3
悠木朋哉は、代々御堂家に仕えるお庭番「悠木家」の最後の末裔である。
古くは草の者――要は、忍の家系だったのだろうと推測されるが、元禄以前の記録がないため、先代の系統は不明である。
悠木家は、武士の時代が終わるまでは、主人のボディガードとして裏方に徹し、明治以降、御堂家が商売をするようになってから初めて、「執事」として表舞台にでてきた。
執事としては、朋哉の父は三代目。
ただし、直系ではない。親族の一人ではあるが、婿養子である。
故習を守り、執事の仕事を受け継いだ生真面目な男だったが、不運なことに、朋哉が二つか三つの折に、車の運転中に事故死した。
その後、女執事として勤めたのが、朋哉の母親、悠木三千代。この母もまた、朋哉が小学校に上がって間もなく病死している。
悠木一族は、どういった事情からか、古より近親婚の確率が非常に高かったといわれている。朋哉の父母もまた、従兄妹同士だ。
そのせいもあってか短命の家系と言い伝えられているが、結局は夫婦とも、言い伝え通りの運命を辿ってしまったことになる。
大学を卒業後、正式に執事として屋敷に詰めるようになった朋哉は、順番で言えば、五代目の執事だ。
その朋哉は、母と共に御堂家の庭先に居を構えて住んでいたから、幼い頃は自然、六つ年下の凛世の遊び相手だった。
凛世に家族はいなかった。
朋哉のように、早々に両親と死別したわけではない。父と母と姉がいたが、三人とも、凛世が物心つく前から、屋敷にはいなかったのである。
末娘を一人置いての海外暮らし、その理由を、幼い凛世は、自身の身体が弱いせいだと信じ込んでいた。
が――。
「お前の母親は、神隠しにあったんだよ、凛世」
事情が判ったのは、小学校にあがってすぐの頃だった。
屋敷に同居していた、伯父の御堂遼太郎。
母の兄で、若いころ結核をわずらい、今も一日の大半をベッドの中で過ごしている男が、全てを打ち明けてくれたのである。
「お前が二つか三つの時のことだ……枝理世は一人きりで、この家を出て行ったんだ。クリスマスの夜だ、大雪でね、手も足も凍るような寒さを、今でもよく覚えているよ」
雪白の肌を持つ美貌の伯父は、悲しそうな目で、幼い凛世を抱きしめてくれた。
御堂枝理世、凛世の母の名前である。
「お母様を恨んではいけないよ、お母様にはね、お父様以外に、好きな人がいたようなのだ」
どんな前置きをされたとしても、その言葉に驚かないわけにはいかなかった。
「男の元に行こうとしたのか、それとも、死ぬつもりで家を出たのか、それはお母様にしか判らない。うちの山の頂に、クローバー畑があるだろう、今は立ち入り禁止だが、翌日、お母様の首飾りがそこで発見されてね……お母様は、あれから姿を消したきり、今でも行方が判らないんだ」
伯父は、警察から返ってきたという、母の遺留品を、はじめて凛世に見せてくれた。
きらめくダイヤのネックレスと、燃えるような真紅のストール。
眼を射るような色彩は、記憶の底に眠る母の姿を、一瞬だが鮮やかに連想させた。
「頂近くの雪の底に埋もれていたんだ。まるで、これだけ残し、世界から消えてしまったかのように」
写真でしか見たことのない母親は、柔らかく濡れた羽毛のような、けぶる美貌の持ち主だった。印象はひとつ違いの兄と同じで、笑っていても、どこか憂鬱気な厭世感を漂わせている。
生きていると思っていた母親は、実質、もうこの世にはいなかった。
伯父の物言いは、婉曲ではあるが、母の死を言外に暗喩している。
が、凛世を本当の意味で傷つけたのは、薄々何かの事情があると予感していた母のことではなく、伯父が、父親のことに言及した時だったのかもしれない。
「お前は母親によく似ている、だから成彦君は、お前を見るのが辛いんだろう。お父様を恨んではいけないよ、あれも可哀想な男なのだから」
凛世には、それこそ、想像もしていなかった一言だったのである。
御堂成彦、パリに住んでいて、年に一度しか帰らない父。
八歳年上の姉、香澄だけは、ずっと父親の手元にいる。
自分一人が日本に残されている本当の理由を、凛世はようやく理解したのだった。
物心ついてから、一度も、父の腕に抱いてもらった記憶がない理由も。
「香澄は、向こうで徹底的な英才教育を受けている。お前はその点、自由で身軽だ、いずれ成彦君がいい縁談をみつけてくるから、それまで、しっかりと花嫁修業をしておきなさい」
姉の香澄という人は、その翌年、失踪宣告期間を経た母の葬儀のために、ようやく屋敷に戻ってきた。
十七歳、優雅ですらりとした長身の、まるで西洋人形のように硬質な美貌を持つ少女は、遺影の母を目の前にしても、涙ひとつ浮かべず、再会した妹にも、殆ど関心を示さなかった。
というより、凛世はすぐに理解した。
姉もまた、父と同じ目で凛世を見るからだ。
まるで、失敗した絵画でも見るような――忘れてしまいたいものをうっかり見てしまったような、嫌悪をこめた眼差しで。
その頃から、凛世は、自分が父も姉にも疎んじられている本当の理由を、ある、おそろしい仮説と共に、想像するようになっていたのである。
凛世の疑念は、親戚筋の口さがない噂でも飛び交っていた。
御堂ご本家の、末の娘はもしかして――。
「お気になさることはございません」
凛世の救いは、ひとつだけだった。
「香澄様は、これからずっと、御堂の名前を背負って生きられるお方。末のお嬢様である凛世様と扱いが違うのは、当然のことなのでございます」
朋哉の言葉に、優しさに、凛世はどれだけ救われたか判らない。
朋哉はまだ高校生だったが、凛世の守護役という意味では、すでに立派な執事だった。
「凛世様には、凛世様のよいところがございます。私には、それがよく判っておりますから」
「私に?」
「ええ」
「どんな?」
問い詰めて聞くと、朋哉は少し考えるような眼差しになり、「蒲公英のような」と言い添えた。
「タンポポ…?」
花に例えれば薔薇しか思い浮かばない姉と比べて、どうなんだろう。即座に不満を表情に出した少女の前に、長身の青年は身をかがめ、いつもより真摯な視線を合わせてくれた。
「そよかな風で吹き飛んでしまうほど儚げなのに、その実、種はどのような地にも根を下ろし、力強い花を咲かせる。あなた様はそのように、腹の底に、怖くて硬い、根の強さを持っておられる」
怖くて、硬い。
いい意味なのか、悪い意味なのか、凛世は迷って朋哉を見上げた。
「それは私が……強いということ?」
「そうです」
信じられない。凛世は思わず眉をしかめる。
「お姉様より?」
「無論」
「では、朋哉は、お姉様より私が好き?」
いきなり飛躍したその問いに、朋哉はその刹那だけ、返答に窮していたようだった。
歳の近い朋哉と姉の香澄が、時折、親しげに話している姿を、凛世はよく目にしている。そうでなくとも、小学生の半ばまで屋敷にいた香澄と朋哉には、凛世の知らない、二人だけの思い出もあるだろう。
想像するだけで、凛世は、胸がざわめくような、悲しくてやりきれないような、不思議な気持ちにかられてしまうのだ。
「ええ、もちろん」
けれど、すぐにそう答えてくれた朋哉に、凛世はすでに恋をしていた。
それが、凛世が九つ、朋哉が十五の時である。
4
白のキャデラック・エスカレード。
十代からアメリカ車を好んで乗り回していた、八つ年上の姉、香澄の愛車である。
「お姉様は、もう帰っていらっしゃるの?」
「いいえ、今夜は少し遅くなるとのことでございます」
声は、硬質で、低くもなく高くもない。聞き取れないほどくぐもっているようで、明瞭に耳に響いてくる。周囲の喧騒に溶け込んだような輪郭の曖昧な声。
運転席に座る人の表情は、バックミラー越しにしか確認できない。
シート越しに見える、緩い癖がある褐色の髪と、広い肩。
二人きりになると、凛世の胸は乱れてざわめく。
しかし、女性と見まがうほど綺麗な指でステアリングを握る初恋の人は、今となっては、イギリスと日本より遠い場所にいる人だった。
悠木朋哉。
二十五歳になった男は、すでに“結婚”している。
籍は入れていない、いわゆる内縁関係。いずれ入れるのだろうが、今は、様々な障害があるに違いない。
朋哉の内縁の妻になった相手は、凛世の姉の御堂香澄。
父が急逝した今、御堂グループの、実質後継者となった女主人である。
夜の街が、サイドガラスを流れていく。凛世は、バックミラー越しに、朋哉を見上げた。
「今度、日野原さんがうちに来たいと言われるのだけど、いいかしら」
「いつごろでございますか」
「わからないけど、多分、次のお休みの日くらい」
帰国してしばらくは、凛世の気持ちは千々に乱れ、朋哉の傍にいるだけで、不思議なくらい挑発的になり、時に舞い上がるほど幸福になり、自分でも泣きたくなるほど攻撃的になったりもした。
裏切られた――幼い恋心は、凛世にとっては永遠でも、朋哉にとっては戯言だったのだ。
が、今は、全ての感情が抜け落ちて、空っぽになった寂しさだけが、虚ろのように凛世の中に残されている。
日中は執事としての業務をこなす朋哉は、夜になると姉の部屋に消えていく。朝までの時間寝食を共にする二人は、実質夫婦も同然の暮らしぶりで、そこに、幼い昔の恋が入り込む余地は、最早何ひとつ残されてはいない。
「では、準備をしておきましょう」
「伯父様はどうおっしゃるかしら」
「病院に行く日を変更して、お留守の時にいたしましょう」
「じゃあ、お願いするわ」
交差点で車が止まる。
「それと、結婚の前に、一度私もロスに行きたいと思ってるんだけど」
「それがよろしいかと存じます」
「泊まってもかまわないかしら」
「日帰りされるほうが、難しいでしょう」
どこかで彼を試したいと思ったのかもしれない。よどみない朋哉の返答に、凛世はわずかに傷ついて、無言で窓の夜を見上げた。
「……雨が降るかと思ったわ」
ステアリングに添えられた長い指。何も答えない朋哉が、今何を考えているのか、凛世にはまるで判らない。
家の仕事のことなのか、それとも、今夜共に過ごす姉のことなのか。
それとも――わずかでも、後部シートに座っている、いずれ義理の妹になる女のことを考えてくれているのか。
再会して以来、まるで別人のように、よそよそしく無口になった男のことが、凛世には、もう、何ひとつ理解できない。全てが――佳貴の言葉を借りれば、謎だ。
彼が片方の目を失った、その詳細ないきさつもまた、謎のままであるように。
不意にバックが振動する。着信音で判った、先ほど別れた婚約者からだ。
『凛世?』
電話から聞こえる声は明るかった。
『今夜は、本当に楽しかった』
「私も……」
凛世は思わず朋哉を見上げる、鏡に映る眼差しは、微動だもしていない。
『やっぱり日本にいる間に、君の家にお邪魔しようと思ってね』
窓の外の景色と同様、婚約者の声が、意味もなく通り過ぎていく。
日野原佳貴には申しわけないが、かすかに芽生えつつある好意も、かつて恋した男の前だと、なんの意味もない燃殻のようなものだった。
『僕の日本での、最後の思い出にしたい。かまわないかな』
佳貴もまた、運転手付の車でリラックスしているのか、声はひどく悠長だ。
『それでね、その時、ぜひ、見せてほしいものがあるんだ』
電話越しの声が、前の車のクラクションで、一瞬途切れた。
『凛世は、面白い童話の本を持っているんだって?』
「え?」
『実は以前、……君と正式に婚約する前だったかな、論文に使うイルイコンインタンモノの資料を集めていたことがあってね。その時に、君が、面白い絵本を持っているから一度見せてもらったらどうかと教えてもらったことがあったんだ』
「絵本?」
驚いたふりをしながら、凛世の頭に浮かんだ本はひとつだけだった。
<怪物とお姫さま>
元々は朋哉のものだったそれを、約束どおり、凛世はイギリス留学中に、空輸で送ってもらっている。
以来、大切に箱に保管して鍵を閉め、誰にも見せてはいない。
本に限らず、朋哉との思い出に繋がることは、凛世は一言も他人には漏らさない。自分だけの大切な宝物だからだ。
「イルイ……コンイ、タンって」
『異種間動物の結婚を扱った民話だよ。狐と人間、鶴と人間、異類婚姻譚、そういった民話や童話の資料を集めていたんだ、当時。日本で未発表のオリジナル物は貴重でね、話を聞いて、ぜひ読んでみたいと思ったけど、あの頃は、まだ君とは会ったこともなかったから』
「それは……お姉さまに、聞いたの?」
動揺を抑えて凛世は聞いた。
『うーん、……多分ね。随分前だし、何かのついでに聞いたことだから忘れたよ。……どうだったかな、もしかすると、君のお父さんに聞いたのかもしれない』
佳貴は、姉とは同じ大学の学友で、死んだ父とも個人的に親交が深かった。凛世との婚約は、そもそも父が企てたもので、急逝した後、急速に推し進めたのが姉の香澄である。
多分、お姉さまだろう。
凛世は思わず運転席を見上げるが、丁度交差点に入った所で、朋哉の意識は運転に集中しているようだった。
『タイトルは忘れたけど、確か、怪物と……』
「怪物と、お姫さま」
『そう、それだ』
男の声に喜色が走る。
『随分前の話で忘れていたけど、君の家に遊びに行くついでで思い出した。ぜひ、一度読ませてもらえないかな』
姉のことで頭が一杯になった凛世の耳に、佳貴の言葉は上手く咀嚼できない。
また、お姉さまが、あの本を狙っているのではないか。直接は無理だから、今度は日野原さんを使って――凛世の飛躍する疑惑には、そう思うに足る理由がある。
『凛世?』
「あれは……、どこにしまったか、忘れてしまって」
凛世は言葉を濁す。
そして、そっと、バックミラー越しに、朋哉の表情の変化を伺い見る。
けれど、わずかにすがめられた男の目は、片方の視力のなさを補う必要があるせいか、相変わらず、目の前の道路状況のみに集中しているようだった。
『だったら、もう一度、探してみてくれないかな。日本の作者のものなら、すごく興味があるんだ。ぜひとも、日本を発つ前に見せて欲しい』
熱のこもった口調に、断る口実を考えていた凛世は、諦めの息を漏らした。
「じゃあ、探してみるわ、でも期待しないで」
『ありがとう、休みが取れそうな日を連絡する。会えるのを楽しみにしているよ』
二十歳になったらという約束もね。
囁くように言われ、通信が切れた。
凛世は眉をひそめたまま、手の中で携帯を閉じる。
興味の対象がふいに変わるのは、佳貴にはよくある癖だが、誕生会の席でさえ一度も出なかった話題を熱心にされたことに、どことなく、不思議な違和感が残る。
が、佳貴のことより、凛世の意識は、姉と朋哉のことで溢れそうなほどになっていた。
(―――この本のことは、誰にも申されてはなりませんよ)
こっそり遊びに入った朋哉の家の二階で、見つけた絵本。
夢中で読んでいたら、戻ってきた朋哉が、珍しく怖い目でそう言ったのを、凛世は、昨日のことのように覚えている。
どうして? 少し驚いてそう訊いた。
どうして、誰にも言ってはいけないの?
その時、朋哉はなんと答えてくれたのだろう。目が怖かった記憶は鮮明だが、理由までは曖昧にしか覚えていない。確か、死んだ母親の言いつけで……そんなことを言っていたような記憶がある。
そして、<怪物とお姫さま>は、二人の初めての秘密になった。
イギリスに空輸してもらった時も、手紙でこう書いてくれたはずだ。
お飽きになられたら、凛世様が処分してくださいませ。凛世様一人のお楽しみとして、くれぐれも。
朋哉らしい意味深な簡潔さで、それは暗に「他人に見せてはなりませんよ」と、念を押されているような気がした。
が、ロンドン在学中に凛世は知った。<怪物とお姫さま>を読んでいたのは、凛世一人ではなかったのだ。
姉の香澄もまた、同じ思い出を共有していたのである。
朋哉が片目を失ったと聞いた時、凛世の胸に、不謹慎にもひらめいたのは、絵本に出てくる怪物のことだった。
子供の頃の甘美な空想――お姫様のために片目を失った怪物。お姫様が凛世で、怪物が朋哉。
けれど、現実のお姫様は、凛世ではない。
辛い想像が胸をしめつける。朋哉に、姉との思い出を聞いてみる勇気も、意味も見出せないまま、凛世は黙って、サイドガラスに映る自身を見つめ続けた。
今夜のために、サロンでセットした巻髪、ティアラ状の、小さな真珠を散りばめた髪飾り。オートクチュールであつらえた白のワンピース。
ふいに、すべてが虚しくなった。泣き出したくなった。
「朋哉」
「はい」
背後の話などまるで聞いていなかったような、平常どおりの声が返ってくる。
もうすぐ、わたし、二十歳になるのよ、朋哉。
言葉の代わりに、溜息が漏れた。
あんな馬鹿げた約束、一日も早く忘れたい。
なのにどうして、こんな薄情で残酷な男に、いつまでも心を奪われたままなんだろう。
「なんでもない、眠たいから、もっとスピードを出して」
姉との婚約は、伯父からの手紙で知らされ、帰国前から覚悟はしていた。いや、それ以前に、何度手紙を書いても一度として返事をくれない朋哉の態度から、ある程度の結末は予想していた。
それでも、帰国した時、空港に出迎えに来てくれたスーツ姿の朋哉を見て、凛世は一瞬で、強烈な恋に落ちてゆく自身を感じた。
子供の頃の想いは、決して憧れでも錯覚でもなかった。
むしろ、六年の別離で、それはいっそう深く激しくなっていた。
朋哉の指の冷たさも、額に触れた唇の温みも、大好きだった笑顔も、思い出すだけで――胸が痛むほど切なくて苦しい。
なのに。
(二十歳になったら、凛世は朋哉のお嫁さん)
約束は、今はただの笑い話にすぎない。
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