5

「朋哉!」
 自分の声が乱反射して戻ってくる。
「来られてはなりません!」
 長い階段の上、闇の向こうから、朋哉の厳しい声が返ってきた。
 激しい息遣い。重みを帯びた物同士がぶつかる音。呻き声。砕ける岩。この通路の向こうで、明らかに男二人が格闘している。
「朋哉、待って」
 激しい動悸を感じ、凛世は階段を駆け上がった。
 闇の中で強い光が乱高下している。
 おそらく灰原が、懐中電灯を持っているのだろう。
 鈍い、嫌な音がした。低い呻き声と共に光が地面に転がり落ちる。灰原が倒れたのだろうと凛世には判った。闇の中、一匹の獰猛で美しい獣が、最後のとどめを刺そうとしている。
 ――だめ、朋哉。
 早まったことをしないで、お願い。
「ば……化け物めっ」
 灰原の声が、初めて聞こえた。そして、恐怖に満ちたか細い悲鳴。
 階段を登りきった先には、平地があった。
 考えるより――確かめるより、凛世はただ全力で走り、飛びついていた。喚きながら倒れ伏す灰原にのしかかり、拳を振り上げようとしている男に。
「朋哉、やめてぇっ」
 朋哉は振り返らない。背後の凛世をも振りほどく勢いで、放たれた拳が、灰原の顔に振り落とされる。
 口から血を吹きこぼし、灰原が苦しげな悲鳴をあげる。
「やめて、朋哉!」
 もう一撃。そして朋哉は、動けない灰原の首に両腕をかけて持ち上げる。それを、反動をつけて岩しかない地面に叩きつけようとする――「朋哉!!」その腕に、凛世は身体ごと飛びついて、朋哉の身体を押し倒した。
「朋哉、やめて……」
「………凛世様」
 まるで夢から、今覚めた人のように、朋哉は呆然と立ち尽くしている。
「朋哉……」
 凛世は駆け寄り、無抵抗に立つ身体を抱きしめた。
「もう……いい」
「…………」
 もう。
 もう、守らなくていい。
 おびえた小動物さながらに、跳ね起きた灰原が、飛びずさるように立ち上がった。
「人殺しの化け物め……」
 転がった照明が、丁度男の顔を照らしだしている。蒼白な顔、口中を切ったのか、唇からは血を吹き零している。
 凛世を背後に押しやり、朋哉は即座に灰原に向き直る。が、すぐに膝が崩れ、肩で荒い呼吸を繰り返す。
 致命傷を負っているのは灰原ではなく朋哉だと――凛世はようやく、凍りつくような思いで理解した。
 動けない二人を見下ろし、灰原はふてぶてしい笑みを浮かべた。掲げた手には、鎖のようなものが揺れている。
「鍵は、この通り、俺がもらった」
 肩で息をする朋哉は答えない。凛世は朋哉の背を見ている。では、格闘していた理由は――楔のネックレスを取り戻すためだったのだろうか。
「その鍵では、外に出ることはできませんよ」
「嘘をついても無駄だ!」
 灰原がわめいた。
「俺は、ここで隠れて見張っていたんだ。必ずお前がくると思ってな。お前はこの鎖を使って外に出ようとしていた。そうだろう、悠木」
 朋哉の背中は動かない。
「出口さえ塞げば、お前たちは永遠に地底の牢獄から出られない……」
 そして灰原は、声もなく笑った。
 忍び笑いは、やがて甲高い哄笑に変わり、あきらかに常軌を逸した笑い方になる。
 ――この男は……いったい何を見たのだろう。
 凛世はむしろ、肖像画を見たより激しい恐怖を感じていた。
 忍び込んだ洞窟で、この男は、偶然肖像画に行き着いたのだろうか。それとも、他にもっと恐ろしいものを見たのだろうか。
 小悪党にすぎなかった男を、殺人鬼に変容させてしまうほどの何かを。
「怪物とお姫さまか、二人してこの悪魔が棲む洞窟で、息が耐えるまで隠れ続けているといい」
 言い捨て、灰原は背を向けて駆け出した。
 奥まった岩肌で、金具がぶつかりあう音がした。灰原が掴んでいるのは――頭上から伸びている金梯子だ。
 朋哉が身を翻したのは、その時だった。
 灰原が隙をみせるのを待っていたのか、止めるまもなく小さな背に覆いかぶさり、もがく首に両手をかけようとする。
「朋哉!」
 それより早く、凛世が朋哉の腕を捕らえる。
「お放しくださいませ」
「朋哉!」
 朋哉の背中にしがみつき、灰原から引き離した凛世は、渾身の力で頬を打った。
「もういいの、朋哉、もう私、知ってるから」
 肩で息をしたまま、朋哉の手が、灰原から離れる。
「知っている……?」
 朋哉がぎこちなく振り返る。凛世は黙って頷いた。
 ライターを頼りに、読んだ手紙。
「そんなことなんでもなかった。……朋哉と兄妹かもしれないって思ったことに比べたら、なんでもない」
 凛世は笑おうとして、泣いていた。
「それが何なの、朋哉。それくらいのことなんでもない、私はそんなことじゃ傷つかない」
「…………」
「朋哉が言ってくれたんじゃない、私のこと、どこにでも根を下ろすタンポポだって」
 どうでもいい。
 朋哉を失うことに比べたら。
 力を失くしたように膝をつく朋哉を、支えるように抱きしめる。
 ――朋哉……。
「……もう、私のために」
 何も、失わなくていい。
 もう、何も……。
 何も言わず、ただ、うつむいている朋哉の顔色が、ひどく白い。
 凛世は絶望的な気持ちで、白いシャツを赤く染めている血の広がりに目を向けた。
「……動かないで」
「大丈夫です」
「助けを呼ぶわ、ここで待っていて」
 地面に血溜りが出来つつある。かなりの深手であることは、もう動く力を失いつつある朋哉の反応から明らかだった。
 立ち上がった凛世は、頭上を見上げた。
 ぼんやりと灰原の姿が見える。すでに男は、梯子を伝い天辺近くまで昇っている。
 梯子に手をかけようとした凛世の腕を、朋哉の手が掴んでとめた。
「放っておかれることです」
「でも」
 このまま地上に出られて、そして出口を閉じられたら。
 瓦解した館側の入り口に戻ることはもうできない。
 というより、そんな時間は多分ない。
 朋哉の腕を振りほどいた凛世は、今度は、強い力で抱きとめられていた。
「朋哉」
 振り返った朋哉は、見えない両目を閉じたままで首を振る。
「……死なせたくないのよ」
 凛世は唇を震わせた。
 せっかく、せっかく離れていた心が、ひとつに繋がったと思ったのに。
「死には、しません」
 蒼白な顔で朋哉がつぶやく。
「彼は、外へ出ることは出来ないでしょうから」
 ――え……?
「私は言いました。内側の鍵はあなたしか持っていない」
 凛世が、上を見上げるのと、灰原の悲鳴が聞こえたのが同時だった。
 頭上から土砂と水が、勢いよく降り注ぐ。
「な、何?」
 大量の水と一緒に、激しい音を立てて、男の身体が転がり落ちてきた。
 妙な声をたて、もんどりうった灰原が動きを止める。
 白目を剥いて、口からは泡を吹いていた。
「彼が開いたのはトラップです。開けた途端、湖の水が流れ込むようになっている」
 朋哉の声は、静かだった。
「本当の扉は、鍵がないと開かない」
 その手のひらが、凛世に胸にそっと触れる。
 それまでの、どこか含みのある静かさではなく、憑き物が落ちたような柔らかな声だった。
「助けを、呼んできてもらえますか」
「朋哉……」
「……お待ちして、おります」
 凛世は、自身の上着を脱いで、それで朋哉の腹部を強く縛った。
 仰向けになった朋哉は、目を閉じたまま手を差し出す。
 凛世はその手を掴み、自分の胸の上に当てた。
 たとえこれが、今生の別れになっても。
「………私の、心臓をあげる」
 朋哉が、わずかに笑った気がした。
「……愛してる……朋哉」
 そしてかがみこみ、冷えた唇にキスをした。









>top  >next >back