7
「余計なお世話です!」
御堂香澄。
凛世の姉で、実質、この家の女主人の声。
客間の扉を開けようとした凛世は、気おされて足を止めてしまっていた。
警察の来訪があった翌日である。ひどい頭痛で伏せっていた凛世がようやく目を覚ましたのが、昼前のことだった。
家中が妙に静まり返っている。まさ代に頭痛薬をもらおうと階下に降りた途端、甲高く響く姉の声が、凛世の足を止めていた。
「昨夜も申し上げました。もう二度とおいでにならないでください。迷惑だと言っているのに、どうして判っていただけないのですか」
凛としてよく響く声は、聞いているだけで、発している当人の知的レベルが伝わってくるようだ。
八つ年上の凛世の姉、御堂香澄は、現在、グループ企業の一角を成す「御堂エステイト」の専務職についている。二十七歳、大学卒業後、ハーバードでMBAを取得した才女は、自他ともに認める御堂グループの継承者である。
「少しで構わんのです。末のお嬢様から、お話を伺いたいだけなんですがね」
それに対して、深みを帯びた低温の、掠れ気味の男の声がした。
凛世ははっと息を引く。姉の言葉から、相手は警察だと判っていた。昨夜の来訪から一日と待たず、こんな時間に、また警察が訪ねてきたのだ。
末のお嬢様――私のことだ。警察が、私を訪ねてきた。
「確かに、正式な令状はありませんがね。言われるように容疑者でもない。後見人であるお姉さまが許可されないと言われればそれまでですが、……どうしても許可していただけませんかな」
「聞かれたくないことでもあるんじゃないですか」
そこに初めて、若い、あからさまに剣のある男の声がかぶさった。
この声。
凛世は身体を硬くさせた。
不安は的中した。
絶対に忘れられないあの男、カリヤ刑事の声。
「失礼な言い方をなさらないで」
姉が、冷ややかな声で応じた。
「我が家の事情は、昨夜、必要以上に丁寧にお話ししたはずですわ。どうしてご理解いただけないのでしょう。あの子は何も知らないのです」
「それでも、最近のことなら、お判りでしょうに」
最初に聞こえた掠れ声の男が応じる。こちらの声には聞き覚えがない。
警察は、どうやら二人組らしい。
「判らない人だな、あなたも」
カリヤの声が後に続いた。
「どうして隠そうとばかりするんです。いってみれば、この家の中に、凶悪犯がひそんでいるかもしれないんですよ」
「何がおっしゃりたいの」
今度は、姉の苛立った声が応じた。
「そもそも、朋哉は被害者であり、犠牲者じゃありませんか。では逆に聞きますけど、こんなことを今さらおっしゃるのなら、どうしてもっと早く、あの男を逮捕なさらなかったんです」
逮捕?
あの男?
扉の前で凛世は固まる。
あの男、と姉が言い捨てるくらいだから、朋哉のことではない、別の誰かをさしているに違いない。
けれど、カリヤという刑事が、朋哉を疑っているのだけは、今の言葉ではっきりと判った。何か――何かが、起きたのだ。凛世の全く知らない所で。
中の様子は判らないが、当の朋哉の声は聞こえない。
「何故、逮捕しなかったか、ですか?」
冷えた声で、凛世の記憶のカリヤが笑った。
「おかしなことを言いますね、理由は、あなたが一番よく知っているじゃありませんか」
「カリヤ、よせ」
もう一人の刑事の声。
ごほん、と、軽い咳払いが緊迫した空気を遮った。
「……ハイバラさん、何かとご縁がありますな。またあなたにこの屋敷でお目にかかるとは、夢にも思ってもいませんでした」
柔らかで物憂げな、中年男性の声。
声というより、癖のある咳で、凛世には判った。伯父の御堂遼太郎である。
推定死亡した母の兄で、身体が弱く、ずっと御堂の家に居候している老紳士。
若い頃、結核さえわずらわなかったら、御堂の当主になっていたはずの男である。
「ハイバラさん、あなたとのご縁をたてに、こう申すのではありませんが……あの不憫な娘の婚約者は、日野原財閥の御曹司、いわば、名門中の名門の出です。そう言えば、察していただけますかな」
貴族――すでに日本では死語であるが、五十を前にして玲瓏とした美貌を保つ伯父は、まさに、元貴族の称号にふさわしい品格と雰囲気を持っていた。
両親がいないも同然だった凛世にとっては、昔から後見人のような存在だし、父が死んだ今では、香澄も、唯一の肉親として頼りにしている。
伯父は、いかにも貴族の末裔らしい、威厳のある口調で続けた。
「ただでさえ、御堂の家には不吉な影がつきまとっている……。本来であれば、先代の死と共に、破談になってもおかしくはないところ、あちら様のご好意で、予定通り来春の挙式となりましてね。早すぎると、私も当初は反対しましたが、これは末娘にとっては、僥倖とも言うべき縁談なのです」
悠長に、穏やかな口調で伯父は続ける。どうやら、カリヤの連れであるもう一人の男――年配の、掠れ声の男に向けて話しているようだ。
ハイバラ。
伯父が二度も名を呼んだ。
伯父が、再び軽い咳払いをする。
「それを……、たかだか執事のこととはいえですな、今、我が家に妙な噂がたっては困るのですよ。私どもとしては、今回の事件とは一切無関係だと、そう申し上げるしかございませんし……」
室内には、姉と、伯父の御堂遼太郎、そして、おそらくハイバラとカリヤの二人、四人がテーブルを囲んでいるのだろう。
「なるほどねぇ、では、結婚される妹さんのためにも、今更、過去の話を蒸し返されては困る……といったところですかなぁ」
ハイバラの、ため息が混じったような呟きが聞こえた。
低くかすれていて、それが決して聞き苦しくない、独特の声音だ。
――伯父様の、お知り合い……?
出不精の伯父の知り合いとは、珍しい。凛世には名前も声も覚えがない。
「妹さんは、十九ですか」
カリヤの声がした。
穏やかな口調に、はっきりと恫喝の色がある。昔からそうだった、聞かれたことには答えないくせに、質問には、絶対に答えを強制する口調。
今のそれは、昔よりなお語尾が鋭く、ますます嫌な印象を受ける。
「ご存知のことをいちいちお聞きにならないで、来月には二十歳になりますわ」
「随分結婚を急がれる印象を受けますね、まだ大学生でしょうに」
「結婚しても大学には通えます。妹は若くてもあちら様はもう三十、結婚を急いでいるのはそういう理由です。うちの事情をこれ以上あなたに説明する義務があるのかしら」
「この屋敷を、取り壊される計画があると聞きましたが、それと関係がありますか」
「何の関係です」
「結婚を急がせることと、ですよ」
「無関係ですわ」
再び、姉の口調が早くなった。
「妹の事情は、先ほど説明したとおりです。屋敷の取り壊しは、都から指導を受けていますの、もう随分古い建物ですから」
「期限が定められたそうですね」
カリヤの声は、落ち着いている。
「今年の末までですわ」
「ほう、それは急だ」
「…………」
それには、姉は答えない。
「都の建て替え勧告は、今に始まった話ではないはずですが、どうして今まで、ずっと放置されておられたのです」
「伯父様にお聞きになってください」ガシャンと、カップが音を立ててソーサに置かれる。「それと、今回の話と、何の関係がありますの?」
「……末のお嬢様は、まだお休みですかな」
ハイバラと伯父に呼ばれていた男が、穏やかに口を挟んだ。凛世はどきりとして身体を強張らせる。
「凛世に会うことは許しません」
姉の声は厳しかった。
「では、彼女本人がいいといったらどうでしょう? 僕らの話を聞きたいと言ってくれたら」
「ありえませんわ」
香澄の声が笑った。
「あの子は身体が弱いんです。人見知りも激しく、このような話には耐えられません。今だって、昨夜あなた方が来られたので、ショックで寝込んでいるくらいですから」
言いすぎだとは思ったが、あながちそれは抗弁ではなかった。実際凛世は昔から、身辺に異変が起こる度に、頭痛や眩暈を起こしている。
「そうかな」
今度は、カリヤが笑うような声になった。
「お気付きではないですか? 彼女なら、もう扉の前においでのようですよ」
はっと香澄が息を引くのが判る。
「ずっと僕らの話を聞いておられたようでしたがね」
激しい動悸を感じながら、凛世は、うつむいて扉に手を掛けた。
開けてしまうのが恐ろしかった。けれどもう、知りたいという欲求に気持ちが勝てなくなっている。
8
カップが置かれ、男二人が席を立った。
大柄な男と小柄な男。二人とも揃ったような、濃いグレーのスーツを着ている。
「やぁ、大きくなりましたね」
カリヤ刑事。
立ち上がると見上げるほど背の高い男は、右頬におざなりの微笑を浮かべ、立ちすくんだままの凛世の傍に歩み寄ってきた。
背筋の伸びたスマートな長身、骨格は太く、目つきは鋭く、外見だけでも十分に他者を威圧している。
「僕を覚えていますか」
「いいえ」
「僕は、よく覚えていますよ」
わずかに笑う男の眼は、凛世の言葉を信じている風ではない。
年をとった。
一目で凛世は、時の流れを男の相貌に感じ取った。
七年前、若々しく張っていた肌は、今は剃刀負けで緩み、口元と目じりに壮年の証が刻まれている。顔つきからして、おそらく三十半ばか、そのくらいだろう。
黒皮の手帳が、目の前で広げられる。
警視庁捜査一課、警部補 狩谷登志彦。
男の本名を、漢字で初めて認識する。
凛世は、目をすがめて狩谷を見上げた。
昔から男の眼が怖かった。的確に焦点を定めているようで、その実何も見ていない、洞穴のような虚無の眼差し。
身長は百八十を軽く超え、肩幅は広く、短く切った豊かな髪を無造作に額で分けている。厚い唇と、横に広く張った顎は、彼の強靭な意志の強さを感じさせる。
カリヤという男はえらくなるだろう――何年も前に、伯父が、苦々しく吐いた言葉だったが、予言どおり、しがない所轄の刑事から一転して、今や男は警視庁の花形部署にいるらしかった。
狩谷の背後に、灰色の髪を総髪にした、小柄な男が立っている。
グレーのシャツに濃い茶のジャケット。
この男が、ハイバラだろう。
背丈は相棒の肩先ほどしかない。口元に微笑をたたえ――元来の表情なのかもしれないが、狩谷と比べると、印象は格段に柔らかい。眉毛が長く、穏やかで賢そうな眼差しは、刑事というより、大学教授を連想させる。
「はじめまして、同じく一課のハイバラです」
灰に、原と書きます。
律儀な性質なのか、漢字まで説明すると、灰原と名乗った男は、凛世に目の前のソファに座るように目で促した。
「僕より、話しやすそうだと、安心してはいけませんよ」
狩谷が、凛世の表情を見て取ったのか、楽しそうな口調で言い添える。
「彼はオトシの灰さんといって、所轄でいくつもの凶悪な窃盗グループを落としてきた、叩き上げのエリートですからね」
「おいおい、叩きあげはエリートとは言わないぞ」
笑う気にも、同調する気にもなれない軽口の応酬に、凛世は立ったまま、眉を寄せる。
朋哉の姿は、やはりない。香澄の横顔は明らかに怒りを含み、伯父の目は物憂げだった。
「私に……何か、御用でしょうか」
「二、三、お尋ねしたいことがありましてね、まぁ、席にどうぞ」
静まりかえった室内に、深海魚の浴槽がたてる音だけが響く。
姉も伯父も、難しい顔して、どこか不安げに、席につく凛世を見つめていた。
9
「実は、先週、都内の公営住宅で、一人の男が、腐乱死体で発見されましてね」
言葉のどぎつさとは不釣合いに柔らかな声で、最初に口を開いたのは灰原だった。
まるで、喉に魚の小骨でもひっかかったような、かすれて途切れる、独特の声だ。
「死後、二週間程度ですかな。まぁ、はっきりと死亡日の確定はできませんでした。この陽気続きですからね、亡くなられていたのは浴室でして……遺体というより、ほぼ液体化した元人間が収容できたくらいです」
凛世は眉をひそめていた。
一体、何の話だろう。
「拾い集めた歯の照合で、ようやく、住宅名義人と遺体が同一人物であろうと推定できまして、それが先週の金曜でした。男の名前はサクライアツシ」
サクライ、アツシ。
凛世の胸に、砂金のような細かな欠片が、不意に流れて消えていった。
灰原は、手帳にペンで文字を書き、開いて凛世に示してくれた。
「お聞きになったことはありませんか」
傍らで、狩谷が、じっと表情をうかがっているのが判る。
櫻井厚志
灰原の口から名前を聞いたとき、ふと、心の端にひっかかった何かは、漢字を見た途端、不思議な儚さで流れていった。
「知りません」
凛世は、少し考えてから、首を振った。
「はじめて聞く名前です」
灰原は、うん……と鼻で唸り、すぐに手帳を引っ込めた。
「その男は……まぁ、どういえばいいですかな、こちらのお宅とは、あながち、縁がないとも言えない間柄でして」
灰原の、小さなアーモンドのような目が、ちらりとだが、香澄を見たような気がした。
「櫻井厚志は、おたくの執事をしている悠木家の遠縁にあたる男です」
口を挟んだのは、狩谷だった。
朋哉の。
凛世は、身体を強張らせる。
どこかで朋哉の名前が出てくることは覚悟していたが、そういうつながりは予想外していない。
「お母様の従兄弟ですから、朋哉君から見ると、従兄弟伯父になるのでしょうな。面識はなかったのかもしれません。というより、彼が悠木君の親戚だというのは、さほど問題ではない。櫻井厚志は、別の意味で、あなたがたに深く関わっているんです」
「迂遠な言い方はもういいわ」
灰原の丁寧な説明を、苛立った声で遮ったのは香澄だった。
「いちいち勘繰るような訊き方はおよしになって。その男のことなら、妹は、本当に何も知らないんです」
「そのようですね」
と、薄く笑いながら狩谷が応じた。
「名前も知らないとは驚きでした。まるで、下界のことは何も知らさないように、あなたが、鳥籠で囲って養っていらっしゃるようだ」
姉の眉間に、苛立ちがくっきりと浮かび出る。
「何も知らさないままお嫁にいかせるのが、この子の幸せだと思ったからです。来春にはこの子はロスで式をあげて、もう日本には戻らない人生が待っています。それをあなた方が、台無しにしたんですわ!」
「僕なら、知って、外に飛び出す人生を選びますがね」
笑みひとつ漏らさない真顔で言ってから、狩谷は凛世に向き直った。
「非常に古い話になりますが、あなたのお母様、……御堂家の奥様が、失踪された事件をご記憶ですか」
緊張で固まっていた凛世は、思わず、姉の顔を見あげていた。
一体、何の話だろう、これは。
どうして今、母の話がでてくるのだろう。
灰原が後を続けた。
「死んだ櫻井という男は、こちらの奥様の恋人、……といってもいいですかな。当夜、奥様が、家出してまで、添い遂げようとした相手だったんですよ」
あっ、と、口の中でうめき、そのまま、凛世は絶句する。
失踪当時、母が、夫と子供を捨ててまで選ぼうとした恋人とは、一体どんな男だったのか。それは、口に出すことすら憚られる、禁忌のような疑問だった。
伯父も、死んだ父親も、失踪した母の話題になると、憂鬱な悲しみと陰鬱な怒りを同時に浮かべ、思い出さえ振り返りたくないという風に冷徹になる。
その恐ろしい理由を、凛世は薄々察している。
いや、頭の中では、気が狂いそうなほど否定しても、どうしても疑念は、後から後から沸いてくる。
父に、視線さえ合わせてもらえなかった子供時代。
姉の、自分を見下す侮蔑の目。
親戚たちの他聞をはばかるような囁き。
もしかして、御堂の末のお嬢様は――。
言葉の続きを考えるのは、凛世にとっては、幽霊がひそむ暗闇の覆いをあけるような恐怖だった。
愚にもつかない推測だったらどんなにいいだろう、が、もしかすると、その男は――。
凛世が、父と姉が目論んだ縁談に、諾として従った理由のひとつにそれがある。
自分が、母の遺した恐ろしい罪の証かもしれないという、申し訳なさと恐ろしさが。
「まぁ、それだけなら、どうということもない。ただの、薄情な、遊び人崩れが死んだというだけの話ですが」
薄く笑って、狩谷。
男の言葉にもまた、凛世は密かに傷ついている。
「櫻井厚志という男は、あなたが想像もしていない形で、もう一度、御堂の家に関わってくることになるんですよ。もう二年前も前になりますが、こちらのお屋敷で強盗事件が起きたのはご存知ですね」
二年前。
強張った感情のまま、凛世は無意識に頷いた。
二年前、御堂邸で起きた事件といえば、一つしかない。朋哉が片目を失った『事件』のことだ。
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