っている。
「………俺」
天井を見上げたままの沢村が呟いたので、明凛は黙って彼の横顔を仰ぎ見た。
彼が言い出そうとしていることは、漠然と予想している。
この人は、また私から離れようとしているのだ。
少なくとも、今、この状況で、私の側にはいられないと思っている。
「一年、俺に時間をくれますか」
「一年……?」
訝しく問い返すと、沢村は微かに苦笑して、明凛をようやく見下ろした。
「今から勉強して、社会人枠でどっかの地方自治体の試験を受けます。特にやりたい仕事もないし、なんだかんだいって、公務員、俺の性にあってた気がするし……固い仕事につけって、姉ちゃんの遺言でもあるし」
「…………」
「一年で無理なら、その時は俺のこと、見切ってください。ただの、根性なしだったって」
明凛は少し考えてから、頷いた。
「わかった。そうするわ」
そして沢村が次の言葉を口にするより早く、言った。
「でもこれだけは約束して」
「何を、ですか」
「言っておくけど、これは私からの最低限の条件よ。絶対に断らないって約束して」
「…………」
「沢村さん」
「わかった。します」
沢村が諦めたように宣言したので、明凛は小さく息を吐いた。
「その一年、あなたは私のところで働きなさい」
「え……働くって」
呆気にとられたように目を見開く沢村を、明凛は厳しい目で見据えた。
「主夫になりなさいって言ってるの。試験勉強の間、他の仕事なんてできないし、してる場合でもないでしょ。あなたがどれだけ頭がいいか知らないけど、昨今の公務員試験はそんなに甘いものじゃないのよ」
「いや、それは判ってますけど」
「判ってるなら、私の言うとおりにしなさい。それとも私と別れたくてそんなこと言いだしたの」
「な、そんなわけあるはずないでしょ!」
「だったら!」
互いに跳ね起き、二人はしばらく睨み合っていた。
「バイト探して、一人でなんとかやっていきます。悪いけど、あんたの世話にだけはなりたくない」
「だから私が世話するんじゃないの。あなたが私の世話をするのよ」
「俺に、あんたのヒモになれっていうんですか!」
沢村が声を荒げる。
「それをヒモっていうならね」
明凛もまた、珍しく感情的になっていた。判っている。これが最後の正念場なのだ。彼を、永遠に失うか否かの。
「結婚した人と生計を共にすることの、それのどこがヒモだっていうの。いっとくけど私、子供ができたら仕事を辞めて、沢村さんの扶養に入るつもりよ。それは私が、沢村さんのヒモになるってことなの」
「いや……え? 結婚って……え?」
「自分でそういったんじゃない。昨日、店で、雅美さんに」
言葉に窮した沢村が、何か言いたげに口を開く。
たたみかけるように明凛は続けた。
「それでこんなことになって、今になって嘘だと言う気? あなたはそこまで卑怯で情けない男だったの?」
「………いや」
沢村は困惑したように額に手を当てて、首を振った。
「話が、まるで咬み合ってないっていうか。俺、最初に一年の猶予くれって」
「あげるわよ。そして就職できなかったら見切るわよ。でもそれは、完全に縁を切るって意味じゃない。他の道を一緒に探そうっていう意味よ」
言いかけた言葉を飲み込んだ沢村が、驚いたように明凛を見る。
「いい。私たちはもう他人じゃない。身内なの、家族なの。家族だったら支えあうのは当たり前でしょう? 今は沢村さんが私を頼るしかなくても、それがいつ逆転するか判らない。その時沢村さんは、私を突き放したりする? 絶対にできないでしょう?」
「……………」
「籍なんかいれなくても、そういうのが、家族だって私は思う。だってもう、沢村さんのいない人生なんて……」
不意に感情が昂ぶり、明凛は語尾を震わせていた。
私には、考えられないから――
涙が溢れる前に、抱き寄せられる。明凛は彼の肩に濡れた瞼を押し当てた。
「本当に、俺なんかでいいんですか」
「逆よ。沢村さんじゃないと駄目なの、私」
「あんたのこと、好きでいても、いいんですか」
「ずっと……死ぬまで、好きでいて」
言葉もないままに抱きしめられながら、明凛はようやく安堵して彼の背中に両腕を回した。
自分は今日、人生最大の戦いに勝ったのだ。
今にも切れそうだった糸を、知力と気力の全てを振り絞って繋ぎ止めた。
そうしてやっと、愛する人を手にいれた。
思うに、人生とは常に己との戦いの連続なのかもしれない――これから先も、生きていく限り、ずっと。
――でも、もう私たちは一人じゃない。
それが孤独な人生に、神が与えた唯一無二の奇蹟なら。
私は今夜、奇蹟を手に入れたのだと明凛は思った。
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/やがて、夜明けの暁闇が緩やかに室内の闇を剥いでいく。初めて安らいだ寝息をたてる人を、明凛は深い愛情をこめて見下ろした。
子供ができたら退職するなんて、口に出すまで考えたことすらなかったのに、今は、そういう人生も悪くないかな、と思いかけている。
もう一度、ピアノを習ってみよう。
そうして彼のために、今度こそ完璧なリストを弾くのだ。
二人で小さな家を借りて、子供はできれば三人は欲しい。
余裕ができたらピアノを買って、子供たちにピアノを教える。あまり裕福ではないかもしれないけど、それはどれだけ――幸福な未来だろうか。
微笑んだ明凛は、眠る人の頬に唇を当て、そして自分も彼の肩に頭を預けて目を閉じた。
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/ 終
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