第二章「鳥籠の扉を開けて」
     

         1

 叢が生い茂っている葛折りの隘路は、密生している野生の樹木のせいで、昼間でも夜のように薄暗い。
 逆に日差しが翳ってくると――暖かな夕陽が、足元を優しく照らし出してくれている。
 凛世は足をとめ、額に浮いた汗を手の甲で押さえた。涼やかな夕風が、熱をあっという間に奪っていく。
 少しだけ立ちくらみがしたのは、ここ数日、ずっと臥せっていたせいだろう。
 刑事たちの来訪があって十日余り、凛世が外に出るのは随分久しぶりになる。山に――クローバーの頂に登るのは、帰国して初めてだから、八年ぶりだ。
 夏はとうに終わりかけている。
 未練のように鳴く蜩の声も、今は、静かな秋の音色だ。
 生い茂る木々の間から下方、御堂屋敷の屋根が垣間見えた。
「……きれい」
 数年ぶりに見下ろす絶景に、凛世は思わず呟いていた。
 古びた建物の本当の造形美は、上空から見ると、よりはっきりと判る。
 三角屋根が万華鏡の欠片のように組み合わされた御堂本宅。
薔薇の扇の要として、塔のようにそびえ立つ悠木屋敷。
 眼を射るほど鮮やかな、真紅の薔薇のカーペット。
 暮れなずむ空、茜色に染められた薔薇園が、不意に、遠い記憶の何かを呼び覚まさした。
(凛世様、よく覚えておいてくださいませ。あれは……)
 一瞬明確に蘇った朋哉の声は、すぐに灰色の靄に覆い隠される。
 なんだったんだろう、凛世は眉を寄せて首を振った。
あと少しで、言葉の続きが思い出せそうな気がする。あれは……あれは。
 ふっと恐怖が足元を凍らせる。灰色の靄の向こうを覗こうとする度に、襲われる生理現象。
 曖昧な記憶に不安を募らせたまま、凛世は再び歩き始めた。
 草に覆われた悪路を抜けると、三叉路に出る。本当に山頂に続くのは右端の一本だけで、残る二路を行っても、袋小路が待っている。
 実際、山道は迷路だった。しかも、意図的に作られた野生の迷路。
 御堂山。
 正式名称は知らないが、この山は、昔から地元ではそう呼ばれている。
(元々山裾一帯は、御堂一族の領地でね。山には、御堂家の城があったのだそうだ)
 昔教えてくれた伯父の言葉が本当なら、こんな寂しい場所に住み続けてきた祖先の気持ちも、理解できるような気がした。
(凛世ちゃんのお家がある山って、人喰いの山って呼ばれてたんだって)
(遊びにいった女の人が、そのまま何人もいなくなっちゃったんだって……)
 人喰いの山。
 お化け屋敷。
 この類の噂話なら、いたるところで耳にしている。
 実際、暗く茂る山影は、不気味なほど陰鬱な雰囲気を醸し出している。
 あたかも迷い込んだ者を飲み込むが如くそびえ立つ山の――御堂家は、ほぼ中腹に建てられている。
 ――お母様は……。
 凛世は、薄く浮いた汗を、再度手の甲でぬぐって、見慣れた三叉路の正解路を進んだ。
 母もまた、この山で消えた。
 大雪の夜、自らの意思で迷路のような山に登り、頂で忽然と消息を絶った。
 頂でなんらかのトラブルに見舞われたか、または、山裾を流れる渓流に落ち、そのまま海に流されたか、いずれかであろうという推測のもとに、当時の捜査は打ち切られたという。
 けれど、いったい何故、わざわざ雪が降るような晩に、母が山の頂を目指したかという点については、誰一人として真実を語れるものはいない。
 くるぶしが夜露で濡れ始めた頃、ようやく、広々とした山の頂が視界に入ってきた。
 夕陽に照らし出された一面の碧。花粉とも埃ともつかない粉末が、きらきらと輝いて、クローバー畑の周辺に舞上がっている。
 懐かしさで胸が詰まった。
 昔と少しも変わらない、まるで夢の中の場所のような――幻想的な光景。
 密生したクローバー畑の中央では、沈む太陽を映した湖水が輝いている。湖面は風を受けてさらさらと流れ、薄桃色の光を乱反射させている。
 あたかも童話のシーンを、そのまま再現したかのような美しさだ。
 禁断の山、クローバー、湖、そして小さな庵。
 朋哉に聞いても、さぁ、と言って笑うばかりだったが、凛世は昔も今も確信している。
 いつ、誰が描いたものか判らない物語は、この場所をモデルにして描かれたに違いない。ここが、<怪物とお姫さま>の舞台になった場所なのだ。
「凛世様?」
 訝しむような声がしたのは、その時だった。

         2

 黄昏が、白皙の男を琥珀色に照らし出す。
 湖の畔、小さな庵の傍らで、朋哉は不思議そうに、というよりは咎めるような目で、立ちすくむ凛世を見つめていた。
 普段着なのか、白い長袖のシャツにジーンズ姿。
 風がシャツをはためかせ、細く締まった腰のラインをあらわにしている。腰位置が高く長い足、ひどく痩せているのに、芯の強い、柔軟な鋼を連想させるしなやかな身体。
 凛世に驚きはなかった。最初から、朋哉はここにいると信じて、登ってきたからだ。
 朋哉と――二人だけで会うために。
 男の手には、小さな籐籠がある。
 凛世は、ぎこちない第一声をようやく発した。
「……薬草を摘みに?」
「ええ」
 朋哉は頷き、足元の、月の雫にも似た白い花片を拾い上げた。
 乱立した幹に巻きつくようにして頭を垂らしているそれは、釣鐘の形をした可憐な花で、学名をツルニンジンと言う。
 今は野生そのもののように放逸に蔓を伸ばしているが、もとは朋哉が種をまき、育てた花だ。
 よく見ると、足元にも様々な花が咲き乱れている。つられるように屈みこみ、黄色い花に手を伸ばそうとした時だった。
「それは、毒草です」
「毒?」
 凛世はびっくりして手を引いた。
「薬にもなりますが、誤って口にすると毒にもなる、このあたりの野草にはお気をつけくださいませ」
「知らなかった、……昔から?」
「悠木の裏庭にあったものを、私がここへ移したのです」
 淡々と、朋哉は摘み取った花片を籠の中に移し続ける。
「毒を持つものは、使い方さえ間違わねば、よい薬になりますから」
 祖をたどれば忍びの家系だと言われる悠木家は、先祖伝承の秘儀なのか、代々薬草を煎じる処方に長けていた。
 昭和の世になり、薬事法が規制されてからは、薬を扱うことはなくなったというが、その名残なのか、朋哉は、薔薇や野草を煎じ、独特の茶や薬湯を作る技法を心得ている。今でも時々、伯父のために茶を煎じているらしい。
「お部屋を抜けてこられたのですか」
 振り返った朋哉の目に、淡い怒りの色が浮かんでいる。
「何故、ここへ来られました」
 ひやりとするほど、冷淡で厳しい声。
「すぐにお戻りなさいませ、お姿が見えないと判れば、屋敷の者がどれだけ心配するとお思いですか」
 彼の神聖な場所に足を踏み込んだからだろうか。それとも、一緒にいるところを誰かに見られたら困るからだろうか――。
 凛世は、潤み始めた目を伏せる。
 もう、昔の朋哉と自分ではない、判っていても、その現実と向き合うことが、時に辛くてたまらなくなる。
「朋哉と……話がしたくて」
「私と?」
 少し驚いたように眉が上がる。
「家では、迷惑になると思って……、でも、朋哉が困るのなら、帰るわ」
 眉を寄せたまま、朋哉が沈黙する。
「何を、お話になりたいのです」
 黙ったまま、凛世は力なく首を振った。怒った眼を見た途端、振り絞った勇気は萎えそうになっている。
「お体が心配だから、申しているのですよ」
 が、やや間を置いてかけられたその声は、少しだけ優しく聞こえた。
 凛世は、まぶしい光でも見るような緩さで顔を上げる。
「……悲しませるために、申し上げたわけではございません」
 怒ったような横顔を見せている朋哉は、蔓の間に咲く白花に視線を向けているようだった。

      3

 二人の距離は二メートルあまり、互いを隔てるクローバーが、ざわりと騒ぐ。
 人里離れた頂に、下界で意味を持つものがあるとすれば、ひとつだけ。ここには、朋哉の祖先、悠木家代々の墓があるのだ。
 物心つく前に事故死した父親より、小学校にあがってすぐに病死した母親の思い出のほうが、朋哉には、より鮮烈で、より恋しいものなのだろう。
 子供の頃、朋哉は、毎日のように湖の畔に来ては、まだ真新しい、母の墓の前に額づいていた。
 墓のほとりには、はっとするほど鮮やかな赤がある。
 ポインセチア。
 花の由来を、昔、朋哉に教えてもらったことがあった。西洋ではクリスマスに飾る花、冬に咲く薔薇の花だと。
 静かなモノクロの風景の中に浮かぶ、鮮明な焔の色。
まるで地の底に、一人の女が眠っていることを象徴しているようだ。
 凛世の母もまた、この場所で死んだ――。
「朋哉は、……私のお母様がいなくなった夜のことを、覚えている?」
 途切れそうな声で、凛世は離れて立つ人の横顔に訊いた。
 凛世にとってこの数日は、過去の扉を開く葛藤に悩み続けた日々だった。どうしても知りたい――どうしても朋哉の口から、母と櫻井厚志の真実が聞きたい。思いつめた気持ちが、自然に語尾を震わせている。
「それは、大変な騒ぎでしたから」
 わずかな沈黙の後、淡々とした声が返ってくる。
 凛世は、軽く息をつき、泡立つような気持ちを鎮めた。
「私は、よく知らないの。私がお母様のことを聞けば、伯父様もお父様も、悲しまれると思ったから、聞かなかった」
「お嬢様にはお話してはならないと、確かに私も言いつかりました」
「……今ならもう、教えてもらえる?」
 俯いた朋哉は、黙っている。
 しばらく、赤く濡れた花を見つめた後、そのままの姿勢で、凛世は口を開いた。
「朋哉は、どう思う?」
「どう、とは」
「お母様は、死ぬためにここへ来たのかしら。それとも、生きるためにここに来たのかしら」
「…………」
 ざわり、と風が鳴き、背後の虫の音が刹那に止んだ。
「私には、奥様のお気持ちまではわかりませんが」
 朋哉の口調は静かだった。
「もし、あの夜、奥様がお屋敷を出て行こうとするならば、この場所以外に行き道はなかったと思います」
「どうして?」
「麓への道は、南側正門からの舗装道と、頂から北側の崖づたいに降りる獣道しかございません。あの夜は色々な事情が重なって、正門からの道は塞がれていたのです」
 事情とは何だろう。
 凛世は眉を寄せたが、朋哉は視線を下げたままで話し続ける。
「警察が何度か捜索したおかげで、山頂には、随分楽に登れるようになりましたが、当時は今よりもっと複雑で、まるで罠のような恐ろしい悪路でございました。お屋敷の中で、頂への道を正確にご記憶だったのは、亡くなられた奥様と遼太郎様、そして私の母くらいだったはず」
 朋哉の片方しかない目が、当時の記憶をたどるように細くなる。
「当時、母はすでに他界し、遼太郎様は長患い中、山に入った奥様を追って行ける者は、誰もいなかったことになります」
「でも、どうして? そんな雪の夜に、お母様は、どうしてわざわざ家を出たりしたのかしら」
「それは、判りかねます」
「伯父様は、お父様と喧嘩して……と、言っていたように思うわ」
「判りかねます」
「朋哉は、どうだったの」
「どうとは」
「……朋哉なら、ここへは、目隠ししたって登れるじゃない」
 少しの間、考えるような沈黙があった。
「当事は私でも、目印がなければ、無理だったと存じます。雪道ともなると目印も利かず、とうてい、追いつくことはできなかったでしょう」
「櫻井厚志さんという方と……お母様はここで、落ち合う約束をしていたのかしら」
 覚悟を決めて凛世が問うと、形のいい朋哉の眉が、わずかに動いた。
「櫻井さんは、北側の崖伝いに、山頂までたどり着く道を知っていたと聞いたわ。母とその方は、ここから麓まで、二人で逃げるつもりだったのではないかしら」
 裏道から、山頂に至るルートを知っていたという櫻井厚志。
 櫻井厚志が悠木家の縁者なら、元来そのルートを知っていたという可能性もある。
「……それは、わかりかねますが」
 朋哉の口調が、翳る。
「私が聞いた話ですと、当夜、奥様とその方は、そのような約束などなさっていないということでした」
 凛世は無言で、再び墓に向き直る。
「会ったことはないの」
「どなたと、ですか」
「櫻井さんという方と」
「その当時は一度も。ただし、二年前の事件の後から、お会いするようになりました」
 朋哉が、右目を失った事件のことだ。
 屋敷に入った侵入者、狩谷はそれを、櫻井厚志だと決めつけている。
「……あれは、櫻井さんでは、なかったのね」
「私の目のことでしたら、違います」
 どこか曖昧だったそれまでに比べ、朋哉の否定はきっぱりしていた。
「絶対に、櫻井さんではありません」
 よどみない声に、凛世は少しだけほっとする。だとしたら、朋哉が櫻井という男に害を加える理由もまた、ないのではないだろうか。
 そう、朋哉は違う――絶対に、違う。
 強く、自分に言い聞かせる。
「あの狩谷っていう、刑事さん、また来たのね」
「そのようですね」
「櫻井さんが、お亡くなりになったのは、聞いた?」
「ええ」
「どうして狩谷さんは、朋哉を疑っているの」
「私が、櫻井氏の口座に、金銭を振り込んでいたからでしょう」
 なんでもないことのように言う朋哉を、凛世は思わず振り返っていた。
「……お金?」
「ええ、月に一度」
「どうして」
「彼が、私の一族のものだからです。そして、生活に、とても窮しているようでしたので」
「その人が、お母様の、恋人だったというのは、知っていたのよね」
「奥様がいなくなった折に、そのようなお話を警察の方からうかがいました」
「……どう思ったの」
「どうとは」
「本当だと思った?櫻井さんという男を、朋哉は屋敷の中で見たことがあった?」
「私はございません、が、母ならあるいはあったでしょう」
「じゃあ、朋哉が櫻井さんに会うのは、二年前が本当に初めてだったの」
「そうです」
「それで、お金の援助をしているのね」
「そうです」
「それは、誰が言い出した話なの」
 初めて、長い沈黙がかえってきた。
「私です」
 たった二年前に初めて会って?
 しかも、相手は、御堂の家をバラバラにした、ある意味憎むべき男なのに。
「朋哉……」
「はい」
「……本当のことを、話して」
「本当のこととは」
「金銭援助を言い出したのは」
 朋哉ではなく、
 お姉様なのではなくて?
 もしくは伯父の遼太郎。
 もしかしなくてもそれは、櫻井厚志が……私の本当の……。
「何がお聞きになりたいのですか」
「もういい……なんでもない」
 凛世は両手で耳を覆うようにして、頼りなく首を振った。
 怖い。
 覚悟は決めたつもりでも、一度、口に出して肯定されたら、もう自分が自分でなくなってしまうような気がする。
 朋哉との、最後のつながりまで、消えてしまいそうな気がする。
「ご安心なさいませ」
 優しい声。
 凛世の背後に、朋哉が歩み寄るのが判った。
 触れるほど近い体温。
「凛世様も、香澄様も、無関係な話でございます」
 鼓動が、暖かさを増していく。
「私一人の責任でやっておりますことゆえ、警察にも、凛世様がご存知のことを、すべてお話なさればよいのです」
 朋哉―――。
「大丈夫ですよ」
 振り返って、その腕に身を委ねたい。朋哉を抱きしめて、胸を叩いて、彼の底にひそめているもの全部を、知りたい。見せて欲しい。
 判っている。
 こんなに好き。
 今でも、好きでたまらない。
 苦しいほど、嫉妬で心がゆがんでしまいそうなほど、朋哉が好き。
 例え朋哉が、人殺しでも、それよりもっと残酷な罪を犯していたとしても、気持ちは揺るぎさえしないだろう。
 いったい、この恋心を封印するためには、どんな墓標を立てればいいのだろうか。
「戻りましょう、夜は冷える、お体に触ります」
 凛世は頷き、朋哉に隠れて涙を払う。悲しいくらい、弱くて臆病な自分が情けない。けれどここから先の扉を――私は、決して開くことができないだろう。
 全ては……姉の言うとおりだ。
 先を行く朋哉の背中が、傾斜道でふと、振り返った。
「足元にお気をつけくださいませ」
 風が吹き抜けたのはその時だった。
 わずかに目をすがめた朋哉は、ごく自然に片手をあげて、目元のあたりを影で覆う。
 まだ明るい夕暮の下、残酷なほどグロテクスな傷跡は、凛世の視界に、ありありと浮かびあがった。
 左瞼を斜め上からざっくりと切られている。
 おそらく鋭利な刃物で、瞼ごと、角膜まで切り裂かれたのだろう。
 なまじ、残された目が青水晶のごとく美しいだけに、傷は無残の一言だ。
 どうしてここまで、残酷な傷を負ってしまったのだろう。
 普段、長い前髪で隠された傷を見るたびに、凛世は、辛い胸の痛みと共に思う。
 どうして無残な傷跡を、朋哉はいつまでも、そのままにしておくのだろうと。
「何故、その目を……治さないの」
「必要がありませんので」
 少し不思議そうに瞬きをして、静かな声で、朋哉が答える。
「お姉さまが、そのままでいいと言われているの?」
 男は、少しだけ憂いを帯びた眉を開いた。
「私は、そんな傷を残した朋哉を見るのはいや、辛くて……、悲しくなる」
 表情を微塵も変えないまま、朋哉の目は、じっと凛世を見つめている。
「……朋哉」
 凛世は、不思議な感情の昂ぶりで、瞳が潤んでいくのを感じた。
 わかっている、これは、嫉妬だ。
 姉のために出来た傷、それが朋哉の顔に残されたままなのが、辛い。そんな浅ましい感情なのだ。
「いずれ、治しましょう」
 はっとして凛世は、半ば涙を浮かべた顔をあげる。
 目の前の人は、優しく、けれど慇懃に微笑した。
「凛世様のご結婚の折までには、必ず」
 凛世は、精一杯の微笑を浮かべ、溢れそうな瞳を伏せていた。
 朋哉が再び歩き出す。
 一度も凛世を振り返らない背中の冷たさが、ただひとつの救いのような気がした。








>top  >next >back