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/ 「すごいよ、明凛さん。リストのため息っつったら難曲中の難曲じゃん? それをあんなに綺麗に弾くんなんて、本当にすごい。マジで俺、明凛さんに惚れちゃいそうだよ」
一時間後、明凛の傍には楓がつき、沢村は別の指名客についていた。
明凛に指名されたのは沢村だから、つまりナンバーワンホストの楓が、沢村のヘルプについた形になる。
オーナー雅美の指示とはいえ、それもまた、この店のシステムではあり得ない事態だった。
背後から聞こえてくる不愉快な会話を、沢村は意識的に遮断していた。
先ほどの演奏が、自分の心をいっそう頑なにしてしまったようだった。もう柏原明凛とは、二度と目を合わせたくないし、顔も見たくない。
明凛のテーブルには、手すきの若いホストたちもこぞって同席しており、先ほどから間断なく高級酒がオーダーされている。今夜の支払いだけで、昨日までの二日分の倍はいっているだろう。
その事実も、あえて沢村は意識の外においやった。
もう、どうなろうと知ったことか。
今夜を限りにこの店をやめ、また別の街で暮らすのだ。そして二度と、捨ててきた過去は振り返らない。
「なぁ、今夜泊りにいってもいい?」
沢村はそう言って、寄り添う女の肩を抱き寄せた。
今夜の客は五歳年上のホステスで通り名は玲奈(れいな)。この店で、沢村に初めてついた客である。
正直、顔立ちはいまいちだが、さっぱりした性格と姉御肌なところが気に入っていて、客の中では、一番気心がしれている。
玲奈はさも意外そうに、煙草の煙を吐き出した。
「いいけど、どういう風の吹き回し? 私とそういう関係になるのは嫌だって、前に烈士、言ってたじゃない」
「……言ったっけ」
「自分の姉ちゃん抱くみたいで嫌だって。ま、それ、指名客の全員に言ってるみたいだけど?」
一瞬窮した沢村は、玲奈の皮肉を咳払いでごまかした。まぁ、確かに自分はこの仕事に向いていないのかもしれない。
以前は、こんなことはなかった。感情の伴わないセックスの方が、むしろ気楽だとさえ思っていた。
一体自分はいつからこんな――面倒な、使えない男になったんだろう。
今も、どんな仕事をしても、心のどこかが満たされず、時折あの頃のことを夢にみる。
二重人格のいけすかない課長に心配性で口うるさい課長補佐。使えない上に空気が読めない新人。
やたら揉め事を起こすお節介な法規担当――
自分の感情を押しやるように、沢村はグラスの水割りを一気にあおり、隣の女の髪に指をからめた。
「まぁ、いいじゃん。男にはそういう日もあるんだよ。ちょっと人肌が恋しいっていうかさ」
「ふぅん。そりゃまた、随分珍しい日もあるもんね」
「ねぇねぇ、明凛さんは普段何してる人?」
再び楓の耳障りな猫なで声が、沢村の耳に飛び込んできた。
「仕事してる人だけど」
恐ろしく平然と答える明凛に、なぜだか胸をなでおろしている自分がいる。
てか、なんでいちいち馬鹿正直に、アンダーグラウンドな店で本名なんか名乗ってんだよ。あんた、マジで自分の立場とか判ってないのか。
「仕事してる人かぁ。じゃあ、仕事ってなんの?」
「内勤事務だけど」
「ちょ、烈士、髪、私の髪、引っ張ってるッ」
「あ、ああ、ごめん」
我に返って玲奈の髪から手を離した沢村を、玲奈は疑念のこもった目で見てから、新しい煙草を取り出した。
「ちょっと勘弁してよ。髪も大事な商売道具なんだから」
「悪い、ちょっとぼんやりして」
沢村は急いで胸ポケットからライターを出すと、玲奈の口元に持って行った。
と、そこで再び楓の甘ったるい声がする。
「独身だよね? じゃあ、随分儲かる内勤事務をやってんだ」
「……普通だと思うけど」
「嘘でしょ、普通でここまで豪勢に遊ぶ人はいないよ。ねぇ、明凛さんの仕事ってなんの仕事? あ、待って、言わないで。俺があててあげるから」
「烈士、火、火で指やけてるッ」
「え?」
玲奈の金切り声で、自分の指がライターの金具を押しっぱなしだったことに、沢村はようやく気がついた。
「――っわち」
「あんた馬鹿? 馬鹿でしょ? てか、さっきから心ここにあらずだけど、一体何考えてんのよ」
「んー、もしかして社長さん? あ、それとも社長秘書?」
玲奈に責められても、沢村の耳は、もう意識的に背後の会話を追っている。
「その顔は外れ、だよね。待って、まだ言わないで。俺が明凛さんの仕事を当てたいんだ。弁護士? それかキャビンアテンダント。どう?」
「ただの公務員だけど」
少し面倒そうに明凛が答える。
その瞬間、沢村は立ち上がっていた。
馬鹿、言うな。
「嘘だぁ、公務員? じゃあ都庁とか区役所とか?」
「区役所じゃなくて、総務省」
「すみません!」
言葉を遮るように明凛の前に立ちふさがると、沢村はその場で両手をついて土下座した。テーブルがひとつひっくり返ってグラスが飛び散り、ホール内が一瞬騒然とする。
「なんだよ。烈士、そりゃ一体、なんの真似だよ」
一転して水をうったような静けさの中、楓が元ヤンキーむき出しの不機嫌な声を出した。
「てめぇが逃げてっから、俺が仕方なくヘルプについてやってんだろうが。それが一体なんのつもりだ。てか明凛さんは、もう俺の客なんだよ」
「店、やめます」
絞りだすように、沢村は言った。
「その人を連れて出て行きます。すみません!」
負けだ。
結局どうあがいても、自分はこの女には勝てないのだ――
「店やめて、どうすんだ、烈士」
いつの間にか、背後に雅美が立っていた。
「当然、寮からも追い出すぞ。これから、どうやって生きてくつもりだ」
「……貯金が、少しあるんで、それでこの人の分の料金は、俺が全部払います」
は? と雅美は眉をハの字にさせた。
「返事になってねぇ。真面目に働くっつーから雇ったんだ。それが一ヶ月でもう辞めるってか? オイ、マジでふざけんなよ、烈士」
「別の仕事を探します」
「ざけんな。うちで務まらねぇような奴が、これからどこで働くってんだ」
「彼女が、堂々と名乗れるようなところで働きます!」
「結婚すんのか」
「します」
「するんだな」
「します!」
正直、全部が売り言葉に買い言葉だった。もう、明凛の素性を伏せたままここを出ていけるならなんでもいい。
何をしたって、この人の経歴にわずかな傷さえつけたくない。でないと一体なんのために、大勢の人に迷惑をかけて灰谷市役所を辞めたかわからない。
が――
いきなり拍手と歓声が巻き起こった。
「よく言った!」
「おめでとう、烈士」
「二人で末永く幸せにな!」
――……え?
唖然とする沢村に、ただ一人憮然としている楓が面白くなさそうな目を向ける。
「またこのパターンかよ。オーナーも侠気ありすぎっつーか。韓国ドラマの見すぎっつーか」
「まぁまぁ。迷い込んだ若者更生させんのが、オーナーの生きがいみたいなもんだから」
「こないだは息子連れ戻しに来た母親の猿芝居につきあわされたし、マジでいい迷惑なんですけど」
――え……?
「よかったじゃん。烈士」
呆然とする沢村の背を、玲奈が笑いながら叩いた。
「あんた若いし、頭もいいんだから。もうこんな水商売に流れちゃだめよ」
「だいたい向いてねぇんだよ。枕は出来ねぇし。惚れた女が店に来ただけで、昨日今日と、二人も常連怒らせやがってよ。そんだけでもう、クビだっつーの」
その隣で雅美が、首に手をあてる振りをする。
「今日のお代は今月の給料と引き換えだからな。こっちは大損だ。とっとと荷物まとめて出て行きな」
いや、それは――
出て行くのは、それはマジで出て行くんですけど。
「雅美さん、ありがとうございました」
コートを身につけた明凛が現れ、雅美に深々と頭を下げた。
やられた――
半ば確信していたが、その瞬間、沢村はめまいを起こしそうになっていた。
つまりこの三日間のことは、全部仕組まれた芝居だったのだ。
「いいっていいって。烈士はこう見えて、ちっちゃい頃から苦労してるんだ。こいつの死んだ姉ちゃんからも頼まれてるからよ。もともと適当なところで、まともな仕事につかせてやんなきゃって思ってたんだよ」
「後は、私がなんとかします」
「任せたよ。柏原さん。あんた霞ヶ関のおえらいさんなんだから、烈士の一人くらい余裕で食わせてやれるだろ」
もう、正体なんて、とっくの昔に明かしてるし。
ちょっと待てよ――ここは、俺、真面目に怒る場面じゃねぇのか?
「じゃあ、沢村さん」
なのにそう呼ばれて、すっと顎で行先を指示されただけで、沢村は慌てて明凛の後を追っていた。
「な?」
背後で雅美の声がした。
「だから言ったんだ。ああいう女は一度腹を括ると手強いぞって。お前の首にマジで鎖が見えてっぞ。烈士!」
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