4
お姫さまがいなくなって、怪物は再び一人ぼっちになってしまいました。
寂しいな。
恋しいな。
日に日に、寂しさがつのってゆきます。
一人になった怪物は、いなくなったお姫さまに、会いたくて会いたくてたまりません。
お姫さまと出遭ったクローバー畑で、毎晩月を見上げては、怪物は片方の目から涙をこぼすのでした。
ご無事だろうか。
病は治ったのだろうか。
継母や義姉に、いじめられてはいないだろうか。
怪物の支えは、お姫さまが寝台の下の隠しておいてくれた、一枚の手紙でした。
これで、いつでも私に会いに来てちょうだい。
手紙は小さな壜につめられ、床と寝台の狭い隙間に押し込まれていました。
急いで書き残したものでしょう。字は乱れ、何が書いてあるのかわかりませんでしたが、兄王子から話を聞いていた怪物には、それが呪文なのだと理解できました。
ボロナ ホコ
メッツ ミナ ヘツゲ
ホイナ オタ チェネ
ノンジェ オエスル マナネ ソソグ
ケンドン ナ タベロ
ヘロク エシェ ワ マテイ
この呪文が、もしかすると、山と城を自由に行き来できる魔法なのかもしれません。
けれど、怪物の姿のままで城に行くことができないのは勿論、今は、この山にとどまり続けるのさえ、危険な状況でした。
四方を敵に囲まれた怪物は、もはや、食料を手に入れる術さえありません。一日でも早く、遠い国に逃げなければ、いずれは死んでしまうでしょう。
きっと、ふもとの城で、お姫さまは幸せに暮らしているはずです。
きっと、兄王子が、継母と義姉を成敗してくれたはずです。
明日こそは、この国を出て遠くの土地に行こう。
明日こそは、そう思っていた時でした。
「気の毒に、塔に閉じ込められておいでのようだ」
「結婚を嫌がられて、逃げようとなさったらしい」
それは、山にきた勇者たちの噂話でした。
話を耳にした途端、怪物は、いてもたってもいられなくなりました。
確かめるだけだ。
お姫さまの無事を確かめたら、俺はここを出て行こう。
その夜、怪物は、ついに呪文を口にしました。
不思議なことに、なんの感覚もないまま、ふっつりと周りの景気だけが変わりました。
暗い、暗い、井戸の底。
はいでると、そこは一面の薔薇の花園です。
目の前には、白亜の城がそびえ立っています。ひっそりと静まり返った広大な敷地には、誰の姿も見えません。
ここは、城内の庭園だと、怪物はようやく気がつきました。
上手くいったぞ。
さぁ、急いでお姫さまを探さなければ。こんな姿を、誰かに見つかってしまえばおしまいだ。
けれど、さほど危険をおかす必要もなく、お姫様の居場所はすぐに判りました。
城の一角、薔薇畑に囲まれた高い塔の天辺から、きれいな歌声が聞こえてきたからです。
怪物は、薔薇の棘に守られた塔を、必死になってよじのぼりました。
頂上につくころには、手も足も血だらけでした。けれど、痛みなど、お姫さまと会える喜びに比べたらなんでもありません。
小さな明り取りの窓から、怪物は、部屋の中の様子をうかがいました。
白い衣装に身を包んだお姫さまは、うちひしがれた横顔で、いすに腰掛けておられます。その傍らに、二人の女が、まるで見張りでもするかのように控えていました。
「山の噂は聞いて?」
お姫さまは、背後の女に声をかけました。
「山の怪物は、もう退治されたのかしら」
「もうじき、大掛かりな討伐対が組まれるということでございます」
「山で、黒髪の、緑の目をした男の人が、見つかったという話は聞いていないかしら?」
「そのような男の方が本当に山におられるのなら、とうの昔に怪物に食べられているでしょう」
お姫さまの綺麗な目に、涙の粒が浮かんでいます。
怪物は、黙っていることができませんでした。
けれど、無論、しゃべることもできません。山の怪物の正体を、お姫さまは知らないのです。何があっても、この姿をお姫さまに見られるわけにはいきません。
「誰か、歌っているのでしょうか、奇妙な声がいたします」
最初に気づいた女が、不思議そうに立ち上がりました。
「いいえ、あれは風の音よ」
お姫さまの目が、喜びに輝きます。
「窓の外に、誰かいるのでございましょうか」
「いいえ、あれは、風が枝にあたっているだけ」
怪物の歌声を、お姫さまだけが聞き分けてくれたのでした。
姿も見せられず、話しかけることもできない怪物は、歌声でお姫さまを慰めたのでした。
「お前は元気だったのね」
「私は、遠い国にお嫁に行くことになったのよ。行ってしまえば、もう二度とここには帰ってこられないの」
「お城なんて出て行きたい。私はもう一度……お前のところに戻りたい」
周りに誰もいない夜、そう言ってさめざめと泣くお姫さまに、怪物はただ、歌を歌い続けます。
食事もできず、身体の傷は日々増えていくばかり。
片方の心臓を失った怪物は、魔力をも半ば失い、日に日に弱っていきました。
それでも怪物は、お姫さまのもとに通い続けたのでした。
5
午前中最後の講義が終わる。
キャンパスには、食堂に向かう学生たちで溢れている。
凛世はぼんやりと腕時計を見た。久々に登校した大学は、折悪しく午後から休講だった。電話をしたから、直に朋哉が迎えに来てくれるだろう。
寄り道も誤魔化しも許されない。姉の推挙で転入した女子大には、御堂グループの重役の娘たちが何人もいて、始終凛世の動向を監視しているからだ。
結局は、何一つ変わらない日々――佳貴から電話があり、来週の半ばには正式に家に招待することになった。結婚は現実のものとして間近に迫り、香澄が精力的に準備に当たってくれている。
「こんにちは、体調はもう、いいようですね」
ふいに、女子たちの華やかな色彩の中に、黒い影をまとった長身の男が現れた。
凛世は咄嗟に、座っていたベンチから立ち上がっている。
黒めいた上下のスーツ。
見上げるほど背が高く、くっきりとした二重の瞳と、浅黒い肌を持つ男。
狩谷登志彦。
歩み寄ってきた男は、目に、無機質な笑みを滲ませ、凛世を見下ろした。
「食堂が随分込み合っているようですが、こんなところでぼんやりなさっていても、いいのですか?」
睨むような凛世の沈黙に、男はわずかに肩をすくめる。
「お元気そうだが、ご機嫌はまだ悪そうだ」
「私に、何か」
表情を硬くしたまま、凛世は、少しだけ背後に後退した。
警察が、大学にまで来た。
大学には自治権がある、警察官が、勝手に入っていいはずがない。
「半分は仕事ですが、半分はプライベートですよ」
凛世の眼差しに気づいたのか、狩谷は、口元だけで微笑した。
「むろん、偶然だなどと下手な言い訳をするつもりはありません。ただ、僕の同窓が、こちらの大学の専任講師をしているのでね」
私用なんですよ。狩谷はそう繰り返した。
確かに、男は一人きりで、背後に相棒の姿はないようだった。が、どう建前を取り繕っても、大学構内に、捜査目的で侵入したのは間違いない。
「帰ってください」
あと数分もすれば、朋哉が着く。凛世はバックを抱きしめ、後ずさった。
「私にお話があるなら、いつだって警察に行きますから」
「だから、君に会ったのは、あくまで偶然なんですよ」
狩谷は動じずに距離を詰めてくる。
歯切れのいい、他人を追い詰めるのに長けた口調。
「……朋哉のことで、いらしたんですか」
「何故、そう思います」
白々しい物言いに、凛世は、初めて強い怒りを感じていた。
「刑事さんはいつも聞くばかりで、何も答えてはくれないんですね!」
男は少し驚いたように眉をあげ、片頬に苦い笑みを浮かべる。
大学に場違いな強面の男を、時折、通り過ぎる学生たちが振り返っていく。
「怒られるとは心外ですね、僕は、君の味方のつもりだったのに」
「知りません」
「昔ね……、忠告したはずですよ、あの家を早く出なさいと」
風が、男の濃い前髪を、わずかに後ろに跳ね上げた。
「どうしてですか」
幼い心にも不思議だった。
「なんで……あんなことを、私に」
元々所轄署の刑事だった狩谷との出会いは、凛世が小学六年生の夏休みに遡る。
十二歳の夏。全てが灰色の、ぼんやりと滲んだ記憶の中で、狩谷の存在だけが、強烈な色彩を放っているようだった。
今にして思えば、殺人事件の捜査のために屋敷を訪れていたのだろう。一際大柄で目つきの鋭い男の眼差しは――凛世には、最初から最後まで朋哉一人に注がれているように思えた。
そう、初めから、凛世は不思議な確かさで確信していたのだ。カリヤという男の、朋哉を見下ろす暗い眼差しを見た瞬間に。
この男は、朋哉をどこかに連れていくためにやってきたのだと――。
父が帰国し、その日を堺に、見知らぬ男たちは屋敷には来なくなった。
最後の日、狩谷は、扉の影で隠れるようにして睨んでいた凛世の前で、足を止めた。
何故か、凛世を長い間見下ろして、不機嫌そうだった男は、初めて口元に微笑を浮かべた。
(君は、早く、この家を出なさい)
(大人になったら、怪物に食べられてしまうからね)
からかわれたのか。自分を睨みつける少女へのささやかな報復だったのか。
朋哉につきまとう黒い影のような男を、強烈なメッセージと共に、凛世はずっと忘れられないでいた。
「あの家の中で、まるで君が、囚われのお姫さまのように見えたのかな」
ふざけた言葉を暗い声で放ち、狩谷はポケットから煙草を取り出した。
「それに、君の家の番犬は、侵入者ではなく主人を食う」
咄嗟に、男が手にした煙草を指の先で叩いていた。
煙草が芝生に散らばり、驚いた目で、狩谷が凛世の顔を見上げる。
「それが朋哉のことなら」
怒りで、声がわずかに震えた。
「そんな侮辱、絶対に許しません!」
あっけに取られた風に、厚い唇を半ば開けていた男は、わずかの間の後、初めて双眸に、素の笑いを滲ませた。
「それほど強いのに、どうして君は、家の中だと、まるで人形のようなのですか」
「意味がわかりません」
バックを抱きしめ、凛世はそのまま、歩き出そうとした。
「お友達が、先ほど電話していたから、直に朋哉君が、血相を変えて飛んでくるかもしれませんよ」
凛世の足が、止まっている。
「家では、忠実な執事とロボットじみたメイドに監視され、大学では、会社役員のお嬢様方の監視ですか。つくづく、箱入り娘も楽ではないようで」
「姉が……」
迷いが、言葉を詰まらせている。
「私のためを思って、してくれていることですから」
「本気で、そう思っているんですか」
再び歩き出した凛世に、背後から声が追ってくる。
「君は、自分が、本当は何から遠ざけられているのか、知りたいとは思いませんか」
耳を塞ぐようにして、凛世はそのまま歩を早める。
「君の家にいる怪物の、本当の正体を知りたいとは思いませんか」
「もうやめて、人を呼びます」
「君のご両親がお亡くなりになったのは、本当に単なる事故や自然死だったと思いますか」
凛世は足を止めていた。
何?
この男は、今、なんと言ったのだろう。
「僕の車で送りますよ」
狩人は薄く笑い、黒い上着をひるがえした。
「あなたにぜひ、聞いて欲しい話があるんです」
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