10

 朋哉が右の目を失った詳細は、凛世にはよく判らない。
というより、誰もが禁忌のように口を閉ざし、当時のことを語らないから、知りようがないのだ。
 判っているのは、屋敷に侵入した強盗と朋哉が格闘になり、相手のナイフが、朋哉の右瞼と角膜を切り裂いたという――ただそれだけだ。
 犯行現場は香澄の寝室。つまるところ朋哉は、主人を命がけで救った勇敢な執事ということになる。
 が、表向きの武勇伝とは裏腹に、事件についての陰湿な噂が、親戚たちの間では囁かれていた。
(朋哉というのは、恐ろしい男だよ)
(片目の代わりに御堂の財産を手に入れたのだ。狂言だとしたら大した度胸だ)
 何故そこまで、朋哉があからさまに疑われなくてはならないのか。随分憤慨した記憶がある。
 逃走した犯人は、いまだ捕まっていないという。目的も強盗だったのか、怨恨だったのか、どうして香澄の寝室に侵入したのか――全ては謎だ。
 深海魚が泳ぐ水槽が鳴っている。
 かすかな溜息と舌打ちが聞こえた。苛立ったような香澄の横顔が、コーヒーカップを睨んでいる。
「当時、所轄は、御堂邸強盗未遂事件の有力容疑者の一人として、ある男をマークしていました」
 穏やかな口調で、灰原が続けた。
「男に事件当夜のアリバイはなく、当夜の目撃情報とも一致している。動機もあり、土地勘もある、もうお分かりでしょうが、その男が櫻井厚志です」
 凛世はただ、目を見開く。
 何故、あの男を逮捕しなかったのですか。
 冒頭の姉の言葉の意味が、ようやく理解できた。
 母と駆け落ちしようとした男が、屋敷に侵入し、朋哉の目を切り裂いた。つまりはそういうことなのだ。
 でも、いったい、何故。
「動機は、まぁ、様々なことが想定されますので、一概には言えませんが、借金と怨恨……二年前の捜査記録には、そう書かれていましたな」
 手帳を見ながら、灰原。
「……怨恨、ですか」
「そりゃあ、恋路の邪魔をされたと、本人はそう思っているわけです。こちらの奥様が失踪された当時の調書に残っていた記録ですがね、櫻井は、……奥様を追い詰めたのは御堂の亭主だと、奥様は亭主に殺されたようなものだと、盗人猛々しくも、そう言っているようなんですな」
「短絡的すぎますわ」
 冷ややかに、口を挟んだのは香澄だった。
「母の失踪から二年前の事件まで、いったい何年経っているとお思いですの。何年も沈黙を守っていて、いきなり恨みから家に押しかけてくるなんて、常識で考えてもあり得ません」
「ですから、証拠不十分で、逮捕状請求は見送られたんですよ」
 さらに冷ややかに、狩谷が応じた。
「その上、面通しさせた被害者二人が、違うと言い張りましたのでね」
 被害者二人。
 凛世は、表情を固めたまま、姉の横顔を見る。
 それは、もしかして、朋哉と、姉のことだろうか。
「うちに侵入した男は、覆面していたのよ」
 香澄が、自身が覆面でもしているかのような、表情のない顔で口を挟んだ。
「確かに、朋哉と一緒に面通しをさせられたけど、私たちにも、櫻井さんが犯人かどうか、判断ができなかったの。はっきり違うとは言っていないはずですわ、印象が違うと申し上げただけ」
「こちらのお嬢様は、非常に人情溢れる篤志家でいらしたようで」
 狩谷の言葉は、棘のような皮肉に満ちていた。
「釈放された櫻井の、借金の全てを肩代わりされ、生活資金の援助までされたのでしたね」
「人違いでご迷惑をおかけしたのですもの、当然です」
 再度の衝撃に、凛世は耐えた。
 それで、判った。朋哉が目を切り裂かれるという悲劇を味わってもなお、親戚の間で、あの事件が狂言ではないか、と囁かれていた理由が。
 が、判らない。確かに姉の行動は不自然ではあるけれど、それによって朋哉と姉は、何を得たというのだろう。
「その、櫻井さんという方が、亡くなられたんですね」
 声の震えをこらえ、凛世は訊いた。
「どういう原因で、亡くなられたんですか」
「調査中としか言えませんね。警察では、事故、自殺、両方の面で調べています」
 冷然と、狩谷が答える。
「朋哉を、疑っているんですか」
 口に出すのは、多少の勇気が必要だった。
「櫻井さんと言う方が亡くなったことで、朋哉を疑っているんですね」
「何故、そう思われます」
 凛世は黙って唇を引き結ぶ。理由などない、狩谷の目を見た最初から、彼の獲物は朋哉だと思った。八年前にも、同じ不安を感じたように。
「我々がお聞きしたいのは、先週三日から五日にかけての、朋哉君のアリバイです」
「やっぱり、疑っているんですね」
 狩谷は薄く笑った。
「それは、あなたの証言しだいになると思いますよ」

        11

「意外に、きちんと受け答えをしているから、驚いたけど」
 ようやく静かになった居間で、素顔の香澄は、疲れを滲ませた目で凛世を見上げた。
 伯父が、刑事二人を見送りに出た。
 よほど腹に据えかねたのか、香澄は、眉間に皺を寄せたまま、客人の退室に、席さえ立とうとしなかった。
「来客がある時は、絶対に下に降りないでと、私はそう言ったわよね、凛世」
 膝の上の指先が、神経質そうに震えている。
「今度、言いつけを破ったら、絶対に許さないわよ」
 凛世は何も言えずにうなだれる。
「まさ代もまさ代よ、いったい、何をしていたのかしら」
 苛々と爪を噛む、姉の横顔は美しかった。
 黒縁眼鏡、そして長いだけの髪、ディオールの白シャツにパンツという味気ない姿。
 半ば女であることを捨てているような香澄だが、父親譲りの、玲瓏とした美貌は、化粧などなくても十分すぎるほど端麗である。
 百七十を超えるモデルばりのスレンダーな体型に、明晰な頭脳と男も顔負けの行動力。 
 声は、まるでピアノの旋律のようで、スタッカートを叩く音のように、言葉尻の切れが小気味いい。
 が、子供の頃は完璧に見えた姉の美貌も、大人になって再会してみると、どこかしらに欠点があることに凛世は気づいた。
 まず、鎖骨が高い。バランスのよい張り出し方ではあるが、姉の顔をいかつく、男性的に見せている。鼻筋はとおっているが、みけんの数センチ下でわずかに変形しており、これまた、いっそう姉の印象を厳しくみせている。
 が、全ては嫉妬も含んだあら捜しの果てに見えた欠点で、実際、身長百七十二センチ、骨格の整った見事な肢体に、男性の強さと女性の優しさを混同させたような中性的な容貌は、見るもの全てを圧倒し、征服するほど魅力的だった。
 姉の前に出ると、凛世は人形のように何も言えなくなる。
 それは、姉自身が、凛世をそう扱っているからであり、凛世自身、この人の前に出ると従属するしかないという、決定的な力関係を受け入れているからだ。
 姉が妹を見下ろす眼差しには、はっきりとした軽蔑と嫌悪があって、父親の態度や眼差しとも共通しているそれは、いつも凛世にある疑いを抱かせ、萎縮させ、畏怖させる。
「お母様の……恋人だった方のお名前、初めて聞いたわ」
 無言で、妹が退室するのを待っているらしい姉に、凛世は、勇気を振り絞って言葉を繋いだ。
 自身の言葉尻が震えている。
 けれど、怖くても、今は確認しなくてはならない。自分のことだけでなく、朋哉にかかわることだとしたら。
「そうね、今まで黙っていて、悪かったわね」
 さほど悪びれずに、香澄は言って、冷めたコーヒーを取り上げて口につける。
「でも、結局、お母様の遺品から、櫻井という男の名前はひとつも出てこなかったのよ。櫻井の勝手な横恋慕かもしれない、だからそんな男の名前、あえて言う必要もないと思ったの」
 姉の口調は、明らかに櫻井を嫌悪している。
 凛世は内心驚いていた。そんなに嫌悪している男の――借金の肩代わりまで、この冷徹な女がしたというのだろうか。
「櫻井さんとお母様は、もともと知り合いだったの」
「お母様が一時通っていらした、絵画教室の先生だったのですって。偶然って怖いわね、それが朋哉のただ一人残った親戚筋だなんて」
「それだけで、どうして警察は、恋人だと決め付けているのかしら」
 凛世の追求に、姉は露骨にうるさげな目になった。
「事件が新聞沙汰になった後、櫻井が自ら警察に名乗り出たのよ、私が恋人でしたって。二人が密会していたのが、お母様が消えたクローバーの頂だったというわけ。櫻井は、頂に登るための裏道まで知っていたそうよ。それにしても、自宅の裏で密会なんて、どういう神経だったのかしら」
 憎しみさえ漂う姉の目には、すでに失踪宣告を受け、葬式まで出した母親への強烈な軽侮の色が浮かんでいる。
「その方は……櫻井さんという方は、本当に朋哉の遠縁の方なの」
「みたいね、朋哉が生まれる前には、何度か悠木の家に来たこともあったみたい。朋哉のお母様とは、顔馴染だったのかもしれないわね」
「朋哉は知っていたのかしら」
「名前は、聞いたことがあると言っていたわ」
「………そう」
「そんなゴミみたいな男が死んだからって、なんだというのかしら。たかだか小さな事件を大げさに騒ぎ立てて、あいつらの手柄にしたいのよ、汚いわね、警察って」
 憎憎しげにそう言うと、香澄はポケットからメンソールを取り出して唇に挟んだ。
 感情を押し殺して、凛世は黙る。
 ――ゴミみたいな男……。
 その櫻井何某がどんな人であれ、かつて母が愛し、朋哉の縁に繋がる人が死んだのだ。しかも朋哉が、容疑者の一人として挙げられている。
「朋哉と櫻井さんという人は、どういう関係だったの」
「だから、遠縁というだけよ」
 疲れているのか、うるさげに香澄。
「でも、だったら何故、警察は朋哉を疑うの」
「疑うのが仕事だからでしょ、警察の事情まで私は知らないわ」
 姉の早口は、明らかに何かを隠しているような気がした。
「それより凛世、朋哉が不利になると思うことは、これから一切、何も口にしないでちょうだい」
 きつい声音で言われ、凛世は言葉に詰まって姉を見上げる。
「狩谷という刑事はね、あなたは覚えていないかもしれないけど、八年前、このあたりで起きた殺人事件の時も、朋哉を参考人として調べた男よ。まだ未成年の朋哉を……お父様の力添えがなかったら、どんな冤罪をかぶせられていたか分からないのよ」
 やはり、そうだったのだ……。
 狩谷が、朋哉に付きまとっているという記憶だけが、凛世には鮮明だった。けれど、これではっきりした。
 やはり、あの夏に起きた殺人事件で、智哉は容疑者として狩谷にマークされていたのだ。
「彼は、朋哉を捕まえたくて仕方ないのよ。だから今回も、死んだ男の過去に朋哉の名前を見つけて、得たりとばかりに飛びついてきたの、それだけよ」
「………ごめんなさい」
「わかったら、もう下がりなさい」
 きつい口調で、決め付けられるように言われ、凛世はあふれ出す疑問も不安も、全て飲み込んで立ち上がった。
「まさ代、朋哉は?」
 背を向けた凛世に、そんな声が聞こえる。台所から、いそいそとまさ代が飛び出してきた。
「先ほど戻ってまいりました。呼んでまいりましょうか」
「今日はもう仕事はいいから、私の寝室で待つように言ってちょうだい」
 かっとその刹那、頭の先にまで、火がついたようだった。
 嫉妬かもしれない。
 それより、もっと深い感情だったのかもしれない。
 頭のいい姉が、不用意に執事との私生活をもらさないのは、よく知っている。とすれば、聞こえるようにわざと凛世の前で言ったのだろう。
 あたかも、それは、朋哉は私のものだから、あなたが心配する必要は何もないのよ、そう言っているように聞こえた。







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