「約束をちょうだい」
 凛世がそう言うと、朋哉は、切れ上がった野生の目を緩めて微笑した。
「そうでしたね」
 凛世より六歳年上の大人びた少年は、自らの首に腕を回して、ペンダントの鎖を解く。
 差し出された白い手のひらには、色あせたシルバーの鎖。銀の欠片が、午後の日差しを受け、鈍い光を放っている。
「なぁに?」
 首をかしげて凛世は問った。
「私の母の形見です」
 形見……。
 言葉以上に、それは、目の前に立つ彼にとって、とても大切なものに思えた。
 十年も前に病死したという彼の母親は、肩越しに見える、赤いポインセチアの葉陰の下で眠っている。
 ふと不思議な感慨にとらわれる。凛世の母もまた、この場所で死んだのだ。
「なんの形?」
「これは楔でございます」
 ――クサビ……?
 小指の先ほどの大きさの、薄い板状の銀飾りが、鎖にかかって揺れている。
「凛世様に」
 凛世にとっては、六つ年上の幼馴染、悠木朋哉。
 凛世の家に、代々住み暮らしている執事一家の一人息子は、まるで自身が忠実な僕であるかのように、六つ年下の少女の前に、うやうやしく歩み寄った。
 実際、幼い頃から沢山の使用人に囲まれて育った少女は、その扱いをごく自然の振る舞いとして受け止める。
 人里離れた山間に、あたかも下界から遮断されてでもいるかのように建立された自分の家が、世間とはどこか異なった存在であることを、十二歳の少女はある程度正確に理解していた。
「本当にもらってもいいの……?」
「ただし、一度お手にされたら、誰にも、お見せになりませんよう」
「何故?」
「これはあなた様を守る楔。他人の目に触れれば力が薄れると、そう母に聞かされましたから」
 影が重なって、首に、冷ややかな鎖がかかる。
 凛世は、この鎖が、自分と彼を、このまま一生縛ってくれればいいと思った。
 本当に思った。
「お元気で」
「……朋哉も」
 凛世は、寂しさを押し殺して、かろうじて答える。
 明日からはじまる、イギリスでの留学生活。
 日本を発つのは今日の午後、おそらく成人するまでは戻ってこられないだろう。
 牢獄のような屋敷にも、始終憂鬱な顔をしている伯父にも未練はなかったが、朋哉と別れることだけが、凛世には辛い。
「留学するなら、朋哉も一緒だと思っていたのに」
「そのようなことも、申されてはなりません」
 真顔でたしなめる朋哉。感情のままに口を開きかけた凛世は、ふと言葉を止めていた。
 滑らかな白磁のように美しい朋哉の頬。明るい日差しの下、そこに一筋の、削いだような傷痕が浮き出している。
 凛世の視線に気づいたのか、朋哉はわずかに笑って頬の傷に指を当てた。
 その所作に、凛世は不思議な高揚と、胸の動悸を感じている。
 彼の傷が、自分のために出来たという誇らしさ。けれど凛世には、朋哉がどうして頬に傷を負ったのか、何故、自分のためだったのか、正確な理由までは判らない。
 一生懸命思い出そうとするのだが、頭の中に灰色の靄がかかったようになって、どうしても思い出せないのだ。
 ただひとつ、はっきりと記憶している声がある。
(君は、早く、この家を出なさい)
(大人になったら、怪物に食べられてしまうからね)
 カリヤ刑事――周囲の人たちから、そう呼ばれていた男の声。
 朋哉の周辺につきまとう、黒い影のような男の声。
 意味は判らないまでも、それは不思議な不安の種を凛世の心に植え付けて、そのせいか凛世は、朋哉の頬の傷について、深く言及することを避けている。
 朋哉もまた、静かな眼差しで微笑するだけで、何も語ろうとはしないのだった。
 風が、二人の前に広がる湖水を揺らす。
太陽の日差しが宝石のように、さざめく水面に乱反射した。
 一面のクローバー畑。宝石のように美しい碧が、ざざっと音を立てて、ひとつの方向に流れていく。
 夏の初めの心地いい風。
 もう、別れの時間が迫っている。
「あの絵本を探してくれた?」
「本ですか」
「そう、怪物とお姫さま」
 一瞬黙り、朋哉はすぐに苦笑した。
「あんなものを、どうして今更」
「だって、もう一度読みたいもの」
「子供の頃に読んだきりでしょうに」
「忘れられないわ、だって、あれには結末がないんですもの」
 少しむきになって言い返していた。
 子供の頃、朋哉の部屋で見つけ、夢中になって読んだ絵本。
『怪物とお姫さま』
 手作りの絵本というのを、凛世は生まれて初めて目にした。
 B4版で、厚さは二センチくらい。
 表紙は、洋書のカバーのようなしっかりした素材で、緑地に金刺繍でタイトルが刻まれている。中紙も一枚一枚が厚手で、手触りは、少しざらざらしている。
 ところどころ文字が滲んでいるので、よくよく目を近づけてみて驚いた。絵も文字も、全て直に描かれている。
 随分古いものなのだろう、インクは褪せ、色彩も精細をなくしているが、文字も絵柄も市販のものより、よほど丁寧で美しい。
 しかし、そっと開かなければ、ばりばりと糊が剥がれ、瓦解してしまいそうなほど痛んだ本は、何故か、ラストのページが破りとられていた。
 何度読んでも、結末は想像するしかない物語。
(この絵本は、母の遺品のひとつで、最初から不完全な状態でした、私にも出所はわかりません)
 当事、そう説明してくれた朋哉もまた、物語の結末は知らないようだった。
 どうしてだか、イギリス留学が決まってから、凛世はもう一度、その不思議な本が読んでみたくなったのである。
「見つかったら、お送りしますよ」
 朋哉は優しい目で微笑する。
 切れ長の、澄んだ湖の光をたたえた双眸。
 不意に凛世は、胸が苦しくなるのを感じた。
「凛世のこと、……好き?」
 無言のまま、微笑する朋哉。
「お姉様より、好き?」
「香澄様も、凛世様も、どちらも、大切なお嬢様です」
「どちらかといわれたら?」
 二つの煌く瞳に込められた真摯な光、それが答えだと凛世は思った。
 何よりも、今日もらった、このペンダントが。
 誰にも見せてはいけないということは、この世界で朋哉一人になら、衣服の下に隠した秘密を見せてもいいということだ。
「これは結婚の証よ、朋哉」
「結婚ですか」
 十二歳の少女の言葉に、十八歳の少年は、笑いながら眉を下げる。冷たい顔が別人のように柔和になる。凛世はこの笑顔が大好きだった。
「うん、だって朋哉は前、凛世を一生守るといったもの」
 見渡す限りのクローバー。白い花弁が風に舞い散る。
「待っていてくれる? 凛世が日本に戻るまで」
「お待ち申し上げております」
「約束……」
 行きたくない。
 本当は、朋哉を連れて行きたい。
 表向きの理由とは別に、この留学には、もっと深い意味があることを、凛世は子供心に理解している。
 その予感が本当なら、行ってしまえば、おそらく呼び戻されることはないだろう。自分の力で生きていけるようになるまでは。
 凛世は目を閉じる。期待していたわけではないのに、少しの間があって、ためらったような唇が、ほんのわずかに額に触れた。
「……お体に、気をつけて」
――大好き……。
 舞い上がってゆく気分のまま、凛世は踊るようにくるりと回った。
「約束よ、朋哉」
 一面のクローバー畑。
 世界の全てが、今、二人のためにあるような気がした。
「二十歳になったら、凛世は朋哉のお嫁さん」



「そしてお約束くださいませ。私のことは未来永劫、決してお姫さまに話してくださいますな」
  
                   





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