第一章 人喰山の化け物屋敷




        1

「おめでとうございます!」
 ウエイターの合図と共に、異国のオーケストラが演奏を始める。
 左右でシャンパンが勢いよく開けられて、凛世は思わず耳を塞いでいた。
 アルコール解禁日まで、あと一月。
 一足早いバースディパーティ、けれど、記念のワインだけは、グラス一杯、口にしている。
 傍らに座る人の腕には、どこに隠していたのか、あふれかえるほどのバラの花束。目を射るほどの深紅、降り注ぐ香酒より、芳醇な香り。
「二十歳おめでとう、凛世」
「ありがとう、日野原さん」
 彼らしい大げさなサプライズとプレゼント。
 戸惑いと恥ずかしさが先立ったが、それでも凛世は、柔らかい笑みで、婚約者の祝いを受け取った。
 あっけにとられていた周辺の客から、まばらな拍手が送られる。
 六本木。
 オーケストラの生演奏が楽しめるフレンチレストランは、最近できたばかりの、セレブ御用達の人気スポットである。
 スタイリッシュで高級感あふれるインテリア、美男美女を取り揃えた従業員、全て現地から取り寄せた新鮮な食材と、一流シェフの見事なコーディネイト。
 すでに半年先まで予約が一杯の店は、芸能人、スポーツ選手などの利用者も多いという。
「私の誕生日も、あんなサプライズをお願いできるのかしら」
「無理だよ、彼らは特別だ、ここのオーナーの息子さんだから」
「あら、じゃあ、日野原グループの?」
 そんな囁きが、連れ立って通り過ぎる夫婦連れから聞こえてきた。
「素敵……香りだけで、胸がいっぱいになりそうよ」
 花束をウエイターに手渡しながら、凛世は感嘆のため息をついた。
 受け取った濃いワイン色の薔薇は、おそらく百本は下らない。
「ありがとう、日野原さん、プレゼントなら、これだけでもったいないほどなのに」
 ためらいがちに、自分の胸元をそっと押さえる。
 今朝、ここにいる男から家に届けられたプラチナダイヤモンドのネックレス。数カラットのダイヤをあしらったそれは、パリの専門店であつらえた特注品だ。
「安物だよ」
 目を細めて、半年前に婚約を交わした男はかすかに笑った。
 日野原佳貴。
 名字だけで誰もが頷くほど有名な閨閥の出。日野原佳貴は、金融、建設分野を牛耳る、日本を代表するグループ企業総帥の一人息子である。
 オートクチュールのスーツを優雅にまとった現代の貴公子は、顎の下で指を組み、彼らしい――人生の余裕に満ちた笑みを、唇に淡く浮かべた。
「でも、いつものクルスより似合っているな」
「向こうで洗礼を受けたの、記念だから外せなくて」
「宗教なんて何の意味もない、今夜から、それをつければいいさ」
 ほとんど挫折らしい挫折も知らず、将来の憂いもない男。
 ある種の超越したゆとりと、それに伴う憂鬱を、いつも、うっすらと浮かべる笑顔の中に含ませている。
 取りようによっては、ひどく嫌味な笑い方でもある。しかし彼は、まるでそれが癖であるかのように、見合いの最初から、いつも同じ笑い方で凛世を見た。
「しかし、誕生祝が前倒しなのが癪に障る、本当は当日、もっと盛大に祝ってあげたかったんだけどね」
「仕事だもの、そっちを優先して」
「ものわかりのいい君はそう言うと思った。実は、僕がそれを口実にして、仕事から逃げるつもりだったのさ」
 グラスを持ち上げ、今度は本当に楽しそうに、佳貴は笑った。
 現在二十九歳、父の元で、経営者としての実務を学んでいる男は、来週、ロサンゼルスに日野原銀行支社長として転勤する予定になっている。来春の結婚を待って、凛世もまた、ロスに移住することになっていた。
「まぁ、世の中なんて、何をしてもたかがしれてるけど」
 幼少の大半を海外で不自由なく過ごし、あらゆる博士号を取り、あらゆる趣味をやりつくした男は、冷めた目で肩をすくめた。
「世界で一番退屈な仕事が銀行マンだと思っていたら、自分がそうなるとは夢にも思ってなかったよ」
「大変な仕事だわ」
 実際、何をしても、どこか退屈そうな厭世感を醸しだす男に、凛世にはそうとしか言えない。
 おそらく俗に言う放蕩息子だった佳貴は、やりたいと思うことは全て遣り尽くし、全てに飽きているのだろう。
 何を志しても、しょせんは趣味にとどめなければならない。彼の将来には、決して脱線できないレールが一部の隙もなく引かれているからだ。
 レールのひとつが自分だと、凛世は、どこか所在ない気持ちで、隣に座る婚約者を見上げた。
「夕べ、日野原さんの書かれた本を読んだわ」
「それは、さぞかし退屈だったろうね」
 褒め言葉を何より嫌がる佳貴は、専制のように、肩をすくめる。
「おもしろかったわ、なんだかミステリーを読んでいるみたいで」
 イギリスで経営を学び、最高の成績で卒業した佳貴は、その傍らで、地方に伝わる伝奇や童歌、民間伝習の研究に没頭していた。いくつもの論文を書き上げ、学会にも上梓している。
 彼の書いた、驚くほどマニアックな知識にあふれた著書を読めば判る。
 佳貴の頭脳は理系ではなく、むしろ限りなく文系。今東西の推理小説を愛読し、暗号解読に熱中し、世間を騒がせた怪現象、迷宮入りした事件、異端奇談などを独自の解釈で解き明かしている。
 凛世は内心思っている。
 この世界に、彼にふさわしい職業がもしひとつあるとすれば、それは――探偵。
 日野原佳貴のこういう一面を知らなかったら、九つも年上の、しかも初対面の男との結婚に、もっと憂鬱になっていただろうと思う。

      2

 スコットランドで学生生活を送っていた凛世が、いきなり日本に呼び戻されたのは、昨年の秋の終りだった。
 当主である父、御堂成彦の急逝。突然の訃報が、まだ受け入れられないでいる内に、日野原佳貴との見合い話が持ち込まれた。
 持ってきたのは、凛世の八つ年上の姉、香澄である。
 まだ喪も明けていないのに――と、親戚中が反対したが、婚約は死んだ父と日野原家が内々で交わしていた約束でもあった。結局は父の遺言のひとつとして、一周忌が過ぎた来春を待って、正式に結婚する運びとなったのである。
 日野原の家でも、随分反対が多かったと聞く。理由は、会食の席で、佳貴の母親から聞かされた。
(凛世さんがどうというのではないのよ。ほら……御堂さんの家は、色々ご不幸続きというか、縁起が悪いと煩く言うものたちがいたものだから)
 思いつくだけでも、佳貴の母の言う「不幸」とは随分あるような気がした。が、凛世の心を瞬時に満たしたのは、灰色の靄に覆われた過去――十二歳の夏に起きた出来事である。
 不思議なことに、十二歳の夏の始まりから終りにかけて、凛世の記憶はひどく曖昧でところどころが抜け落ちている。印象的な場面や言葉は覚えているのに、前後の繋がりがどうしても思い出せないのだ。
 何か、尋常ではない出来事が起きたことだけは朧げに記憶している。屋敷に押し寄せた怖い顔をした男たち。いきなり決まった留学。一歩も山から外に出られなかった夏休み。
 いったい、あの夏に何が起きたのか――事実は、留学先で、友人から見せられた新聞の切り抜きによって知らされた。
 丸く切り取られた写真の下の記された名前は、御堂家に住み込みんでいた女中の、一人娘のものだった。
 凛世が日本にいた最後の夏――娘は、無惨な他殺体となって発見されていたのだ。
 遺体が見つかったのは、御堂家がある山の麓。相当な騒ぎになっただろうが、不自然なほど凛世は何一つ覚えていない。ただ、灰色の服を着た男たちがぞろぞろ屋敷にやってきて、その中の一人が――。
(君は、早く、この家を出なさい)
 男の言葉だけは、口調も、声音も、まるで昨日のことのように明確に覚えている。
 カリヤ――カリヤ刑事。
「そういえば、ひとつお願いがあるんだった」
 グラスを持ちながら、ふと気づいたように佳貴が口を開いた。
 凛世は瞬きをして、過去の回想から引き戻される。
「ロスに行く前に、一度、君の家に行ってみたいんだ」
「そうね」
 頷きながら、凛世は少し言葉を濁した。
 婚約まで交わした佳貴を、まだ一度も、凛世は家に招いたことがない。むろんそれには、理由がある。
「ただ、うちは本当に古くて……お姉さまから聞いたと思うけど、もうじき建替えになるの。その後にいらしていただけたら」
「だったら尚更今がいいな。明治の建築物なんて、もう滅多に残ってないんだ」
「……じゃあ、伯父様の体調のいい時にでも、都合を聞いてみるわ」
 答えながら、おそらく、日野原さんを家に呼べば、伯父が嫌な顔をするだろうな、と凛世は考えていた。
 自宅には、凛世が生まれる前から同居している伯父がいる。
 物静かで優しい男だが、ひどく閉鎖的な所があって、昔から屋敷に客を入れるのをあまり好まない。というより、あからさまに嫌悪している。
「君の家には、何だか、からくりがありそうなんだ」
 佳貴は、目にいたずらめいた輝きを浮かべ、顎の下で指を組んで凛世を見あげた。
「武家屋敷が元になっているからかな。何か、秘密の仕掛けがあるような気がする。隠し部屋とか、秘密扉とか」
「そこまで古くはないわ」
 笑って、ケーキの皿を引き寄せながら、凛世は、自身の屋敷のことを思い出していた。
 日中でも陽が射さないほど暗い山中、草深い土地と鬱蒼とした木々に囲まれ、まるで下界から孤立するように建てられている。
「……人喰山の化け物屋敷」
 凛世は顔を上げていた。呟いた佳貴の目は笑っている。
「怒ったかな? でも麓では、御堂邸はそう称されているようだね」
「知っているわ」
 さすがに憂鬱な気持ちになる。不気味な山の外観や、過去に起きた忌わしい事件の数々が、そのような印象を与えているのだろうが、屋敷には御堂一家が住み暮らしているのである。
「御堂家の歴史にも、僕は、非常に興味があるんだ。屋敷に古文書でも残っていれば、ぜひ、見せてもらいたいな」
 言葉を切り、ふと時計を見る佳貴の仕草で、凛世は、この時間に終わりが近づいていることに気がついた。
「……ごめんなさい、九時には家から迎えが来るの」
「いつもの彼?」
 彼の経歴と同じで、一部も隙もない白い歯を見せて笑いながら、佳貴はケーキ皿を押しやった。
「執事ね、なんとも時代錯誤な名称だ」
「秘書のようなものよ」
 凛世は時計を見る。もう、その“執事”が車をつけている頃だ。
「確かに、我が家にも家計専門の秘書はいるよ。母一人では資産管理まで手が回らないからね。でも、君の家のように、代々一族の長子が世襲して、執事として仕えているなんてことはない。主家と従家、まさに前時代の遺産だ」
「……そうね」
 凛世にはそれがずっと普通だったし、当たり前だった。
 麓の小学校に通うようになって、初めて、周囲の反応で知った。
(執事?? なにそれ)
(すっごーい、凛世ちゃんち、超お金持ちなんだね)
(同じ家に、じゃあ、あんなかっこいい召使が住んでるの?)
 召使――そんな言い方をされたことに、むしろ凛世が傷ついたのを覚えている。
「曾祖父が西洋かぶれで、昔からいたお庭番を、執事と呼び始めたのがきっかけだという話だけど」
 凛世の生家、御堂家は、城主まで勤めた士族の末裔である。明治以降、広大な土地を利用して商売を初め、一躍富豪の地位を得た。
 不動産事業は、親族により、ますます多角的に展開し、現在では、御堂不動産という日本を代表するグループ企業にまで成長している。
「お庭番といえば、戦国時代では、いわゆる暗部、忍びだよ。陰ながら主家を守る暗殺部隊みたいなものだ」
 得たり、とばかりに、佳貴が喜々として口をはさむ。
「お庭番の子孫が、代々君の家の“執事”職を受け継いでいるんだろう? もしかして、忍の秘事が受け継がれているとか、そういうこともあるかもしれない」
「飛躍しすぎよ、日野原さん」
 苦笑して、凛世は、佳貴の饒舌をやりすごした。
 相手が誰であれ、執事家に関する話を続けるのは、凛世にとっては苦痛でしかない。
「ただ、君の家の執事は若すぎる」
 少し慌しい帰り際。
 いったんは終わったその話題を、佳貴がふいに蒸し返した。
「そして、危険なほど魅力的だ、あの目も含めて」
 乗り込んだエレベーターが閉じると同時に、佳貴に抱き寄せられていた。
「彼の存在自体に、非常に興味をそそられるよ」
 少しアルコールが入っている。
 いつもと同じで、凛世は曖昧に顔をそらしてキスを避ける。
「妬けるな」
 相変わらず冷めた眼差しは、どこまで本気か判らない。けれど、今夜の佳貴の抱擁は、いつもより執拗だった。
「今度、君と彼の秘密を教えてもらわないとね」
「誤解よ、日野原さん」
 言葉を遮る甘いキスは、かすかにシャンパンの香りがした。
 何度求められても、凛世は唇を開けない。
「凛世は可愛いな」
 最後に額に唇が触れて、いつものように、あっさり佳貴は腕を離した。
「一体、君の謎が解けるのはいつなんだろうね」
 内心を見抜かれていることに、凛世は戸惑って視線を下げる。
「夕方、少し翳っていた、雨が降っていないといいけどね」
「ええ……」
 それきり、互いに無言になりながら、改めて、婚約して半年も、唇を引き結んだキスで誤魔化し続けてきていることに、凛世は、申し訳なさを感じていた。
 いつか、彼を本当に愛することができたなら。
 けれど、凛世は知っている、そんな日は絶対にこないことを。彼だけでなく他の誰に対しても――知っているからこそ、凛世は姉の勧めるままに、佳貴の婚約を決めたのだ。
(約束)
「……日野原さん」
「ん?」
 頭の切り替えが早く、もう、意識を別の所に向けていたらしい男は、思いつめた目をした凛世を訝しげに見下ろした。
(二十歳になったら、凛世は朋哉のお嫁さん)
「二十歳になったら」
 凛世はそう呟いて、ためらいながら、佳貴を見上げた。
「日野原さんの部屋に、泊まりに行くわ」
「え?」
 エレベーターが、目的の階で停まる。
「部屋って、じゃあロスに来るってこと?」
 降りながら、いきなりの申し出に驚いたのか、佳貴の声が戸惑っている。
 うつむいて、凛世はただ、こくん、と頷く。
「じゃあ、引っ越したら、早く掃除しないといけないな」
 しかし、笑いを含んだ声でそう言った佳貴の足が、地下駐車場の手前で、ふと止まった。
「……やっぱり、妬けるな」
 かがみこんで耳元に口を寄せ、佳貴が囁く。
 地下駐車場。
 その人はもう、折り目正しい姿勢で待機していた。
「こんなロマンチックな約束を交わした夜に、君を家まで送るのが、僕でなく彼だということにね」
 格子柄のシルクシャツに黒のタートル、黒いパンツ姿の白皙長身の男は、エレベーターホールから出てきた二人を認め、丁寧に一礼する。
「お迎えにあがりました、お嬢様」
 御堂家の執事。
 悠木朋哉は顔をあげ、静かな目で凛世を見下ろした。
 昔と変わらず水青を湛えたように美しい、けれど今は、片方しかない瞳で。

  
                   






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