5
鬱蒼とした山中にある、明治建立の西洋館。
山の頂を背にした広大な敷地に囲まれた建物は、三階建てで、小さなホテル並みの部屋数を備えている。
何度も改修してはいるものの、明治の初めにイギリス人が設計したというアンティークな佇まいは、近代的な建物と一線を画していて、時折見学希望者がわざわざ尋ねてくるほどだ。
御堂邸。
噴水を配した広大な庭には、曾祖母が遺した薔薇が一面に敷き詰められ、季節ごとに見事な真紅の扇を広げる。
その薔薇園を守るように、扇形の要部分に建てられている別棟が、代々執事を勤めている悠木家の屋敷であった。
不思議な建物である。
覆い被さるような山肌を背に、形は、いびつな五角形。御堂邸同様、当時の住宅にしては高層の三階建てで、上部に古い時計台を有している。
垂直な白壁に、屋根には石が段々に積み重ねられ、あたかも西洋の城にみる塔のようだ。
かつては、来賓を迎えるための御堂家の別宅であり、西洋趣味で、とりわけ奇異なものを好んだ曽祖父が、自身で設計して建てさせたとも言われている。悠木一族に居宅として与えられたのは、大正の終わり頃という話だ。
が、この館の最後の主、朋哉の母、悠木三千代が死んだ時から、悠木邸は閉鎖されたまま、今は立ち入る者もいない。
「お帰りなさいませ、凛世様」
玄関を開けた朋哉の後から中に入ると、陰気な声が出迎えてくれた。
屋敷に古くからいたという、使用人の笠原まさ代。
姉の乳母でもあった女は、姉に付き従ってイギリスに渡り、そして再び姉と共にこの屋敷にもどってきた。
やせぎすで、陰湿な粘膜を全身にまとっているような、暗い目をした女である。まるで忠実なロボットのように、家中を監視し、どんなささやかな異変さえも見逃さない、という目つきをしている。
この初老の女が、主として仰ぐのは、姉の香澄ただ一人。
乳母であるから、わが子も同然な愛しさがあるのだろう。まさ代は、香澄のためなら、なんでもやってのけるような怖い意思を、薄い、強情気な唇の下に潜ませているようだった。
「お客様ですか」
車のキーを、まさ代に手渡しながら朋哉が訊いた。
来客スペースに黒のセダンが停めてあったから、凛世もそれと気づいていた。
ごく普通の車種は、屋敷の客人としては、少しばかり珍しい。
「はい、警察の方がお二人」
ねばついた金属のような声で、まさ代が答える。
警察?
凛世ははっとしたが、朋哉は冷静に「僕にですか」と訊いた。
まさ代が頷く。
「あなた様と、香澄様に、お話をうかがいたいと」
「香澄様は」
「先ほどお戻りになられました。居間で、遼太郎様とご一緒に、お客様のお相手をしておいでです」
そうですか、と、朋哉は、目で凛世に一礼をして、先に靴を脱いでかまちにあがる。
きれいに伸びた背中が、廊下の暗い照明に滲んで、すぐに見えなくなった。
「警察って、どうしてそんな人たちが?」
嫌な動悸がする。
無駄だと知りつつ、凛世は、スリッパをうやうやしく出してくれたまさ代に訊いた。
父の葬儀の後、姉と朋哉が、一度警察に呼び出されていたのは知っていた。
父の死は、心臓発作による自然死だったが、病院ではなく自室で倒れ、しかも遺体が翌日まで発見されなかったことから、不審死扱いになったという話だった。
が、そんな憂鬱な騒ぎも、とうに収まっているはずだ。
「わたくしは、何も」
機械のような答えが戻ってくる。
「私も同席しては駄目かしら」
「だめでございましょう」
言い方は柔らかいが、二度の問いかけを許さないような冷たい口調である。
「何の御用なのかしら」
それでも凛世は訊いていた。
朝まで誰にも見つかることなく、一人死んだ父のことだろうか。
それとも、朋哉が片目を失った事件のことだろうか。
それとも――。
朋哉に関して言えば、凛世には、不安でならない気がかりがひとつだけあった。
今だ灰色の靄の向こうにある、過去の――おぼろげな記憶の一部。十二歳の夏の終り、十八歳だった朋哉の頬に刻まれていた傷のことである。
あれは、私のために出来た傷だと、十二歳の凛世は頑なに信じていた。けれど、いったいあの時、朋哉に何があったのだろう。
殺人事件が起きたのが、同じ夏の最中だった。時期にすれば、凛世が日本を発つ一か月ほど前。
何故か凛世には、今夜警察が訪れたことも全て、どうしても思い出せない過去に起因しているような気がしてならない。
警察からの電話を、今年の春、一度だけ凛世は受けたことがある。
「悠木君は、いますか」
耳どおりのいい、語尾のはっきりとした、が、ひどく陰気な声を、凛世はまだ忘れてはいなかった。
記憶に間違いがなければ、電話をしてきた男は、カリヤ――カリヤ刑事。
(君は、早くこの家を出なさい)
(大人になったら、怪物に食べられてしまうからね)
まだ子供だった凛世に、不吉な予言を残して去っていった男である。
6
月光が、眩しいほど明るく、真紅の花園を照らしていた。
「何をしておいでです」
湿った明かりの下、振り返った顔には、咎めるような色がある。
「……眠れなくて」
凛世は嘘を言い、門扉を閉めている朋哉の背中から目を逸らした。
今しがた、開かれた門の間を、黒の車が通り過ぎていったばかりだった。
午後十一時過ぎ。
部屋を抜け出し、門扉にまで出てきた主家の娘に、執事が眉を寄せるのは当然である。
「お帰りになったのは、警察の人?」
「ええ」
短く答え、締め切った鉄門に施錠を終えた朋哉は、凛世を見下ろした。
「お休みになれなければ、後でまさ代に言ってお茶を持っていかせましょう。すぐにお部屋にお戻りください」
「まさ代さんなら、お姉さまのお部屋よ」
まさ代の目は誤魔化して出てきたつもりだったが、自信はない。姉との結婚問題を抱え、ただでさえ、微妙な立場の朋哉に、近づきすぎてはいけないのも判っている。
「……朋哉に、用だったの?」
「警察がですか?」
「そう」
「誰にというのではなく、ただ、話を聞きにこられただけですから」
柔らかだが、これ以上の説明を婉曲に拒否するような口調。
今夜だけでなく、それは、再会以来一貫した朋哉の態度でもある。
優しくて、慇懃で、でも、それ以上立ち入ることを決して許そうとしない、頑なな壁をまとっている。
「……何の、話?」
門から、屋敷の入り口までは、長い薔薇園の間を抜けなければならない。
広大な園庭は、西洋のガーデンを模して作られたもので、曽祖父の趣味の名残なのか、佳貴の言う武家屋敷の名残なのか、歩道は迷路のように複雑に入り組んでいる。
夏の最後の花が、むせかえるほど甘い芳香を放っている。
一度も振り返らない黒いスーツをまとった朋哉の背中は、残酷なほど美しく見えた。
「警察の人は、何の話でいらしたの」
背について歩きながら、凛世は再度、訊いていた。
「昔のことで、何点か確認されに来られただけですよ」
「お父様のことで?」
「ご心配されるようなお話ではありません」
柔らかい、けれどきっぱりとした拒絶がこもった口調。
「お戻りくださいませ、私は、邸内を見回ってまいりますので」
静かに振り返る朋哉の頬に、かつての傷はもう消えている。
その代わり、前髪からわずかにのぞく、姉のためにできた勲章。
ただ一つ残る、夜行性の獣のような、切れあがった野生の目。瞳は昔と変わらず、澄んだ水のように美しい。
「……日野原さんが、あの絵本を見せてくれと言っているのだけど」
眼差しが、自分からそらされる前に、凛世は、胸にためた一言を口にしていた。
わずかに眉を寄せ、朋哉が横顔だけで凛世を見下ろす。
「車の中で、……話は聞こえていたと思うけど」
というより、聞いてもらいたくて、あえて本のタイトルを口にした。
朋哉が聞き逃すはずがないことも、凛世はよく知っている。
案の定朋哉は、静かな目で頷いた。
「まだ、お持ちでしたか」
「持っているわ」
朋哉にもらったものは、全部。
そっと、心の中だけで言い添える。
「朋哉が……」
見つめられると動悸がする。
月光が、二人を照らし出す。
「朋哉が、駄目だというなら、見せたりしないわ」
「…………」
かすかに目をすがめたまま、朋哉が再び歩き出した。凛世もその後を追う。
これは、どういう沈黙だろう。
迷惑だというサインなのだろうか。
姉との結婚を控えている朋哉には、親戚の手前、わずかな醜聞も許されない。
たわむれとは言え、幼い頃、婚約相手の妹に思慕を寄せられたことは、朋哉にはもう、忘れたい過去でしかないのだろうか。
「太平洋戦争の頃ですが」
不意に、その背中から声がした。
少し驚いて、強張った感情のまま、凛世は朋哉の後ろ姿を見上げる。
「この屋敷の薔薇園が、派手で西洋賛美だと、特高に目をつけられたことがあったそうです。当時の奥様が、泣く泣く全ての薔薇を処分されたのだとか」
「そうなの……?」
「母に聞いた話です」
朋哉の背中が止まったので、凛世も足を止めていた。
植栽でできた迷路の袋小路。
子供の頃にも何度か来たし、特段珍しい場所でもない。
話の意図は判らない。が、帰国して以来、朋哉が日常の職務以外のことで、何かを話してくれたのは初めてだ。
それが、忘れていた――忘れようとしていた感情の糸を震えさせる。
「全ての薔薇を焼却した後、先々代の奥様は、この場所に墓を作ったという話です」
「何の……?」
「薔薇の、で、ございましょう」
「…………」
薔薇の。
薔薇の墓。
凛世は、眉をひそめ、密集する薔薇の木々の隙間を見る。
ひどくロマンティックで、なのに、ひどく不吉な響き。
同時に思う、いつだったろう、これと似たような話を、朋哉から聞かされたことがあったのではなかったろうか。
でも、それは、この場所の話ではなかったはずだし、戦争がどうとかいう話でもなかったはずだ。
「……前も、同じ話をしてくれたことがあったかしら」
それには答えず、朋哉はただ、片方しかない目をすがめる。
薔薇の墓……。
御堂家にまつわる伝承めいた逸話は色々あるが、今の話は初耳だ。
朋哉の視線が注がれている場所は、小さな植え込みになっていて、確かに小さな大理石が二重になって置かれてある。
しかし、そんな思い出がこめられているとは思えないほど、それは目立たず、標さえない簡素なものだった。
「墓は、想いを封印するためにあるのだと、母が言っていました」
朋哉の静かな声がした。
想いを。
封印するために。
凛世は、朋哉の横顔を見上げる。
朋哉もまた、凛世を見ている。
二人の間を、花片を含んだ風が通り過ぎた。
「……朋哉」
時々。
時々、気のせいかもしれないけど。
片方しかない朋哉の目に、暗い情熱を感じる時がある。
何か、もの言いたいような、何かを伝えたいような。
でもそれはいつも、凛世が手を伸ばした途端、ふっと何事もなかったように消えてしまう。
「おやすみなさいませ」
口元に影のある微笑を浮かべ、朋哉は丁寧に頭を下げた。
「本のことは、ご自由になさいませ、あれはもう、凛世様のものでございます」
それはすでに、取り付くしまさえない、忠実な執事の声だった。
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