エピローグ「失われた最終章」
1
「粘りましたがね、結局は精神鑑定ということになりそうです」
花は、彼には似合わないなと思いながら、「そうですか」と凛世は頷いた。
秋の終わり、空はもう冬空だった。
今朝は朝から晴天で、冷たい中にも乾いた空気が心地いい。
枯れたクローバーの葉が、かさりと音をたて凛世の膝に落ちてくる。
「ここは……墓地でもあったんですね」
狩谷登志彦はそう呟いて、用意した花を、新しい墓標の一つにそっと添えた。
ここに、悠木家代々の者たちの亡骸が埋まっている。
墓標として形になっていない人たちも含め、累々と。
「……不思議な……哀しい家系ですね、悠木一族というのは」
眼下に見える屋敷のほうから、取り壊し工事の音が聞こえてくる。
凛世は、風で流れた髪を直しながら頷いた。
「短命なんです。朋哉のお父さんもお母さんも……ひどく若くして亡くなりましたから」
「きっと、医学的な根拠などないんですよ」
狩谷は苦く笑んで立ち上がった。
「伝統や因習というのは、現代の呪術のようなものかもしれません。彼も、彼の家族も、過去から伝わる呪いに縛られたままだったのでしょう」
「呪いって……、本当にあると思いますか」
「ありえませんね」
男の回答は、小気味よいほど即座だった。
「例えばあなたの家系にしても」
長身の男は、少し不器用な笑みを浮かべた。
「本当にそのような体質の女児が生まれたのか、はなはだ疑問です。精神疾患というのは、見定めが大変難しい。因習に縛られたゆえに、形式的に地下に閉じ込められ……その結果、本当に精神に異常をきたしてしまった、そんな気がしますがね」
「…………」
「悠木君にしてもそうですが、人が……幼少時から刷り込まれた思いこみというのは、時には現実さえ動かしてしまいますから」
「……怪物は、元々は人間だったんです」
「え?」
「なんでもありません」
合わせた手を離し、凛世もまた立ち上がった。
「伯父様のことを、お聞きしてもいいですか」
「ああ」
本来の話を思い出したのか、狩谷は表情を引き締めて頷いた。
今日、彼は、その報告をするために、取り壊し工事が始まった御堂家を訪れてくれたのである。
「容疑者不在のまま起訴することになりそうです。櫻井厚志、日野原佳貴、それから……御堂成彦氏の殺害容疑で」
「そう、ですか」
凛世は黙って、沈黙する墓標を見つめる。
伯父の部屋の金庫の中から、罪状を告白し、自殺をほのめかした遺書が発見された。
香澄の会社に電話を入れたのは伯父だった。伯父があの夜、香澄をあの場所に呼び出したのだ。全ての決着をつけるために。
伯父は最初から死を覚悟して、凛世の罠に乗ろうとしていたのかもしれない。
「この件に関しては、素直に謝罪しなければなりません。僕は、御堂遼太郎氏と、灰原が接触しているのを知っていました」
そこまで言って、狩谷は、わずかに目をすがめた。
灰原靖男。
もし、呪いが本当にあったとしたら、それは彼の身体に降りかかったのかもしれないと、凛世は思う。
わずか三メートル弱の高さから落下した元刑事は、よほど墜落時の姿勢が悪かったのか、脊髄の一部を損傷し、半身に重篤な後遺症を負った。
男は今、衝き物が落ちたように全ての余罪を自供しているという。
「遼太郎氏が復讐の思いを募らせていったのは、灰原の入れ知恵のせいだったのでしょう。……灰原にしてみれば、秘密通路の入り口を遼太郎氏から聞きだしたかっただけのようですが」
「伯父様は、通路の出入口をご存知なかったんです」
「そう、しかも遼太郎氏は、むしろ灰原を警戒しはじめた。彼にしてみれば、例えどんな事情があろうと、祖先の秘事を警察に暴かれることだけは防がなければと思ったのでしょうね」
灰原の思惑は外れたが、伯父にとっては新たな葛藤の始まりだった。結果、御堂成彦、香澄、朋哉への憎悪を、人知れず募らせていったのだ――。
「狩谷さんは、……最初から、灰原さんを犯人だと思っていたんですね」
その質問には、狩谷はしばらく答えに迷っているようだった。
「そうです、……僕の父が、御堂枝理世さんの失踪事件を担当した。かつて御堂家の窃盗事件を担当していた灰原刑事に、最初にたどり着いたのは父なんです。けれど執念ともいえる捜査は、父の左遷という結末で終わりを告げた」
風が少し強くなる。
「言い訳のようですが、僕の気持ちをお判りいただければ幸いです」
狩谷が風上に立ち、凛世を庇うようにそれを遮る。
「お父様の……仇を討とうと思われたんですか」
「それは違う」
狩谷は苦笑したまま首を振った。
「僕はむしろ、家庭を一切顧みない父を憎んでいました。今でもよく判らない。どうして父と同じ道を選んだのか。どうして因縁のように灰原の下につき、御堂家の事件に関わるようになったのか」
狩谷の目に、もうかつての虚無はなかった。
「やがて僕は受け入れました……それが、自分の運命だと。受け入れて前に進むほか、僕に生きる意味はないのだと」
凛世は黙って、黒目が大きい狩谷の目を見つめる。
それは佳貴の声であり、姉の声であり、朋哉の声でもあるような気がした。
「あなたが朋哉につきまとっていたのは……朋哉の口から、屋敷の秘密を聞き出すためだったんですね」
狩谷は苦い目のまましばらく黙り、やがて静かに頷いた。
「……僕にとって、管轄外の少年課の事件はさほど重要ではなかった。村木登紀子さんが殺された件でも同様です。そういう意味では、僕は悠木君を利用して十八年前の事件を暴きたいとしか思っていなかったのかもしれません。……ある意味、一番残酷な真似をしたのは僕だったと思います」
凛世は何も言わず、ただ澄みきった空を見上げる。
理由はどうあれ、過程がどうあれ、今、狩谷が過去の呪縛から解き放たれたのであれば、もうそれでいいのだと思っていた。
「姉があなたに、父の手紙を見せたんですね」
「ええ、随分頑なに警察を拒んでおられましたが……あの人も、限界だったのでしょうね。」
ずっと、一人で、問題を解決しようとしていた香澄の限界が、精神的に頼りにしていた日野原佳貴の死と、朋哉の逮捕だったのかもしれない。
香澄は最後に狩谷を頼り、真実を打ち明けることと引き換えに、朋哉の釈放を懇願した。皮肉にもその日、凛世は伯父を罠にかけることにより、朋哉の無実を暴こうとしたのだ。
それが、朋哉を暴走させた。
朋哉は本能で、灰原という男の危険性を察したのかもしれない。
あんなことさえしなければ、朋哉は無事に釈放されていたのかもしれないのに――。
凛世はそれを、今でも苦しいほど悔いている。
「最後に、ひとつお聞きしていいですか」
歩きだそうとした狩谷の背に、凛世は声を掛けていた。
「灰原さんは十八年前、洞窟で何を見たんでしょうか」
2
「灰原は語りません……全ては、憶測でしかないのですが」
わずかな躊躇いをみせたあと、狩谷は淡々と語り始めた。
「二十年近く前、御堂邸に侵入した窃盗犯……つまり、灰原に情報を売った男から聞きだした話です。昭和六十三年のクリスマスの夜、灰原は一人で御堂邸に盗みに入り、その夜を境に人が変わってしまったということでした」
「変わった……」
「そう、まるで別人のように。そして二度と、あの洞窟には入りたくないと言っていたそうです」
凛世はふと、手肌に鳥肌がたつのを感じた。
洞窟の中で、灰原が口走っていたことを思い出す。
灰原が見たのは、肖像画でも過去の殺人の証でもない。おそらくそれが引き金となって見てしまった、怪物としての自身の顔、だ。
灰原は無論、御堂夫人、枝理世の顔をよく知っていただろう。
肖像画と瓜二つの顔を持つ女が、彼の目の前で夫に殺されたのを目撃した時、彼は、何かのラインを踏み越えてしまったのかもしれない……。
ふと、凛世に目をとめた狩谷が言葉を止める。
「もう、戻りましょう、随分冷えてきた」
「……伯父様のこと、よろしくお願いします」
凛世は、それだけを言って、頭を下げた。
「他のことは判りませんけど、……日野原さんに関して言えば、伯父は、……私のために、あんな真似をしたんじゃないかと思います」
助けてという悲鳴は。
朋哉ではなく、伯父の遼太郎に届いていたのだ――。
「…………」
狩谷は黙ったまま、視線をきらめく湖に向ける。
事件当時、泥にまみれ、踏み潰されていた場所には、今はきれいな水が再び湧き出し、ふもとの川に流れている。
「悠木家というのは、色んな知識と技術に長けているのですね、……この湖の下に、地下への入り口が隠されていたとは」
狩谷が呟く。
「確かに航空写真を見比べると、昭和六十三年と平成に入ってからでは、微妙に湖の位置が違っていた。ここから侵入者が入っていたことに気づいた朋哉君が、水をせき止めて流れを変え、湖で進入路を塞いだんですね」
狩谷の視線の先。
もともと湖でふさがれていた箇所は、今は掘り起こされ土砂が周囲に積み上げられている。
「当時は積雪がひどく、裏山に登った経験がある者もいなかった……さすがに灰原も、どうして入り口が一夜にしてなくなってしまったか、理解できなかったんでしょう」
言葉を切った狩谷が、懐に手を入れて、そして出す。
手には、一枚の封書がある。
「拝見しました。悠木朋哉が、御堂遼太郎氏を庇い続けた動機……それから、遼太郎氏が日野原佳貴を殺害した、本当の動機になるのでしょうが」
「…………」
「日野原佳貴の遺体には、長時間にわたって救命措置をほどこした形跡があった。おそらく、朋哉君がしたことでしょうが、彼はそれを頑なに認めなかった」
「伯父様がやったと言ったのでしょう」
「そうです、……手紙はお返しします。僕は沈黙することが、故人の意思を尊重することになると思う」
「…………」
「僕は、ずっと確信していました。灰原が犯した殺人の証拠は、秘密の通路の中に残されているはずだと。何年も沈黙を守っていた灰原が、何故急に、動き出したのかは判りません。成彦氏の死や櫻井の死が、関係していたのかもしれませんが、灰原が一番気にしていたのは、屋敷がいずれ、取り壊されるということだったように思います」
きっかけは、私だったのかもしれない。
狩谷の手から手紙を受け取りながら、凛世は静かにそう思った。
私は、お母様によく似ている。あの肖像画の女によく似ている。
それこそ、推測でしかないけれど――。
「僕はあなたを動揺させ、あなたを利用して、悠木朋哉に秘密の通路を開かせようとした。あなたは昔から、屋敷の中ではどこか異質の存在で……僕にとっての突破口は、あなたしかなかった」
陽が、濃く翳っていく。
「もっと別の方法でアプローチしていれば、少なくとも日野原氏の事件は防げていたと思います。……手紙のことは、僕一人の胸にしまってある。忘れましょう、お互いに」
そろそろ、この長い告白も終わりにしよう。
さて、日野原君。
このままペンを置こうとも思ったが、どうもそれはフェアじゃないと気がついた。
最大の秘密を、僕は君に隠したままでいるからね。
それは、我が家の複雑な人間関係だ。言ってみれば――あらゆるものの動機だよ。
悠木朋哉は私の息子だ。
嫌味なほど父親によく似た……その父親とは、実は私のことだったのさ。
むろん、朋哉はそれを知っている、私が全て話したからだ。
執事の妻との関係は、むしろ私には復讐で、そこに同意はひとかけらもない。死んだ三千代が、どれだけ私を恨み、……朋哉がどれだけ頑なに私を拒んだか、想像にかたくないだろう。
そう、つまり朋哉には二つの意味で動機がある。
父である私を庇う動機と、私を絶対に庇うはずがない動機だ。
そして、もうひとつ。
凛世の父親のことだ。
枝理世と櫻井が再会したのは、凛世が生まれた後ことだ。
血液型でもはっきりしている、彼は凛世の父親ではない。
むろん私の子でもない。枝理世には軽い妄想癖がある、念のためにDNA鑑定をしてみたんだ。私にとっての救いを求めてね。
結果は不幸なものだった。
では、誰の子供なのだ?
当時、屋敷に出入りしていた男は使用人くらいだが、私には、その誰もが凛世の父親だとは思えなかった。
しかし、ある時、まるで天啓のように、私はそれが誰だか理解したのだよ。
そう、知ったのではなく、理解したのだ。
彼しかいないと。
それは、凛世を守るためなら、おそらく殺人さえいとわない男だ。
そして、枝理世を手にかけた私に、近い将来、おそらく死の制裁を加える男だ。
君がこの手紙を読む頃、私はこの世にはいないだろう。
最初に言った。この手紙は遺書ではないと。
なぜならこれは、私のダイイングメッセージだからだ。
君が、全ての謎を解き明かしてくれることを期待している。
私の愛する、2人の娘を守るために。
御堂成彦
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