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 明け方の三時。
 呼び込みも客も途絶えたガラクタみたいな街を、沢村は明凛の手を引いて歩いていた。
 街をふらふらしているのは、終電に乗り遅れた酔っぱらいか、仕事帰りのホステスくらいだ。
「私たちって、なんに見えるかしら」
 不意に明凛が言ったので、沢村はまだどこか途方にくれた気持のままで、ぶっきらぼうに「さぁ」と答えた。
 どうしてこんなことになって、これから一体どうしたらいいのか、正直、さっぱり判らない。
 今日この先、どこに行っていいかさえ判らないまま、ただ意味もなく夜明けの町を歩き続けている。
 自分から沢村を連れ出したくせに、どこに行こうとも言わない明凛に、沢村は軽い苛立ちと皮肉をこめて言った。
「あんたの格好が格好だし、せいぜい、仕事帰りのホストとホステスってところじゃないですか」
「そうね。こんな格好だものね」
 明凛が楽しそうに答えたので、沢村は少しむっとした。
 そこ、どちらかと言えば、怒っていいところなんですけど。
「あのですね」
「私、この春から、東京に異動になったの」
 遮るように明凛が言った。
 沢村は黙って、視線を少し遠くに向ける。
 ――知っている。
 つい先月、都内に住む親戚から連絡があった。明凛から渡されたという名刺の勤務先にも驚いたが、それ以上に、明凛が自分を探しまわっていること自体に驚愕した。
 その時沢村は、運送業の仕事をしていたが、連絡のあったその日に辞めて、社員寮も引き払った。行くあてもなく昔住んでいた町をふらふら歩いていたら、雅美に偶然再会したのだ。
「休みの間は、ずっと沢村さんを探したわ。色んなところを尋ねて回ったけど、誰もあなたの居場所を知らなかった。本当に、誰にも何も言わずに灰谷市から消えたのね」
「………大明拓哉、新聞で、逮捕されたって知りましたけど」
 苛立ちを堪え、沢村は言った。
「俺、色々あって大明につけ狙われていたんです。あの時奴のいいなりに仲間になってれば、俺も逮捕されてたのかもしれない」
「そうならなくて、本当によかったわ」
 明凛の言葉に、沢村は皮肉に笑んで肩をすくめた。
「悪いけど、俺、消えたんじゃなくて自分可愛さに逃げたんです。あんたは脅しに屈しない人だし、藤崎さんが側にいるし。紫凛はどうやら警察に護られてるみたいだったから。――藤崎さん、警察関係者の身内なんでしょ」
 明凛は黙って聞いている。
「ひとまず大明が逮捕されたって聞いてほっとしましたけど、罪状見る限り、どうせすぐに出てきますよ。下手すりゃ執行猶予がつくかもしれない。――そうなったら、俺が一番ヤバイでしょ。なにしろ、奴を半殺しにしてバックレたんだから」
「………私のせいで」
「そういうんじゃなくて。――てか、もうそこはどうでもよくて。とにかく俺は、この先、陽の目を見るような生き方はできないんですよ。頼むからほっといてもらえますか。あんたが側にいると、目立つんですよ、悪い意味で」
「…………」
「もうこれ以上、俺の人生を目茶苦茶にしないでもらいたいんです。東京に出てきてからも、あんたのせいで、二回正社員の口を棒に振りましたよ。あんたマジで疫病神でしょ。こっちは、本気で迷惑してるんですよ」
「…………」
 しばらく黙っていた明凛は、前を見たまま、ひどく静かな表情で言った。
「詳細は言えないけど、大明さんのことなら、もう心配しなくてもいいと思う」
「……は? 意味、わかんないんすけど」
「どういう罪になるか見当もつかないけど、当面……大明さんが表舞台に出てくることはないと思うから」
 沢村は眉を寄せて、明凛を見下ろす。
「わかんねぇな。……たかだか薬でしょ。奴の家は金持ちで、いい弁護士がついてるし」
「今は微罪でも、いずれそうならないって意味」
「…………」
「もうすぐ判るわ――多分だけど、もうすぐね」
 どういう意味だよ。
 明凛は顔をあげ、少し淋しげに微笑んだ。
「私がこの時期灰谷市を出られたのは、もしかしたら、藤家局長の、本当に大きな思いやりだったのかもしれない」
「…………」
「今言えるのはそれだけ。でも大道さんのことは、これ以上心配する必要はないと思う。灰谷市に戻りたければ、戻っても大丈夫よ」
 どう答えていいか分からないまま、沢村は顔をそむけて歩き出した。
 だからって、あんたが俺を追いかけてくる理由にはならない。
 だって、あんたには――あんたの隣にいるべきなのは。
「どうして藤崎さんについて、アメリカに行かなかったんですか」
「だって、行く必要がなかったから」
 絞りだすように訊いた質問にあっさりと即答され、は? と、沢村は脚をとめた。
「な、ないことはないでしょ」
「ないものはないんだけど、……他にどう言えばいいのかしら」
 …………は?
「あのですね。マジで意味判んねぇんすけど、藤崎さん、俺と最後に会った時に、今度こそあんたとやり直すって」
「というより、アメリカには紫凛がついていったんだけど」
 その言葉に、沢村は息を呑んでいた。
 ――え……。
「紫凛は今、幸せよ。もちろん色々あったから、簡単には埋まらないものはあるだろうけど」
 眉を寄せて黙る沢村を、明凛は静かに微笑して見上げた。
「本当は沢村さん、紫凛の気持ちを判っていたんでしょう? 紫凛が誰を想って苦しんでいたか、私や直斗には判らなくても、沢村さんだけは知っていたんでしょう?」
「…………」
「沢村さんが紫凛の側にいてもなんの解決にもならない、それが判っていたから、私だけじゃなく紫凛の前からも姿を消したんでしょう?」
「…………」
「……この数年、沢村さんは、紫凛が一番苦しんでる時に、ずっと側にいてくれたんだものね。何もかも承知の上で側にいてくれた沢村さんに、今は、紫凛も感謝していると思う。……ありがとう」
「や……、なに、勝手に買いかぶって」
 動揺を隠せない沢村を、黙って見つめてから明凛は言った。
「私と紫凛、少しずつだけど、長い間の溝を埋めようとしているの。二人で色んなことを話したし、本当の気持ちも打ち明けあった。沢村さんと紫凛のことも……もう、全部、紫凛の口から聞いているのよ」
 聞いた? 聞いたって、それは――
 それは――
「いや、でも、それでもおかしいでしょ」
 視線を彷徨わせなから、懸命に沢村は言った。 
「だったらなおさら、なんだって、あんたが今さら、俺を探したりするんですか。俺が紫凛に何したのか、本当に全部聞いたんですか」
「聞いた。紫凛を助けてくれてありがとう」
「いや、そんなことを言ってるんじゃなくて」
 そうじゃない、そうじゃなくて――沢村はもどかしく自分の唇を噛み締めた。
「二年前、俺はあんたと藤崎さんの密会写真をとって――挙句、紫凛とぐるになって、あんたを苦しめたんですよ。そのことはどうなんですか」
「……紫凛が妊娠したっていう嘘のこと?」
 少し眉を寄せて言う明凛から、沢村は目をそらしながら頷いた。
「そうです。もう知っていると思うけど、紫凛はあの時妊娠なんてしてなかった。紫凛のために言い訳するなら、俺と紫凛の間には、最初の、一度しか関係がなかったから。――でもその嘘で、あんたと藤崎さん、別れたんじゃないですか!」
 長い後悔の全てを絞りだすように、沢村は言った。
「藤崎さんは、俺の存在に気づいてたから、妊娠を真っ向から否定することもできずに、黙ってあんたと別れたんだ。いってみれば二年前、あんたは俺のせいで幸福になりそこねたんじゃないですか」
「……どういう論法を使えば、それが沢村さんのせいになるのか理解に苦しむけれど」
 少し不思議そうに、明凛は首をかしげて続けた。
「別れたって二度も言われたけど、そもそも直斗は既婚者で、私とはその時点でつきあってもなかったし。仮に紫凛が嘘をつかなかったとしても、復縁する可能性は――どう贔屓目に考えてもなかったと思うけど」
「…………」
「他に何か、気になることがある?」
 いや…………。
 敵わない。
 到底理屈では、この女に敵わない。
 二の句が告げないまま途方にくれて、沢村は天を仰いで息を吐いた。
「……それでも俺、やっぱりあの人に、すごく酷いことしたと思うんですけど」
「……紫凛のこと?」
 視線を逸らしたまま、沢村は小さく頷いた。
「あの人にだけじゃない。あんたにだって……。最初の頃、俺があんたを誘惑しようとしてたのは気づいてたでしょ。俺、紫凛と組んで、面白半分にあんたを傷つけようとしてたんです。色んな理由があったにせよ、……結局は俺、紫凛の味方でいようって決めてたから」
 そんな俺が。
 間違っても、あんたと一緒になれるわけがない。
 そんな結末が、許されるわけがない。
「……最近になってだけど、紫凛がこんなこと言ってたかな」
 微かに笑って、明凛は言った。
「烈士は、お姉ちゃんに警告送ってたんだと思うって。烈士はああみえて女には冷淡で、狙った相手にガツガツいくことなんて絶対ないのに、自分を危険だって思わせるために、わざとそうしてたんじゃないかって」
「……………」
「最初から烈士には裏切られてたんだって、そこはちょっと怒ってたけど」
「……………」
「その頃から、私のこと好きだった?」
 眉を寄せたままうつむいていた沢村は、その言葉で噴き出しそうになっていた。
「は――は?」
「本当はいつから好きだった?」
 ちょ、ちょっと待てよ。
 沢村は耳が熱くなるのを感じながら、明凛から後ずさった。
「今は、そういう話してんじゃないでしょ。あんたが間違ったことをしてるっていう」
「いつから? 私の名前をメイリンだって勘違いしてた頃から?」
「……………え」
「勘違いじゃなかったら、その時沢村さん、――高校生の頃だけど、気を失っていた私の手を握ってなかった? ずっと不思議だったの。他の人は駄目でも、沢村さんの手はどうしてこんなに安心できるんだろうって。実は私にもおぼろげな記憶があって、私の手を誰かがずっと」
 遮るように大きな声をあげ、沢村は明凛を抱きしめていた。
「あんた、マジでストーカーですか」
 どうしてそんな大昔の話を、いつに間に調べあげたのか。
 小さく頷いた明凛が、そっと沢村の背中に手を回す。
「自分でも、その素質はあると思った」
「しんみりと認めないでください。てか、なんでその相手がよりにもよって俺なんですか」
 もう、俺には何もない。
 もともとあんたを好きになる資格は何ひとつもっていなかったけど、そこよりもっと最低の場所まで堕ちてしまった。
 それはもう、これ以上ないほど酷い言葉で判らせたと思ったのに。
「とっくに判ってると思ってたけど、あんたは錯覚してるだけなんです」
 自分の声が、わずかに震えた。
「初めての男が、よりにもよって俺みたいなろくでなしで。あんたは真面目だから、その一回の過ちが恋だって、そう錯覚してるだけなんですよ」
「沢村さんは?」
 ――俺?
「沢村さんも、錯覚だった? 私のことを、本当は好きじゃなかった?」
「いや、だから今は、俺じゃなくてあんたの話を」
「目黒川の桜の木……まだ咲いてなかったけど、その畔を、何度も何度も歩いたわ」
「…………」
「色々訪ね歩いたけど、最後はあの場所で沢村さんに会えるような気がした。あなたが私に打ち明けてくれた、それが唯一の、過去の記憶だったから」
 沢村は目を閉じた。
 やっと判った。あんたがあの店をつきとめた理由が。
「偶然ですよ。たまたまその近辺に、会社の寮があったから」
「そうかもしれない。何もかも偶然で錯覚で、全部は私のひとりよがりだったのかもしれない。最初から最後まで、今日までのことは全部……」
 声がそこで途切れたので、沢村は思わず抱いている女の顔を見ようとした。が、明凛は沢村の肩に頑なに額を押し当てたまま、顔をあげようとはしなかった。
「もう、何も言わないし聞かないから、……これだけは教えて」
「なんですか」
「私を、待っていた?」
「…………」
「心のどこかで――底の方で構わないから……私が来るのを、待っていた?」
 数秒の間の後、呟くように沢村は言った。
「馬鹿じゃないっすか。待つわけないでしょ」
 待つくらいだったら、そもそもなんのためにこの人の前から消えたのか判らない。
 なんのために――生涯会わないような、最低の消え方をしたのか。
 それが、なんの意味もなくなるじゃないか。
 なんの意味も………。
「待ってましたよ」
 歯を食いしばるようにして、沢村は言った。
「待つ気なんかなくても、本当は待っていましたよ。毎晩毎晩、あんたの夢を見るんです。いい加減忘れたいのに――本気で消えて欲しいのに!」
 目が覚めれば無意識に隣を見て、そして全てが過去の夢だったと思い知らされる。
 一人きりの部屋の扉をあければ、そこに「おかえり」と言ってくれる人を探している。
 十の年に両親と死別して、その後自分を育ててくれた姉とも十四歳で死に別れた。以来ずっと一人きりで生きてきて――そんなこと――今まで一度もなかったのに。
「あんた、一体なんなんですか。あんたは俺の、何もかもを底から変えてしまったんだ。あんたなんかに会うんじゃなかった。あんたに関わるんじゃなかった。それは今、心の底から後悔してますよ」
 明凛が不意に顔をあげる。
 咄嗟に見下ろした沢村は、思わず目の錯覚かと思っていた。
 微かに笑んだ明凛の目から――一涙が一筋、こぼれたような気がしたからだ。
 それを確かめる間もなく、そっと唇が押し当てられた。
「もう、何も言わないで」
「…………」
「今、やっと見つけて、捕まえた。あなたじゃない。今度は私があなたを見つけたのよ……」


 
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。