3
――なに、これ。
恐怖に全身を抱きすくめられて動けない。凛世は固まったまま、目の前の巨大な絵画を凝視した。
肖像画だ。
白と黒、そして鮮烈な赤のコントラスト。
西洋人形のような、無機質で虚無の微笑。
何よりも不気味なのは、まるで子供のいたずらのように、赤色でぐちゃぐちゃに塗りつぶされている目と、そして……。
「……おかあ、さま?」
凛世は、指先が焼けるのもかまわず、思わず声をあげていた。
似ている。
印象が、写真の母によく似ている、髪の雰囲気が違うだけで、怖いほどよく似ている。
――これは……お母様の、絵?
「お母様とは違う方よ」
背後で、姉のかすれた声がした。
凛世の後をついてきたのか、壁に寄りかかるようにして立っている。
「私の記憶が正しければ……大正の終わりごろの方。私たちの……何代目か前の、ご先祖にあたる方」
「なんで、この絵は……こんなひどい状態に?」
「傷跡を見て御覧なさい、それは、ついさっき、灰原がやったのよ」
灰原が?
凛世は、震える手で、切り裂かれた断面に触れてみる。確かにそこは新しく、表面とは明らかに年代の差があった。
「どう……して」
怖い。
というより、薄気味悪い。
存在さえ隠されていた洞窟に、どうしてこんな恐ろしい絵が飾られているのだろう。
「やっとここに戻って来た。お前は満足か、お前はそれで満足か、……まるで気が触れた人のように喚きながら、ナイフで絵を切り裂いて……何かにとり憑かれたように切り刻んで、……それから、悲鳴をあげて逃げて行ったわ。実際、半ばおかしくなっていたのかもしれない」
灰原のことだろうか。凛世はぞっと鳥肌の立つのを感じ、背後の姉を凝視した。
「どういうことなの……? ここは、そもそもいったい何のための場所なの」
「ここはね、見たとおり、牢獄だったのよ、うちの屋敷の」
牢獄。凛世は顔を強張らせたまま、ただ闇に浮かぶ姉の顔を見る。
「御堂山に棲む、人食いの怪物の話………凛世は、聞いたことがある?」
ライターが消えて、再び闇が周囲を満たした。
「もう伯父様が焼き捨ててしまったけど、私は読んだことがあるの、この屋敷に伝わる古文書をいくつか」
一時黙った姉の唇から、かすかな吐息が漏れるのが判った。
「戦国の頃の話よ……。当主の娘が重病になって、ふらりと立ち寄った異国の医者が、若い娘の生き目を刳り貫いて煎じるといいと進言したそう。……御伽話のような本当の話……」
「……それで?」
寒気がした。鳥肌が立つ腕を抱いて、凛世は訊いた。
「実際にそうしたんでしょうね。だからあんな異様な伝承が生まれた。殺された娘の一人に陰陽師の血を引く者がいて、娘は死に際にこう言ったそうよ。末裔まで御堂家を呪ってやる。この報いは、御堂の血を引く娘の身に必ず降りかかるだろう――。そして、……江戸に入った頃から、うちの家系に、隔世で精神に障害を持つ娘が生まれるようになったそうなの」
「本当に?」
さすがに驚きを隠せないまま、凛世は声を上げていた。嘘としか思えなかった。そんな――そんな話、今まで一度も聞いたことが無い。
「古文書の記述が本当ならね。さらに言えば精神を病んだ娘の全員が、二十歳には片方の目を失明したそうよ」
「……お母様は」
衝撃で凛世はよろめき、迷いながら言葉を繋ぐ。私にもお姉様にも、そんな兆候は見当たらない、それが隔世というなら、では、お母様は。
姉が、疲れたようなため息をもらす。
「……左目は生まれつきの弱視……、お母様にも、若干の躁鬱の気があったのは確かよ。でもそれは、呪いというより、この屋敷の異常な環境のせいだと思う」
「…………」
「もしかすると、御堂家に昔から伝わる体質が、逆説的にありもしない伝承話を生んだのかもしれない……判らないけれど」
姉の顔が、闇にまぎれた肖像画に向けられたような気がした。
精神を病む?
片目を失明?
まだ、凛世は混乱している。全てがいきなりすぎて、頭で上手く咀嚼できない。
「でも、そんな話、本当だったら、……どうして今まで噂にもならなかったの」
認めたくない。必死の思いで凛世は姉に訴えた。
あれほど噂好きな、親戚の口からも聞かされたことがない。
御堂山の伝承の主役はいつも悠木家で、御堂家の名前がそこに出てきたことなどない。
「だって、どこにも記録はないんですもの。障害を持って生まれた娘たちはみんな、死ぬまで牢獄から出されはしなかったから」
姉の声は、随分前に葛藤を捨て去った人のように淡々としていた。
「そんなひどいことが、大正時代までまかりとおっていたのよ、うちの家は」
そのための、牢獄――。
凛世にはもう、何も言えない。
「この肖像画の女性は」
姉の眼差しが、肖像画の女性を捕えた。
「大正の終わりに生まれて、半ば気が触れた状態で、ここに閉じ込められたそうよ。……気の毒に、気が触れたから閉じ込められたのかしらね、それとも、閉じ込められて気が触れたのかしらね。やがて山頂から麓に降りては、本当に若い娘を殺めるようになったそうよ、この絵の通りの方法で」
赤く、塗りつぶされた片方の目。
「……本当の話なの?」
震える声で凛世は聞いた。
「噂でなく、それは本当の話なの?」
「本当よ」
香澄はあっさり頷いた。
「戦時中のどさくさにまぎれて、全ては闇の葬られたという話だけど、これだけは本当。悠木の先代が始末したそうだけれど、ここには……この忌まわしい洞窟には、いたる所に、彼女が犯した罪の証が飾られていたそうよ。……想像するだけで、胸が悪くなりそうだけど」
「…………」
「朋哉も、まさ代も、この洞窟の中に何があるか、場所も入り方も含めて、私には絶対に言おうとはしなかった。それはそうね……子供の頃に、そんな話を聞かされていたら、正常な神経の者でもおかしくなっていたと思うわ」
「どうして、じゃあ」
凛世は、自身の震えをこらえながら、姉に訊いた。激しい疑念が、頭の中で渦を巻いている。
「どうして、悠木の人が片方の目を失うの!」
片方の目を失うという不思議な奇病は、悠木家にこそ伝わるものではなかったか――。
4
「……偶然かもしれないけど……そうね、これは私の仮説だと思って聞いて」
香澄はそう言うと、物憂そうに目を閉じた。
岩肌に寄りかかるように座り込む。もう、口を聞くのも辛そうだった。
「悠木家は、主家にまつわる黒い噂を、自分がかぶろうとしていたのじゃないかしら」
「自分が……?」
「悠木家の場合、中途失明は、病気ではなく殆どが事故よ。中には、故意に……そういった傷がないにも関わらず、あるふりをしていた。そんなケースもあったんだと思う」
「………どういうこと?」
意味が判らない。わざと目を失った振りをしていたということだろうか。
でも、なんのために。
「御堂山の呪い……呪いを受ける側の人間に、彼らは、私たちの祖先に代わってなろうとしてくれていたんじゃないかしら」
続く姉の言葉に、あっと、凛世は息を引いていた。
「同時に、御堂山に伝わる怪物にもなってくれたんじゃないかしら……本当の怪物だった、私たちの祖先に代わって」
「…………」
そうだ――
きっと、そうだ。
村木芳子も、完全にそう信じている。悠木家の者が異常だと。
本当は、本当はそうではなかったのに――。
「……凛世……今まで、ごめんね」
香澄が、小さく呟いた。
声に、張りがなくなっている。
苦しげに前かがみになった姉の傍に駆け寄り、凛世は、熱で燃える身体を抱いた。
「あなたのことは、妹だと思ってた……可愛かった、本当よ。それでも私には、どうしても超えられない壁があったの」
「もういいわ、今はお話にならないで」
「五年前のことかしら……私のところに、櫻井さんという男の方がいらしてね」
「櫻井……厚志」
びくり、と身体が震えた気がした。
香澄は今、凛世の真実を語ろうとしている。
「そう……お母様の恋人だった人」
言い差し、そこで香澄は苦しげに言葉を切った。
「どんな……人だったの、櫻井さんって」
「昔は素敵な人だったのかしらね。……私の前に現れた時、その人はただの脅迫者だった。というより、御堂の家を、ただ恨むことで自己責任を回避するような、そんなくだらない男だった」
「……脅迫って……この洞窟のこと?」
それには答えず、香澄は薄く微笑した。
「櫻井さんの脅迫は続いたわ。要求は次第にエスカレートしてきて、……そうね、口には出せないことまで要求してくるようになったのよ」
瓦解の音が地上から聞こえてくる。今頃騒ぎになっているのかもしれない。
「それを助けてくれたのが、……朋哉よ」
朋哉。
凛世ははっと身体を強張らせている。
「あの日……朋哉はね、自分で自分の目を切り裂いたのよ」
――え?
どういうこと?
朋哉が、自分で――
自分で目を?
「……どういう…こと…?」
一瞬耳を疑った凛世は、呆然と呟いた。まるで想像の範疇を超えている。
というより意味が判らない。いったいどうして、そんなことを。
「朋哉はね、病気なのよ、もう子供の頃から、ずっと」
「………暴力に歯止めがきかないって……そういうこと?」
「そんなものじゃないわ」
香澄は首を振り、苦く笑った。
「怪物とお姫さま……その絵本の存在を、櫻井さんに聞いてはじめて知ったわ」
「…………」
「朋哉は棄てたと言っていたけど、それでも、万一凛世が持っている可能性に賭けて、あの手紙を書いたのよ……読んだわ、どういう方法で読んだか聞いたら、あなたは気を悪くするだろうけど」
「通路の秘密を、調べようとなさったの?」
「いいえ」
薄く開いていた目が、疲れたように閉じられる。
「朋哉の正体を知るためよ」
朋哉の。
「朋哉はね、あの小さな館でお母様と二人きり、毎晩毎晩、あの絵本を読んで育てられたのよ」
「……………」
「あれはね、朋哉の父親が、御堂家と悠木家の関係を皮肉って書いたものなの。わかるでしょう? 怪物が悠木家の執事で、お姫さまが御堂家のお嬢様」
「……………」
「朋哉はね、自分の存在を、お姫さまを守るためだけの怪物だと言い聞かされて育ったの。毎晩、毎晩、それこそ、自分のパーソナリティを壊されるまで、繰り返し繰り返し」
私は。
そのためだけに、生まれてきたのですから。
「どうして……?」
「………贖罪……だったのかしらね、子供にとっては残酷な」
贖罪?
「………これを、あげるわ」
呆然とする凛世に、姉が、ポケットから折りたたんだ紙を取り出した。
「お父様の遺書……最後の一枚だけ佳貴から預かったの、説明しなくてもわかるでしょう」
三枚目。
本当に、あったんだ。
指の震えを懸命に堪えて紙を広げてみる。暗くて、文字が読み取れない。
「それに、全てが書いてあるわ、全てがね」
「……………」
「読めば……理解してもらえると思うわ、私と朋哉の関係も、全て」
「お姉様は……朋哉のことが」
香澄は無言のまま、その質問を遮るように、長い睫をわずかに伏せた。
「朋哉はどうして、自分の目を切ったんだと思う?」
「………絵本の、とおりに?」
動揺したまま、凛世は答える。
それも、主家の罪をかぶるため……?
「櫻井さんは、架空の怪物が本物になったようで、本当に怖かったんでしょうね。私も怖かった。朋哉は……気が違ってしまったのかと思ったけれど」
姉はかすかに嘆息した。
「そうじゃないのね、彼は、この程度のことなら容赦なくやりますと、自身を傷つけることで、逆に櫻井を恫喝したのよ」
「…………」
だから。
凛世は、軽い衝撃を覚えて手のひらを握り締める。
だから朋哉は、目の傷をあのままにしていたんだ。
「朋哉にはね、そこまでしても絶対に守りたい秘密があるの。おそらくそれが、死んだお母さんの遺言だったんじゃないかと思う」
「………この、洞窟の中のことね?」
かすかに笑い、香澄は力なく首を横に振った。
「それもあるけど、もっと……もっと重要なことよ、凛世にも……朋哉にも」
「…………」
「その秘密を守るためなら、朋哉はなんだってするわ。目など惜しくもないし、伯父様の罪をかぶって服役するくらいなんでもない」
なに?
どういうことなの?
「どうでもいいことよ、知ってしまえば笑えるくらい……でも、朋哉は、悲しいくらい、その呪縛から逃げられないの」
笑う香澄の目が、ふと険しさを帯びて一点で止まる。
「……凛世、早く行きなさい」
「え?」
「私のことはいいから、朋哉を早く追いかけて」
香澄は、強い力で、凛世の腕を掴んだ。
「どうして気がつかなかったんだろう。朋哉は多分、灰原を殺すわ。そのつもりで追いかけているのよ。この場所を知っている灰原を、朋哉は絶対に許さない」
困惑する凛世の腕を、香澄はますます強い力で揺さぶった。
「朋哉は何の罪も犯していない。ただ、秘密を守ろうとしていただけ。朋哉を本当の殺人犯にしては絶対にだめ!」
凛世を見下ろす香澄の目に、薄く涙が滲んだ気がした。
「朋哉を愛しているわ……弟じゃなかったら、本当に愛してた」
弟――。
はっとして凛世は瞳を震わせる。
「朋哉を助けてあげて、彼にかけられた魔法を解けるのは、凛世だけよ」
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