3

「解いていい……?」
「どうぞ」
 頭の後ろに手を回して、凛世は彼の目を覆う包帯を解いた。
 ゆるやかにほどけた白い包帯が、波打って床に落ちる。
「見える?」
「はっきりと」
 わずかに残る傷跡も、ほとんど気にならないほど、周囲の肌色に溶け込んでいる。
 いつもと変わらず、片方の目だけで、朋哉は静かな微笑を浮かべた。
 治療を受けながらの拘置所生活が長かったせいか、頬が多少やつれている。
 医師から、視力には問題ないと言われてはいたものの、それでも、実際包帯が取れるまで、凛世は不安でたまらなかった。
「身体の方は……?」
「大丈夫です」
 話すことは沢山あるはずなのに、それ以上言葉が出てこなくなる。
 ソファで並びあって座る朋哉から、凛世は少しぎこちなく視線をそらした。
「狩谷さんから、書類送検だけで済みそうだって聞いたわ」
「随分迷惑をかけてしまった……それで済んだのが不思議なくらいです」
 警察病院に一月あまり収容されていた朋哉の、今日が退院日でもあり、ようやく身柄が自由になった日でもあった。
 朋哉の罪状は、すでに時効となった死体隠匿と、日野原佳貴の件での証拠隠滅。
 母の亡骸は、すでに朋哉の手で頂に葬られていた。悠木三千代と、その夫の傍らに――。
 いつも頂で手を合わせていた朋哉が背負い続けていた重みを思うと、凛世は耐えがたいほど胸が痛む。
 拘留中に逃亡した件では、担当警官の誤射と引き換えに、起訴は見送られることになった。目的が人命救助のためだったというのも朋哉に有利に働いた。この件では、おそらく狩谷が、随分尽力したに違いない。
「……しばらく、このマンションで生活することになるけど」
 凛世は、ためらいがちに言って立ち上がった。
「香澄様にお聞きしました」
 取り壊しを早めた御堂邸は、今、解体工事に入っている。
 姉は仕事場の近くにマンションを借り、凛世と朋哉もまた、会社が保有するマンションの一部屋を与えられた。
 ここは朋哉の部屋で、凛世の部屋はすぐ隣にある。
 建て替えまでの間、朋哉の住処を凛世の隣にしてくれたのは、姉の計らいだったのだろうが、凛世には一抹の不安があった。
「朋哉は……自由になりたい?」
「自由?」
「…………」
 もう、御堂の家に仕えるという立場など捨てて。
 一人の人として、男として。
「お姉様は……いずれ朋哉に、会社を任せるおつもりのようよ」
「知っています、けれどそれはお断りしました」
 香澄が朋哉を内縁の夫として扱っていたのは、いずれ彼に父の後を継がせようという布石だったのだろう。
 が、それだけでは説明できない、複雑な女心も隠されていたに違いない。
 母をどんな言葉で追い詰めたか、香澄は言わないし、凛世も聞かない。
 姉が、どのような経緯で知り得たかは想像するしかないが、おそらく――凛世の出生の秘密に係ることだろう。
 ゆえに、朋哉に惹かれた自分が、いっそう許せなかったのかもしれない。
「これから……どうするの」
 そして朋哉も。
 そんな姉の傍に、自分がついていようと決めたのに違いない。
「香澄様のお許しがあれば、このまま、御堂の家に仕えていきたいと思っています」
 変わらない朋哉の声が返ってくる。
 寂しさを押し殺し、凛世はうつむいてカーテンを開けた。
「もう、敬称なんてつけなくていいのに……私にも、お姉様にも」
「ずっとそうお呼びしてきたので」
 解いた包帯を片付けながら、朋哉の横顔が苦笑する。
「これからも、そうお呼びさせていただければと思います」
「…………」
 朋哉は今。
 どういう立場で、どういう気持ちで、私の前にいるんだろう。
「お姉様は……どうして私たちを、隣り合わせにさせたんだと思う?」
 それには、返事は返ってこない。
「私たち……何?」
 不安にかられて、凛世は背後の朋哉を見下ろす。
「何、とは?」
「……………」
 恋人なの?それとも。
「昔の……まま?」
「……………」
 朋哉の唇が、何かを言いかけるように開く。
 答えを聞くのが怖くなって、凛世はそのままきびすを返していた。
 朋哉の気持ちを、一度でも言葉で確かめたことがあっただろうか。
 朋哉はいつも受身で、自分から何かを求めたことも、欲したこともない。
「家具は、私が揃えたの」
 リビングから続く扉を開く。
「趣味にあわなかったらごめんなさい。前の家にあったもので、サイズがあわないものは、買い替えるしかなかったから」
 自分でも、不自然だとは思いながら、凛世はバックを掴んで玄関に向かった。
「帰るわ、用があったらいつでも呼んで」
「凛世様も」
「朋哉、今は使用人ではないのよ」
「…………」
「これからのことはお姉様と話し合ってみて。私に……朋哉の未来を決める権利はないから」
 私たちは何だろう。
 そう思いながら凛世は扉を閉めたし、朋哉も追ってはこなかった。
 多分、二人をつないでいた何かが終わった以上、何かを始めなければならないのだ。
 でも、何をどうはじめたらいいのか、凛世には判らないままだった。

       4

 期待していたわけではないのに、インターフォン越しの声を聞いた途端、凛世は全身が心臓になってしまったような気がしていた。
「どうしたの」
 朋哉と別れてから、ずっと部屋の片付けをしていた。
 気がつけば、夕刻を大きく回っている。
「お茶をご用意しました」
 少し、くぐもった声がした。
「よろしければ、お淹れします」
「……うち、で?」
 途端に、普段着のまま、額に汗さえ滲ませている自分が恥ずかしくなる。
 どうしよう、そう思いながら、凛世は慌てて髪を結んでいた紐を解いた。
「用意したら、すぐにお暇いたします」
「ううん、部屋があまり片付いていないから」
「では、またに」
「あ、待って」
 お茶。
 古びたアンティークな屋敷ならともかく、この近代的な仮住まいのマンションで――。
 朋哉の変わらない律儀さに、凛世は思わず微笑んでいる。
 寝室に戻って薄いカーディガンを羽織る。
 扉を開けると、トレーを片手に、朋哉が静かな表情でたたずんでいた。
「台所をお借りしてもいいですか」
 覚えのある香りがした。
 昔、朋哉が薬草などから独自にブレンドしていたお茶の香り。
「屋敷から持ってきたの?」
「荷の中から、葉が出てまいりましたので」
 不思議な関係。
 きっと、今の会話を知らない人が聞いたら、一体何だと思うだろう。
 室内を見回し、少し黙ってから朋哉がおもむろに口を開いた。
「私の方で、メイドを手配しましょうか」
「えっ、それ、どういう意味?」
「いえ……別に」
 別に?
 絶対、部屋が片付いていないことを、暗に責められているに違いない。
「引越したばかりで、まだ荷解きの途中なのよ」
「見れば判ります」
「慣れないから、手間取っているけど……ちゃんとできるわ」
「だといいのですが」
 ――何、その言い方。
 凛世はむうっとして朋哉の素っ気ない横顔を睨む。
 知らなかった、朋哉がそんな皮肉屋だなんて。
「お湯を沸かすわ」
 けれど、同時に思ってもいる。自分はいったい、朋哉の何を知っているのだろう。
 幼い頃、包み込む様に護ってくれた朋哉しか、凛世は知らない。
 再会してからは、必要以上に他人行儀に、冷たくされた記憶しかない。
 本当の朋哉ってなんだろう――そして、朋哉も、本当の私を知らないのではないだろうか。
 二人で立つと思いのほか狭い台所。
 コットンのシャツに、ジーンズ姿の朋哉は、普段よりひどく若く見えた。
「一人でやってみたいの。引越しも、これからの生活も」
 あえて明るく凛世は言った。朋哉の横顔が微笑を浮かべる。
「そのようですね」
「朋哉をわずらわせるつもりはないわ。朋哉は、自分のことだけ考えていて」
 茶葉の缶を開ける朋哉の指から、懐かしい芳香が広がっていく。
 不意に、密室に朋哉と二人だけなのだという実感が押し寄せていた。
 姉もいない、まさ代もいない――たった2DKの狭い空間に、二人きり。
 会話が途切れると、ますます朋哉の存在が意識される。すれ違い、距離がふいに近づく度に、動悸だけが高まっていくような気がする。
「夕食はどうなさいました」
 朋哉の声は全くの普段どおりだった。突然声をかけられ、不様なほど驚いた凛世は、目を泳がせながら取り繕ったように答える。
「あ、うん……もう済ませたから」
「そうでございますか」
 それきり、再び沈黙が満ちる。
 要するに朋哉は。
 しまいこんだティーポットを探しながら、凛世は不思議な寂しさと共に考えている。
 朋哉は、今での生活を何ひとつ変える気はないのだ。
 御堂家の執事として、悠木家の伝統を守り、誰とも恋せず、結婚もせず――。
「……カップはこれでいい?」
 つま先で立ち、棚からカップを下ろして振り返った時、背後から肩を抱かれた。
 あまりに突然で、驚いて瞬きさえできない間に、大きな影が被さってきた。
「………………」
「………………」
 キス――の寸前でそれた唇は、そっと凛世の頬に触れる。
 動悸が煩くて、何も考えられなくなる。
「あの夜」
 耳元で、低い囁きがした。
「私は、死ぬものだとばかり思っていました」
「………………」
「というより、最初から私は、自分が死ぬことしか考えていませんでした」
 ――朋哉……。
 凛世は、痩せた腰に腕を回し、大きな肩に額を預けた。
「生きているわ」
「ええ」
 頬を離し、朋哉は頷く。
「それでも、あの夜、やはり私は死んだのです」
 片方の目で凛世を見下ろし、朋哉は微かな笑みを浮かべた。
「あなたが、新しい命をくれた」
 力強い声だった。
「物語のラストは、私が幼い頃に破り捨てました。結末を私は知っている、それをお知りになりたいですか」
 凛世は無言で首を振る。もうその必要はない。
 そして判った。姉に教えられても、どうしても得心できなかったことが――。
(悠木の家では、洞窟の扉の鍵を、結婚を約束した女に贈る風習があったそうよ。朋哉はそれを、最初から凛世に渡していたのね)
(――これを)
(――私の母の形見でございます)
 朋哉は最初から戦っていた。最初から――母に摺りこまれた自分の運命と、ずっと戦い続けていた。
「お嫁さんにして、朋哉……」
「…………」
「二十歳になったの、私」












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